第二十三話 茄子と狐と女 丁

 さて、いざ刑部まで足を運び、大昔の重罪事件の資料を閲覧したいと申し出ると、やはりと言うべきか担当の役人は嫌そうな顔をして、随分と許可を渋った。ぼくらをじっと胡散臭そうな目で見つめて、これ見よがしに大きなため息を吐き、


「恐れ多くも親王殿下のご命令ですから、お断りすることもできませんな」


 と、資料が保管されている文書庫の鍵を開けてくれた。その時のぼくは大変機嫌が良かったので、あの場は平穏のうちにことが運んだが、後もう少しばかり機嫌が悪ければ、早々に手が出ていたことだろう。


 命拾いした役人の後ろについて薄暗い文書庫に入ると、何度も嗅ぎ慣れた古い墨と紙、それから長年降り積もった埃の匂いが鼻をつく。人二、三人分にも匹敵する様な背の高い棚にはぎっしりと書物が詰まっており、すぐ横には大きな木製の梯子が乱雑に立てかけられていた。


「聖祖皇帝の御代の資料は何処に?」


「目の前にございます。ここの棚からあそこの棚まで─全て、六十一年間の御代で起きました重罪事件の档案・奏摺をまとめたものにございます」


「うっわ、べらぼうだなこれは」


 案の定と言うべきか、ぼくらが調べなければならぬ資料の量はあまりにも膨大であった。書庫の巨大な棚を十個並べて、更にその中にぎっしりと詰まった一千冊近い冊子を一つ一つ見ていかねばならない。二人で手分けをしたとて、収まるかどうかと言う過酷な状況である。


「せめて年代が特定できたらいいのですけど」


「あの狐が素直に教えてくれるとも思えんしな。仕方がない、終わりの年から一つ一つ見ていこう」


「六十一年の資料は棚のこちらからこちらまでです。全部合わせて三十冊はあるでしょうか」


「まとめて取り出そう。『名無し』、それからお前も手伝え」


 梯子を立てかけて上に登り、数冊まとめて棚から引き摺り出す。その度にもうもうと埃が舞い上がって咳と涙が飛び出たが、ここで心を折られていては前へ進むことができない。


「罪状がほぼ殺人に限られているのは幸いだった。これで窃盗の様な軽罪微罪まで含まれていたら、この数倍の資料と格闘する羽目になっただろうからな」


 閲覧用の机に冊子を積み上げ、一先ず五年分の記録を全て引き出して来たところで作業を止める。見張りのつもりだろうか、ぼくらを案内して来た役人が頭を抱えているのが視界の端に見えたが、片付けの苦労など知ったことではない。とにかく今、調べられるだけのものを調べる、それしか無いのだ。(きっとぼくのことを傍若無人と非難する者も居るだろうが、ぼくよりもずっと暴戻な振る舞いをして、尚且つ罰せられぬままにいる皇族は星の数程いるので、そこまで後悔はしていない)


「殺人事件の様な重罪事件、特に死刑が範疇に入るものは全て叡聞に達しているはずだ。と言うことは、三法司から帝に上奏された報告書を重点に調べれば、そのうち見つけることができるだろう」


「良かったですね、満洲語と漢語の合璧ですから、わたしがわざわざ翻訳せずとも読めますよ」


「元々漢文は読めるのだ、馬鹿にするな」


 きっとこの中には興味深い事件の記録がいくらでもあるのだろうが、今はそれにかまけて時間を浪費するわけにはいかない。幽霊がどのくらいの時間をかけて李翰林を祟り殺すのかは分からないが、張天師が術を使って何とか遅らせてくれると信じるしかない。


「(他にもう少し効率的な手があるといいのだがな……)」



 ……かくして、ぼくらが膨大な資料との格闘を始めて、二週間の時が過ぎた。その間ぼくらは何度も刑部の文書庫に通い、管理人の役人たちとはすっかり顔馴染みになってしまう程に入り浸った。中には事情を知って協力してくれる者も少なからずおり、ぼくが八旗衙門で執務をしている間にも資料の調査を進めてくれていた。


 しかし、その間にも李翰林の病状は悪化の一途を辿り、遂には一日の殆どを錯乱の中で過ごす様になってしまっていた。幽霊に体を乗っ取られて暴れ回り、意味不明の罵言や脅迫を叫び、柱に頭を打ちつけて死のうとすることさえ珍しく無かった。


 張天師が屋敷にいる時はすぐに駆けつけて一時的に幽霊を抑え込むことが出来たが、やがて『彼女』は張天師の留守を狙って狡猾に体を乗っ取る様になり、翰林の体を操って人に危害を加えた。遂には細君がずっしりと重たい金属製の香炉を投げつけられて顔に大怪我を負うと、彼の身柄は新たに屋敷の敷地に作られた座敷牢に閉じ込められることとなってしまった。


 時間だけが過ぎていく。ぼくの心は無力感と焦燥感に苛まれ、今にもひびが入りそうだった。仕事をしている時間も事件のことに気を取られ、終わったとなれば寝食を殆ど忘れて調査に従事し、時折李侍郎の屋敷に赴いて状況の改善について議論した。


 多くの者が協力してくれている。なのに、ことは少しも良い方向には動かない。沈む心に反比例して、煙草の量だけが増えていく。そんな最悪の循環に陥りかけていた、ある夜のことだった。


「永暁さま、永暁さま!やりました、遂に……って、何ですかこの煙は!」


 ごほごほと何度も咳き込む『名無し』を、煙の帷の向こうから酔っ払いの様な目で見つめる。脳髄全体からどろどろの乳粥の様になっていて、何一つやろうという気が起きない。


「ああ、悪い。換気を忘れていた」


「煙の吸い過ぎは体に毒です。というより、換気せずに煙草を吸うなって、あれほど言いましたよね!?本気で死にますよ!!」


 バタン、と部屋中の窓を開けて彼が煙を外に追い出していく。夜の清らかな空気を求めて、自然と鼻が深く息を吸い込んだ。その間にぼくは寝椅子から身を起こし、煙管に溜まった灰を煙草盆に叩き落とす。


「ああ、くそっ、喉に痰が絡んでいる様だな。悪いが茶を誰かに持って来させてくれ。あと、新しい煙草を補充しておく様にと」


「お断りします。お茶はお持ちしますが、煙草は当分禁止です」


「何を言うか、ぼくから煙草を取り上げたら、何を楽しめばよい。酒もそこまで好きではないのに」


「茶を飲みながらゆっくり読書でもなさってはどうですか?」


「もうしばらく書物など見たくもない。今なら父上が残した書庫をまとめて焼き払っても後悔はしないくらいだ」


「そうわがままを仰らないで下さい」


 彼は寝椅子に腰を下すと、身を起こしたぼくの頭を自分の膝に持って来て、まるで赤子をあやす様に撫でた。何やら子供扱いされている様で向かっ腹が立つが、まだ体全体が気怠いので好き放題にさせておいてやる。


「全く、お前はぼくが恐ろしくないのか?その気になれば、指一本鳴らすだけでお前の首を落とすこともできるんだぞ」


「でも、そうしない。そうしない為に、俺のことを家奴から包衣に格上げしたんだろ?一人前の家臣として、自分の気まぐれで俺の首が飛ぶことがない様に」


「煙管に詰まった脂くらい腹が立つ物言いだ。もう少し態度を改めたらどうだ?」


「嫌だね。まだ俺はお前を主人と認めたわけではないからな」


「そう言い続けて、もうすぐ十年が経つというのにな……」


 ぼくは一度目を閉じて深く呼吸し、肺の中に溜まった煙を全て追い出す。ようやく新鮮な空気が身体中に周り、思う通りに動く様になる。


「……そう言えば、さっき入って来た時、随分と喜んでいる様だったが。何か見つけたのか?」


「俺たちが探し求めていた殺人事件の資料が見つかったんだ。刑部の若い役人達が総出で手伝ってくれたから」


「そうか……よかった。それで、机の上に置いてある包みがそれと?」


「ああ」


 彼が指差す先には、紫色の帛紗に包まれた書物が置かれている。本来機密書類として持ち出し禁止のところを、特に頼み込んで借り出してくれたのだろう。


「ありがとう。苦労をかけたな」


「いいや。むしろ、お前の方が大変だろう。借りて来た資料を使って策を立てるのは、永暁の役割なんだから」


「そうだな……頭を使うのは、ぼくの仕事だ」


 ううん、と今度こそ起き上がり、寝椅子から降りる。そして、両腕を大きく伸ばして背筋をしゃっきりさせると、


「済まんが、誰かに夜食を持って来させてくれ。今からぼくは軽く湯浴みをして服を着替えてくる。煙草の匂いはあまり好きではないだろう?」


「御意」


 恭しく、彼はぼくに頭を下げた。

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