第23話 馬脚
時が経過した。
新しいハード基板に合わせて新しい開発環境を整え、さまざまな雑用を片付ける。これから始まる作業を想定し、決めておくべきことを決めておく。
例えば記述規約。複数の人間が一つの巨大なプログラムを作るとき、書き方を予め決めておく。こうしないと最後にはつぎはぎだらけのフランケンシュタインの怪物が出来上がってしまう。怪物の場合は見栄えが悪いだけできちんと動くが、プログラムの場合は大混乱の元となるのでそうはいかない。だから最初に決めておく。
例えば、プログラムの更新手順。誰かがプログラムの一部を直しているときに、他の人間が知らずに同じように作業をすると、古い部分と新しい部分が混ざり合って収拾がつかなくなる。
「セマフォ~だああ!」叫びながら、実験室のどこからでも見える位置にノートをぶら下げる。
セマフォとはマルチタスクシステムで用いられる同期制御用の仕組みのことである。聞く方がこの専門用語を知っているいないに関わらず、ただ叫んでみた。
「プログラムを更新する前にこのノートを奪う。更新した後に日付を書いてノートを戻す。ノートが手の中に無ければ更新は許されない。判ったか!」
実に原始的なやり方だがうまく働くはずである。そして実際にうまく働いた。
当然だ。このノートを電子情報に置き換えたものが実際に使われるセマフォなのであるから。
さらに時が経過した。
頑張って仕事を進めたので、先行してやる事が一つも無くなった。
「あの~、仕様書はどうなっているんでしょう?」
昼ギツネ課長に尋ねてみた。
「約束の期限はとうの昔に過ぎているんですが」
仕様書は俺が書くと並み居る管理職たちの前で豪語したおぶさりてぇお化けのT氏は別の課なので、これは課長レベルを通す話だ。
どこか上の方を情報が流れ、やがてT氏が飛んで来た。手に何やら薄っぺらな紙切れを持っている。
「仕様書だ」手に持った薄い紙を机に叩きつけた。
拝見した。
一枚目は表紙だ。何なに。新プラズマディスプレイ製品仕様書。なるほど。
二枚目は目次だ。目次、と一言だけ書いてある。
それで紙切れは終わりだ。
「後は随時追加するから」捨てゼリフを残して、てへへと笑いながらT氏が消える。
これで会議の席上で本人自ら大見得を切った仕様書はソフト部隊に渡したことになるらしい。
ええと、結局、その、この仕様書って・・・なに!?
タイトルと空の目次だけの仕様書。長い間技術者やっているけど、こんなもの見たの初めてだ。
夢想してみた。これをコピーして、仕様書検討会議と称して部長と課長の面々を集め、真面目に討論する。皆さんご覧ください。これがT氏渾身の仕様書です。
それもいいなあ。
しかし、そんなことができるだけの鉄面皮ならば人生に苦労はしない。いや、逆だ。そんなことができたら人生に苦労しなくなるんだ。要はT氏は私に甘え切っているということなのだから。
赤の他人に甘えて来る人間の顔には拳をめり込ませるのが一番良い。今ではそう思っている。
もういい、ダメな人間に期待をかけるのは諦めた。おぶさりてぇはどこまで行っても役立たずだ。
T氏を無視して、先へ進む決意を固めた。
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