第8話 拾い食い
T氏が勝手にどこかから仕事を持って来た。
この職場の最上階にある研究所というところのO氏のヘルプである。
キーの入力ルーチンを作っているのだがどうしてもうまく行かないらしい。
どうして研究所の仕事がこっちに来るの?
疑問に思っても仕方がない。今までにこちらに押し寄せて来た仕事が消えたことは無い。常に私がケツ拭き係なのだ。
しかし、この仕事、本当はどこの仕事だ?
管理職クラスを通さずに直接当事者間で動いた仕事は、手柄は押しつけた側が取り、押しつけられた方の一方的な損となる。
こっちも組み込み系ソフトは初めての世界だ。こちらに仕事を押しつける道理そのものが無い。
M部長にこれが正式な仕事かどうか聞きたかったが、部長は大忙しらしくて滅多にこの課に顔を見せない。
T氏が勝手に仕事を受けてこちらに持って来た可能性が大きい。そうやって私の作業時間を犠牲にして周囲に自分の顔を売っているのだ。
このクソ野郎。こちらがどれだけ忙しいのか分かっているのかこの野郎。
もう嫌だこの人。どこまで人を食い物にするつもりだ。
それでも実際には正式な仕事である可能性があるので、ざっと状況を分析してチャタリング除去付きキー押し判定ソフトを組み上げる。
接点式キー入力はわずか一本の信号線を読み取るだけの簡単な構造に思えるが、実際には複数の状態遷移を綺麗にトレースしないとうまく動かないという代物だ。そこまで複雑ではないが見た目ほどには簡単ではない仕事の代表である。
創り上げたプログラムは実験装置がないので試験もしていない。これ、動くかどうか判らんぞ。
どこかで暇を潰していたT氏がいそいそと現れてプログラムを持って行く。
「流石ですね。一発で動きましたよ」顔も知らないO氏からのコメントが届く。
「実はリモコン受信もうまくいかないのですが、見てくれませんか」
なし崩しである。それお前の仕事だろ。ここは別の課なんだぞ。この会社もおぶさりてぇの集団なのか。
ええい。怒りとともに資料を貰い、分析する。変だな、これなら動くはずだぞ。
実験用の基板を借りる。オシロスコープという計測器を使い、信号を確かめる。
無い。来るはずの信号が・・・無い。
回路図を見て、信号処理の途中に入っているCR積分回路のパーツの値が間違っているのを知る。値が10倍違う。これではリモコンのリーダー信号がコンデンサにすべて呑まれてしまう。実に簡単なケアレスミス。
問題外だ。他の人に作業を押しつける前に、信号を確かめる作業ぐらいは自分でやるのが筋というもの。
本人を前にどこが間違っているのか説明する。
もの凄く苛々した。この相手の作業態度もそうだが、会話そのものが苛つくのである。
応答が遅い。それももの凄く。打てば響くようなという諺があるが、その真逆である。打っても響くのがもの凄く遅い。しかも一つ話を聞くたびに、首をかしげてペンで書きとめるのだが、これがまた遅い。その間こちらは辛抱強く待つことになる。
原因に気付いた。
よく本屋で見かけるビジネス書に、自分を賢くみせる方法、などと銘打ったものがあるが、それを実践しているのだ。
いわく、相手の言葉に返事をするときは、一呼吸を入れて返事をし、考えているふりをせよ。
いわく、相手の言葉はかならずメモ書きをし、興味があるふりをせよ。
こういった本は間抜けの書く本であり、間抜けの読む本である。
頭の回転が遅い人間がこれを実践するとどうなるのか?
本人はほどほどの時間で応答しているつもりでも、他の人間から見るとこいつは寝ているのじゃないかと思わせるほどの遅さとなる。
そしてこのリズムの遅さが苛つきの原因となる。
そもそも一緒に仕事をすれば、相手の頭の中がどうなっているのかなんて、すぐに判る。下手な偽装など何の意味も無い。
むしろこの種の偽装は頭の回転が速い人間にこそ必要である。あまり素早く返事をすると、この人は良く考えないで生返事をしていると疑われるからだ。だから私は返事をするときに一呼吸を必ず入れる。そうしないと本当にこいつは質問を聞いていたのかと、同じ質問を二度されることになるからだ。
なし崩しに彼の仕事のすべてがこちらに来た。
本来はO氏がやるはずだった映像プロジェクタのソフト作りだ。工程の進め方としては余りにも異常だ。きっとT氏が勝手に安請け合いしたのだろう。
二週間かけて製品レベルにまで仕上げた。
ようやく作業が終わり、自分の席に戻る。この仕事の遅延は、本来の仕事の工程に入れて貰えるのだろうか?
もちろん、入れては貰えなかった。二週間の間に進めているように指示しておいた元の仕事も全然進んでいない。右も左も判らぬ新人三人はともかく、ベテランのはずのN氏も何も進めずにのほほんと日々を過ごしている。
ああ、こいつもダボハゼ組、働かない会社員の一人だと判った。
畜生、クズどもめ。こうなれば全部一人で片付けてやる。
蛇足)
さて、この研究所の出来ない君のO氏。出入りの営業の人に見染められて目出度くヘッドハンティングされて消えてしまいましたとさ。
彼の稚拙な『出来るヤツ偽装』はうまく働いたようである。
人間というものはなんと見る目がないことか。
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