第7話 お邪魔蝶
T氏が周りをヒラヒラと飛び回っている。
この会社に元からいたI氏と頭を突き合わせて何事かを相談している。
そこに広げられていたのはTTL規格表。あら、お懐かしや。
TTLというのは論理回路を組み上げるためのパーツとなるチップ部品の一つである。それがずらりと並んでいるのがこの規格表。その昔から何度もお世話になった本でもある。
この会社には最上階に研究所という部門がある。そこは一種実験的な回路を設計するのが仕事である。
その研究員の一人がLSIチップを作ったのだが、これがうまく動かない。相談に乗ってくれ、とT氏とI氏に話が来たのである。
そしてT氏が関わる以上はその後始末はこちらに来る。
これどういうことか分かるかといつものようにT氏が振って来たのだ。
クソ忙しいのにこちらに関係ない仕事を勝手に持ち込んでくるんじゃねえよ。この妖怪おぶさりてぇめ。そう思ったが礼儀正しい私は口には出さない。
ちらりと見たTTL規格表のページに載っていたのは記憶素子の回路である。NAND論理と呼ばれるものを二つ平行に並べてそれぞれの出力を相手の入力につなぐ。自分で自分の尻尾を加えるウロボロスの蛇の図を思わせる美しい回路である。
この回路は入力に与えたハイ・ローの電圧をそのまま覚える働きをする。
この記憶素子の回路図をそのままLSIチップに組み込んだのだが、電源を入れた直後の最初の値がばらばらになってしまう、というのが相談の内容。
実物のこのチップは電源を入れた直後はすべてロー状態に揃うのだ。それを期待していたらしい。
ああ、と声が出た。すぐに判った。
この回路そのまま引き写したのでは動きませんよと指摘する。
「でも等価回路なんだぜ」とT氏。
「そこに載っているのは論理等価ですけど、タイミング等価じゃないんですよ」
この回路は昔タイミングチャートを書いてみたことがあるので知っている。上下が鏡に映したかのように同じものなので、そのまま電源を入れれば、レーシングと呼ばれる現象を起こして初期値が不安定になってしまう。
ロー・ハイどちらになるかはその時の温度に依存する電子のきまぐれ挙動次第となる。最初の電子のきまぐれな動きが回路中で増幅されて最後にはどちらかの値が優勢になる仕組みだ。
完全対象なので紅白どちらが勝ってもおかしくない。ミラー回路とは元々そういうものだ。
それぐらいは一目見れば判るもののはずなのだがこの人たちには思い当たらないらしい。日頃からの思考訓練はとても大事である。暇つぶしに本を読むだけではそこまでには至らない。
この回路は実際には、バッファと呼ばれる信号遅延を引き起こす素子を間に入れて、タイミングをずらすことで初期値を安定させていると推測した。本来公平であるはずの紅白合戦の一方を贔屓することでどちらが勝つかを決定できるのだ。
こういった点ではCPU作りの知識もたまには役に立つ。
「分からん。説明を紙に書いてくれ」
T氏が喚く。
この人も元はパソコンを設計していたのだからタイミングチャートの書き方ぐらいは知っているはずなのにと思った。あくまでも面倒なことは他人にやらせるのがこのクズ野郎のスタイルだ。
ヒントを与えただけで十分だろう、後は自分で書いてよと言いたいが、T氏にそれは通用しない。ちょっとでも断るとたちまちにして日頃の態度が悪くなる。
二時間かけて説明用の文書を書き上げて渡す。
「これ、自分がやったことにしていいですか?」
I氏が訊ねる。
結局礼の一つもなしに書類を持って行った。
人間とは実にお偉い人たちが多い。誰かに何かをして貰っても礼の一つも言わない連中ばかりだ。
しかしこれは大失敗であった。
T氏にこういう形でのおぶさり方法があるのだと教えてしまったことになる。
この妖怪は自分の株を上げるためにあちらこちらから余分な仕事を勝手に拾っては私に投げつけるようになってしまったのである。
そして今から振り返るとこれはおそらくI氏の退職にも繋がる要因の一つになってしまった。
研究所にはK所長というエゴの怪物が棲んでいたのだ。この人物は自分の配下たちこそが完全であり、それはつまり自分が完全であるからだという謎の自負を持っていた。その結果、自分の配下よりも賢いところを見せた他課の人間を攻撃し嫌がらせを行うという実に悪い癖を発揮する人物だったのだ。
この怪物はやがてその全貌を現すことになる。
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