第二十六話 茄子と狐と女 庚

 「思えば、初めから奇妙に思えた」

 ぼくはもう一度冷茶を啜って、少しずつ言葉を紡いだ。


「死後の世界、閻魔王の公正を心から信じているわけではないが、それでもおかしいと思ったのだ。仮にも人殺しが─他人の妻を殺した卑劣な男が、いと徳高い士大夫に生まれ変わることができるものかと。どこかで何か、かけ違いがあるのではないかと」


「……清良は、軽薄で気に入らない男でした。いつも傍若無人なふるまいをして、人図間にちょっかいをかけるのは当たり前で……村で彼をまともに相手する人は誰もいませんでした、あたし以外には。『早いところ、きちんとしたお嫁さんを貰いなさいね』……あたしはいつも、言い寄られるたびにそう言っていました。でも、後にして思えば、それが夫の嫉妬心を刺激していたのかもしれません」


「村が寝静まった後に、もしも清良が帰ってきていたら、必ず誰かが目撃したことだろう。盗賊の襲撃などに備えて、村には必ず見張り役がいるものだからな」


「あたしの家は、江にほど近い、せせらぎの聞こえる場所にありました。すぐにでも小高い堤防を登って行けば、江に着くくらいの。夫があたしを殺した後、誰にも見られることなく遺体を投げ込むのは容易だったでしょうね」


「実際、贛江は巨大な川だ。まさか浮かび上がって、しかも岸辺に漂着するなど、誰も考える筈がない─その上熊が餌にするために遺体を移動させたなどと。だからこそ現地で調査に当たった官僚たちは、最も近くにいた容疑者である清良を捕まえたのだろうし、村の人たちも彼を犯人と告発するのを躊躇わなかった。半分は自業自得とはいえ、悲しい話だ」


「帝はそうしたことさえも、見抜いていらっしゃったのかもしれませんね……それに比べて、あたしのなんて愚かしいこと!自分の乏しい記憶で、いいえ、それにさえも向き合おうとしなかった。何十年も積み重ねたはずの記憶の、ほんの末尾の断片で、人を恨み続け、こんな亡霊となり果ててしまった」


「……いずれにせよ、わたしはこの事件において、清良が犯人ではないという大きな可能性を其方に示すことができたと思う。どうだろう、この辺りで一度幕引きにしないか」


「……ええ、本当に、申し訳ないことを、致しました。今更謝罪致しましても、許されるなどとは思っていません。ですが、本当に、申し訳ありませんでした」


「何、人はよく間違えてしまうものだ。何も、其方だけではあるまい。ぼく自身、色々なことを間違えてしまったし、今こうして話していることも、正しいなどと保証することは出来ん」


 ただ、とぼくは言う。

「ただ、たとえぼくらが何度間違えて、足を踏み外したとしても、明日はどうせやってきてしまうわけだ。だったら、明日はどうやって、よりうまく道を進んでいくかということを考えた方が、きっとうまくいくだろう。そうではないか?」


「……ええ。まことに、そのとおりで、ございます」


 その時、ふっと李翰林の体から力が抜ける。ややあって目を再び開いた彼が、げほ、げほ、と大きな咳を何度かしたかと思うと、その口からぼろぼろになった茄子の塊を吐きだした。


「おお、やった!茄子が出たぞ!」


「この忌々しい亡霊茄子め!踏みつぶしてくれる!」


「お待ちください、お父様!」


 彼は怒りに任せて茄子を踏みつぶそうとする父親を制し、床に落ちたそれを後生大事そうに拾い上げて、


「張天師、どうかこの茄子を弔ってやってください。このまま捨ててしまうのは、余りにも勿体なく、悲しいことでございますから」


「……かしこまりました」


 どうやら、ことは収まるべきところにうまく収まったらしい。ぼくは少し痛む腰をさすりながら立ち上がると、座敷牢を出て澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。もうそろそろ昼の仕込みを始める頃なのだろう、微かに食欲をそそるいい匂いが鼻に届いてくる。


「『名無し』、昼餉は何にしようか」


「そうですねえ、只今は豪華なものを食べようという気がしませんので。団子ムダンなどいかがでしょう」


「いいだろう。屋敷に帰ったら、早速作らせようか……」


 まもなく、夏が来る。生命の息吹溢れる季節。だが、そんな季節にあっても、不可思議の連中は消えることなく、より盛んに京師ギン・へチェンに現れるのだろう。また頭を悩ませ、眠れない日々を過ごすことにもなるかも知れない。


 だが、それも彼とならば、意外と悪くはない。むしろ、もっとたくさん欲しいとさえ思う。それがぼくにとっては、一番の不可思議であった。


 

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