第二十五話 茄子と狐と女 己

 翌朝。届いた返書によれば、李翰林の衰弱ぶりは既に極みに達し、もはや明日をも知れぬ命だという。出来ることならばもう少し作戦と推理を詰めたかったが、こうなってしまっては仕方がない。


 ぼくは急いで外出の支度を整えると、李侍郎の屋敷に向けて全速力で車を走らせた。途中で危うく交通事故を起こしかけたが、そういう時の為の皇族特権だ。柄にも無く親王の身分を振り翳し、乱暴な態度で道を押し通る。こちらは人命がかかっているのだ。産婆と医者以外に譲ってやるつもりは無かった。


 門前に着くやぼくらは車を飛び降り、挨拶もそこそこに屋敷の中に駆け込んで、李翰林の状態はどうかと問う。すると、


「もう、持ちそうにありませぬ、殿下」


「今にも死にそうだと?」


「ええ。完全に体を幽霊に乗っ取られて……先ほどからずっと、奇妙なうわごとばかりを」


「張天師は?」


「お弟子様方と共に調伏を試みているようですが、果々しくありませぬ」


「分かった、すぐに向かおう」


 ぼくは李侍郎の後ろについて、中庭に建てられた小さな座敷牢に向かう。足を踏み入れる前から漂ってくる妖気と、耳に聞こえてくる男の叫び声に思わず後ずさるが、何とか心を奮い立たせて前へと進む。


「入るぞ」


「来るな!来るんじゃない!幽霊が俺を呪っていやがるんだ!」


 小さな座敷牢の中心には粗末な寝台が据えられ、その上に李翰林が荒縄で手足を縛りつけられていた。人にものを投げつけたり、襲い掛かったりしない様にする為の手段であろうが、実の息子にこれだけの仕打ちとは些か常軌を逸している。


「(もう誰も彼も限界なのだな)」


 ぼくは道士達に読経をやめるように言うと、手近にあった丸椅子を引きだして枕元に座った。こちらを見つめる青年の顔にはすっかり死相が浮かんでおり、このまま放置すればあと幾日も持たないであろうことが素人のぼくにも分かる。


「大丈夫か、李翰林。ぼくの顔は分かるか?」


 ぼくの言葉を『名無し』が通訳してくれる間、狂気に染まった彼の顔をじっくりと観察する。落ちくぼんだ眼には生々しく眼球が浮かんでいて、生気を失った頬は水死体の様に青白い。唇からは末期の喘鳴が苦し気に漏れ、僅かでも油断すればそこから魂が漏れ出てしまいそうだった。


「はい、殿下……あの、狐が出て行ってから、幾分か意識がはっきりしましたが……そこから益々、幽霊がわたしの体を好き勝手に……」


「食事さえままならぬほど?」


「胃の腑の入り口を何かが塞いでいる様なのです。食べ物が胃に入らないように」


「それでは、このままいけば遠からず飢え死にではないか!」


「そうだよ!この人殺しには、そんな悲惨な死にざまがお似合いさね!」


 急に声色が変わる。ぎょろんと目が白目を剥き、今にも断ち切れそうだったか細い声が、怨みを湛えた野太い女の声に早変わりだ。


「変面さながらの変わり身の早さだな、紅蓮どの」


「おや、なんだいその名前は」


「思い出さないか?生前のお前自身の名前だ」


「……なあんだ、バレちまったんだねえ。そうさ、あたしの名は紅蓮。知ってるってことは、あたしが殺された事件の話を調べたんだろう?」


「ああ。そうだ。この二週間、必死でお前の事件について調べた。お前が誘拐され、首を絞められた後山に埋められ、犯人とされた男は証拠不十分で釈放された」


「そうさ、だからあたしは、前世での相応しい報いを閻魔様に代わって此奴にしてやろうと、そう決めたんだ!あんただって調べたって言うならわかるだろう!?」


「いいや?」


 ぼくは出来得る限り悠然と、余裕を持った声音で紅蓮の弁を否定する。そして、煙草代わりの冷茶で喉を潤してから、もう一度口を開いた。


「ここから、わたしなりの推理を話そう。この事件を─君をして百年の亡霊たらしめた事件の真相を明らかにするために」


「……聞こうじゃない」


「まず、ことのあらましをここにいる全員で振り返ろう……十一月の十日、南とはいえ冷え込む時期のある朝に、一人の女の遺体が江西省の山の中で発見された。遺体は土と木の葉で覆い隠される様にして埋められており、死因は絞殺。そして体には暴行の痕とみられる悲惨な傷が多数刻まれていた」


「ええ、それがあたしよ」


「何せ今から百年前の事件故、今更遺体の詳しい状況を調べることはできない。だが、いずれにしても君の遺体は傷だらけで、首を絞められて死んでいた。ここまではいいとしよう……さて、最初に行われたのは、当然遺体の身元特定だ。詳しい特徴を立札に貼り出したところ、一人の男が『行方知れずだった自分の妻かも知れない』と名乗り出てきた。男の名は─」


「大武。あたしの夫……」


「そうだな。大武の妻、紅蓮はこの地方随一の美人にして、よく働き夫と義両親にも尽くす良妻としてもよく名前を知られていた。それだけに一週間前に彼女が行方知れずになった時には、彼女の住む村だけでなく近郷近在まで動員した大規模な捜索が行われていたわけだが─実際には、五百里あまり離れた山の中で死んでいた」


「何とも皮肉なものねえ」


「……そして、犯人として一人の男が告発され、捕えられた。男の名は清良、夫妻と同じ村に住む豆腐屋の倅で、遺体が山で見つかったその日……すぐ麓の宿屋に宿泊していた」


「でも、それだけじゃないでしょう?あの男には疑われる理由が山ほどあった……」


「ああ、それは間違いない……清良は紅蓮に長い間『横恋慕』しており、しかも彼女が行方知れずとして届け出られる前日に、南昌に旅に出ていた。だから、誰しもこう考えたのだ。『彼が密かに紅蓮を誘拐して殺害し、しかる後山の中に埋めたのだ』と」


「当然の推理でしょうね。実際、あたしもそこだけは覚えているもの……真夜中、あたしの上にのしかかって首を絞める男の影。月明かり一つない真っ暗な夜、川のせせらぎと風に揺れる木々の音……」


「その記憶が正しいとしたら、彼は恐らく─いや、ほぼ間違いなく無罪だろうな」


「何ですって!」


 カッ、と紅蓮が目を見開くと、ぼくが首から提げていた珠飾りがバチンと弾けた。コロコロと宝珠が床に散らばり、いくらかは寝台の下にも入り込む。


「チ、殺す気で念を送ったのに」


「話を続けようか」


 ぼくは椅子に座りなおすと、再び冷静に、ほのかな笑みを浮かべて言葉を継いだ。


「まず前提として、容疑者である彼が生きた君を誘拐したとすれば、随分と奇妙な状況が想像できる。違うかい?」


「……」


「地方でも評判の美女を、横恋慕のうわさがある男が連れて二人旅だなんて。しかも人通りのない田舎道じゃなく、繁華な大街道だ。当然多くの人の目に触れることだろう。そうなれば、殺すより先に別の人間に捕まえられるはずだ、違うかい?」


「……」


「実際、彼が宿泊した街道沿いの宿の人々も、怪しい点は一切なかったと証言している。このことは二番目の可能性にも関わる大切なことだ」


「……いいわ、続けて」


「では二つ目の可能性。彼が村を出発する段階で君を殺害したという可能性だ。深夜村人が寝静まった頃に村に忍び込み、誘拐しようとしたが果たせず、そこで君を殺害したという可能性。だがこれも論ずるに値しない可能性だ。第一、そんな馬鹿でかい死体を五百里一週間も運んでいられるわけがないだろう。いっそ誘拐よりも人目に付くじゃないか」


「……」


「この他、考えてみれば色々とやり方が無いわけではないが、何れもかなりの危険性を伴うし、どうあがいても矛盾をはらむものばかりだ」


「でも、結局彼以外の容疑者なんていないじゃない。彼以外に犯人と疑われる動機と状況がある人物なんているの?」


「動機は兎も角、状況的に考え得る人物ならばいる」


 ぼくが言い切ると、部屋の空気が変わる。誰もがぼくの次の一言を待っている、じっとぼくの唇に視線が集まるのが感じられる。何とも心地よい感覚だ。


「要は、次の問題を解決すればいい─どうやって女の遺体を、誰にも見られることなく、五百里以上離れた山まで移動させて、尚且つ地面に埋めればいいのだろう?」


「そんな方法、あるはずがないでしょう」


「ある。それも極めて単純なやり方でいい。そう─犯人は君の遺体を投げ込んだのだ、江西を二つに分かつ大河、贛江に」


「贛江ですって?馬鹿なことを言うんじゃないわよ。第一、あたしが見つかった山は江から随分と離れていたわ。ええ、幽霊になって最初にあたしは周りの状況を確認したもの。あたしが埋められていた場所は、江の岸辺からたっぷり五里は離れていた。それよりもむしろこの男が宿泊していた宿屋の方がずっと近いのよ?だのに……」


「川岸に流れ着いた死体が、ひとりでに動くわけがない。それは確かにその通り、だが動かせるものがそこにはいたのだ、紅蓮。この資料の、追記の所を読んでやれ、『名無し』」


 彼はゆっくりと、誰にでも聞き取れる様丁寧に資料を読み上げた。


「『追記 遺体は知県の判断に基づき、現地にて一時埋葬。その際、山から下りてきた熊の襲撃に遭う』」


「熊……ですって?」


「事件が起きたのは冬のこと、熊ならば本来冬眠をしているはずの季節。だが、時に冬眠できる巣を持たないか、そのための栄養が足りず、山をさまよい続けるものが居る。それらは広大な縄張りを歩き回ってエサを探し、運よく大きな獲物に巡り合うと……こうやって、土饅頭の中に埋めて保存するのだ。ちょうど、君が見つかった時の様に」


「あたしの遺体を、熊が、食べるために運んだってこと?」


「実際に食ったどうかはもう分からん。食う直前に人の気配を感じて慌てて埋めて逃げたのかもしれないし、少しばかり味見をしたのかもしれない。遺体に認められた傷はそのために付き、検視官がそれを暴行の痕と誤解したか、面子を重んじる地方官の命令で書き換えたか。だが、いずれにせよ言えることは……『熊は自分の所有物に強く執着し、匂いを辿って必ず取り戻しに来る』ということ」


「取り戻しに来る……」


「普通熊は人を食べたりはせんし、そもそも人里に降りてくること自体稀だ。その熊がここまで執拗に追いかけてきたのは、遺体を自分のものとして認識したからに他ならない……と、ぼくは考えた。そして、それを踏まえて考えると、事件の本当の犯人が浮かび上がってくる」


「そ、それは、誰なのですか殿下!?」


 李侍郎が額に浮かんだ脂汗を拭いながら、ぼくに訊いてきた。逆に『彼女』─紅蓮の顔は絶望に打ちひしがれたようになり、力なくうなだれている。


「もう彼女は分かっている様だ。誰が自分を殺したのか」


「……わたしを殺したのは、本当の犯人は……」


「「大武」」


 ぼくと彼女の声が重なり合う。ようやく真実が顔を出したのだ─永劫の時の、遥かなる流れの果てから。

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