第二十四話 茄子と狐と女 戊
また暫く。湯浴みをして染みついた煙草の匂いを落とし、また別の香木を薫き染めた服に着替えて部屋に戻ると、ぼくが命じた通り用意はすっかり整えられていた。煙塗れだった部屋の空気はすっかり入れ替えられ、思索に相応しい清浄さに戻っている。
「さて、じゃあ話を始めるわけだが。悪いがぼくはここの包子を頬張るので忙しいから、資料はお前が読んでくれ。細かいところ─挨拶とか、そういうのは飛ばしてくれて構わん」
「まるで子供に本を読み聞かせる様に、殺人事件の資料を読み上げさせるのはどうかと思いますけどね」
そう言いながら、彼は向かい側の椅子に座って資料を開き、該当する箇所の情報を読み上げ始めた。
「『康熙四十二年十一月二十一日。江西巡撫より報告……』」
「その辺は省略。概要から話せ」
「わかったよ。それじゃ、読みますよ」
康熙四十二年十一月十日。江西省中西部の山の中で、一人の女の遺体が発見された。その山は南昌から長沙に至る街道に面し、越えた反対側には鄱陽湖にそそぐ江水の支流、贛江(かんこう)が流れていた。遺体は早朝に山に入った近郷の農民が発見し、見つかった時には土と木の葉で覆い隠される様に埋められていた。
通報を受けた現地の知県は速やかに遺体を掘り返し、詳しい検視を行った。その報告によれば、死因は何者かによる絞殺であるが、この他外部から付けられたと見られる傷が多数認められた。これを受けて当局はすぐさま調査を開始し、身元の確認と犯人の追跡を同時並行で行なった。
「『その結果、一週間前に妻の行方不明届を出していた、祖大武と言う男が、背格好から言ってその遺体は妻の呉紅蓮に間違い無いと申し立てた。彼は贛江を遡った流域の村の農夫であり、一週間前の夜、俄かに妻が家から消えてしまった旨を知県に届け出ていたのである』」
「なるほど、蓮の字が確かに入っているな」
紅蓮はその地でも評判の美人であり、大武の家に嫁いだ後も甲斐甲斐しく夫に尽くし、父母の世話をしていたことで有名だった。この為彼女が何者かに殺されたことは忽ち大きな噂となり、誰が犯人かという憶測が各地を飛び回った。
「『そして、ある一人の男が犯人として告発されるに至る。その名は李清良。夫妻と同じ村に住む豆腐屋の倅で、当時二十一歳だった』」
「李清良。つまり、あの女が李翰林の前世だと主張している男というわけだな」
「はい」
清良が告発された理由は三つある。一つ目は、彼が長年にわたって紅蓮に対して『横恋慕』しており、何度もちょっかいをかけてはあしらわれていたこと。彼の行動は不埒者の振る舞いであるとして評判が悪く、多くの村民が告発に同意を示していた。
二つ目は、彼が紅蓮が行方知れずになった前日の昼頃、鄱陽湖畔の大都市南昌に向けて旅に出ていたこと。彼が旅立った日の翌朝に彼女の行方知れずが判明し、知県に届出がなされた。
「そして三つ目。『遺体が発見されたちょうどその日、清良は現場となった山の麓にある小さな宿屋に泊まっており、しかもその宿屋は現場からは僅かに一里ほどしか離れていなかったこと』。この為、彼は夫である大武や村の人々によって犯人として告発され、拘束された、と」
「確かに、話だけ聞けば彼が犯人に見えて仕方がないな。恐らく、深夜のうちに家に忍び込んで紅蓮を誘拐し、弄んだ末に殺害して山に遺棄したのだと疑われたのだろう?」
「はい、その通りです」
如何にもありふれた事件であるし、実際真実はすぐ目の前に転がっている様に見える。だが、ここまでの記録を読む限り、ぼくの中には拭いきれない違和感が蟠っていた。
「『その後、現地の知県によって
「なるほど。して、どうなった?やはり死刑判決は妥当として、彼は処断されたのか?」
いいえ、と固い表情で彼は答えた。
「……聖祖皇帝は、この判決を『却下』したそうです。理由は明確にされていませんが、上奏文に加えられた朱筆によれば、『証拠不十分也』と」
「何だと!?」
恐らく、当時の人々にとっても驚天動地の勅命であったことだろう。ほぼ唯一の容疑者であり、しかも三つも極めて疑わしい点がある中で、証拠不十分での無罪が言い渡されたのだ。不敬極まる話ではあるが、帝が耄碌したのでは、と考える者もあったのではないか。
「一応事件について整理しておこう。犯人は一旦置いておいて、事実を基にして」
「はい」
ぼくは近くに置いてあった古反故を手元に引き寄せると、一つ一つ重要事項を書き出していった。
一.紅蓮の遺体は山の中で埋まった状態で見つかった
二.一週間前に彼女は村から行方知れずになっており、捜索が続けられていた
三.検視による死因の判断は絞殺。この他身体中に幾らかの傷を認める
四.容疑者清良は、紅蓮の行方知れずが発覚する前日に南昌に向けて旅立ち、その後遺体が発見された山の麓の宿屋に宿泊していた
五.清良は犯行を自白しなかった
「ちなみに、その山と村はどの程度離れていたんだ?」
「ええとね……紅蓮が住んでいた川沿いの村から、その山がある地域まではおおよそ五百里余り離れていたそうです。そして、遺体は贛江から凡そ十里ほど離れた位置から見つかったみたいで」
「ふむ。そうなると、確かに何者かが運んだという説が有力になりそうだ」
だが、この辺りに通っている街道は、一年を通じてかなり人通りが多い。その中を誘拐した女を連れて、誰にも見咎められることなく南昌まで連れて行けるものだろうか。しかも、普通の女ではなく、辺り一体でも名の知れた美女だ。
「(では、先に彼女を殺害して、死体を運んだのだろうか?)
いいや、それも筋が通らない。仮に清良が深夜に村へこっそりと戻って来て、紅蓮を絞殺してその死体と共に旅を続けた?それこそ明らかに異常だ。人一人分にもなる様な大きな荷物が、泊まった宿で見咎められないはずがない。
「状況的に見て清良が犯人である根拠はいくらでもある。だが、実際に細かく状況を検討してみれば、彼が犯人ではないと言う可能性が大きくなっている様な気がするな」
「ふうむ、わたしもちょっとこんがらがって来ましたね」
「仮に清良が無実であるとしたら、示すべき点は二つある。一つはどの様にして、紅蓮が五百里余りの距離を移動したのか?二つ目は、清良でないとするならば、真犯人は誰なのか?ごく単純な問いだが、得てして単純な疑問ほど答えを与えるのは難しい」
「確かに」
ぼくはもう一度資料を手に取って、彼が読み落とした点が無いかどうかを調べた。山の中で見つかった遺体、行方知れずになっていた美女、すぐ近くの宿に泊まっていた間男、移動できるはずもない距離……
「ん?なあ、『名無し』。お前、この部分読み落としていたんじゃないか?」
「え……あっ、本当だ!」
その時、ぼくの頭の中で様々な仮説が一つに繋がった様な気がした。根拠は乏しく、推理としては非常に乱雑だ。しかし、可能性は十分に考えられる。
「……やってみるか。ひどく不公正な法廷で、不慣れな弁護人の役割だが」
ぼくは直ぐに、李侍郎の屋敷に手紙を書かせた。来訪を知らせる手紙を使者に手渡すと、ぼくは大きなため息をついて椅子に身を沈める。
「『名無し』」
「はい」
「どうだろう、先ほどの推理は些か『大人っぽく』決まったんじゃないか?」
「それを言わなかったら、わたしの本名を教えてもいいかなと思っていました」
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