第2話 新居
G社までは片道二時間はかかる。乗り物酔いの王様である私にはこの通勤は無理なので、G社近くに家を借りなくてはならない。
私が一人で家を決めると母に朝から晩までこんな所を探して来るなんてと小言を言われるので、嫌がる母を強引に家探しに連れ出す。
最初に見つけた不動産屋に入る。
即座に店主の鋭い声が飛ぶ。
「うちは堅い職業にしか貸さないよ」
サラリーマンだよ。俺は。たしかに長髪だけど。
まったく。不満はうちに秘めて、外に張り出していた物件を指差す。鍵を借りて下見へ。
安アパートの二階である。2DK。しかし、これは・・
何か雰囲気がおかしい。床は畳の上に安物の敷物がしてある。
床に前の住人のものと思われる敷物を敷いたまま内見させるのがそも狂っている上に、この敷物異様に何かぶよぶよしている。畳自体が腐っているのではないか。そう思った。
ここは止めよう。母親と即時了解に達した。アパートを出ると、一階の住人がカーテンの陰から目だけを覗かせてじっとこちらを見つめているのが見えた。
おかしい、明らかにおかしい。きっとあの敷物の下は血だまりで、畳の表が腐ってしまっている。そう感じた。
何が堅い職業にしか貸さないだ。堅い職業の人間が借りたがるようなまともな物件じゃないだろう。自分のことを棚に上げるクソ不動産屋め。
無言で鍵を返し、次の不動産屋に向かう。
今度の不動産屋は愛想が良い。
最初の物件に案内された。やはり2DK、ただし、天井が低い。押し入れが小さい。
天井が低いのは三階建てで建物の高さを一定以下に抑えることで法律による制限に掛からないようにするためである。つまりは建築費を削ったケチケチ物件である。
こちらの失望を見て取って、次の物件を案内しますと不動産屋が言った。最初は良くない物件を、次に良い物件を見せる不動産屋の手口である。
予想外だったのは、そこで疲れ切った母親が根を上げたことだった。
「疲れたよ。もうここでいい。ここに決めよう」
結局ここに決まった。済まなそうな顔の不動産屋から書類を受け取り、帰った。
このマンションのオーナーは近くの邸宅に住む大地主のお婆さんである。
犬を五匹買っている。それもひどく躾の悪い犬を。
このお婆さんの貸家に住むものは、毎月決まった日付で、家賃を直接持参しないといけない。そのとき、道で待ち構えているのがこの犬たちなのだ。誰彼構わず吠え捲り、噛もうとする。
犬をつなぐ鎖は長く、普通に道を歩いていたのでは噛みつかれるようになっている。そのため居住者は犬に噛まれないように道から外れてぬかるみの中を歩かざるを得ない。家賃を払いに行く人の中には子供を連れた主婦もいるのだ。危ないことこの上ない。
一度大家に文句を言ったことがある。そのときの返事はたった一言。
「怖いの?」薄笑いを浮かべている。
殺意が湧いた。
つまりここの大家は入居者をいじめて自分の権力を楽しんでいるわけだ。
鶏肉をチョコレートで煮込み、夜中に投げ込んでやろうかとも考えた。実際にこれをやって犬が死んだ場合は器物破損、死ななかった場合には生ごみの不法投棄程度の犯罪にしかならない。だがまあ実行するのは止めて、その代わりに不動産屋に頼んで振り込みにして貰った。
何だ、振り込みで行けるじゃないか。ならば最初から振り込みにしてくれよ。人間って本当に嫌だ。性格が極端に歪んでいる。
権力とお金を握ったお婆さん。しかもどこかの漫画に出てくる意地悪婆さんである。
彼女の行先が地獄の一番深い所でありますように。心の底から願う。ただし言葉にはしない。言霊がどこかで耳を欹てているに違いないから。
結局母はこの家に関してもいつもぶちぶちと文句を言い続けた。
私が我慢するようには他人は我慢してくれない。私が耐えるようには他人は耐えてくれない。私の努力はいつも悪い結果へと着地する。
何だか不公平である。
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