第二十二話 茄子と狐と女 丙

 四日目の朝。日が昇る前から床を出て沐浴し、身を清めたぼくらはそのまま儀式が行われる廟に向かって車を走らせた。流石に城門の外にある大分遠い場所まで駕籠で行っては、駕籠かきの肩が壊れてしまうだろう。


「それにしても、上手くいくだろうか」


「儀式を行うのは天下第一と名望高いお方ですから。そんなに心配なさることはないと思いますよ」


「まあそうだといいのだが。どうもこの手の事件となると、ぼくは心配性になってしまう様でな。何処かの誰かさんが下手なことをしたせいで」


 じろ、と皮肉めいた視線を彼に送ってみるが、どこ吹く風の様子である。実際、彼はまた同じ様なことをやるだろう、ぼくの命が危険に晒された時は。


「言っておくが、ぼくはまだ怒っているからな。お前がぼくに心配をかけたことは」


「今度から迂闊なことはしない様にしますよ、永暁さま。本当にすみませんでした」


「別に、謝って欲しいわけではない!」


 ただ、助けを求めて欲しい。頼むから、ぼくを庇って、ぼくの知らないところで傷つくのはやめて欲しい。こっそり片手を伸ばして、あちこちに胼胝の痕がある彼の手を握った。


「……少し、このままでいてくれないか」


「勿論」


 顔は見せてやらない。膝を立ててそこに埋めて、そのままじっとしている。藍珠に比べて、なんとも不器用な触れ合いの仕方だと、心の中で自嘲していた。



 霊廟に着いた時、ぼくら以外の関係者はすでに準備を整え終えて、首を長くして待っていたらしい。車から降りて中へ入ると、既に祭壇が築き終えられ、張天師の他何人かの道士達が座って神像に経を上げていた。祭壇の奥には伏魔大帝─即ち関帝の神像が奉られ、その直ぐ前に人を寝かせる為らしき毛氈が敷かれている。


「では、皆様お揃いの様ですから、儀式の方を始めましょう。李翰林を此方へ」


 張天師が言うと、ぐうぐうと大いびきを立てている李翰林が担架で運ばれて来た。父親の弁によると、連れ出そうとしてもひどく暴れるので、止むを得ず眠り薬を飲ませて連れて来たという。


 青年が毛氈の上に寝かされると、その四隅に置かれた小さな灯明に火が付けられる。祭壇の正面に座った張天師は恭しく神像に拝礼し、そのまま座して呪文を唱え始めた。周りの弟子達もそれに倣い、狭い廟の中に厳粛な空気が満ちる。


「うっ、うううっ、苦しい、苦しい」


 すると、寝かされていた李翰林が俄かに苦しみ出し、胸を掻きむしってのたうち回り始めたではないか。眠っていたはずの彼の目はカッと見開かれ、口をあんぐりと開けて激しい悶絶の叫びをあげる。


「うお、あっ、うおおおっ、殺してやる、みんな、みんな殺してやるぞう……」


 意味をなさない喘鳴にも、恐ろしい脅迫にも動じず、張天師達は呪文を唱え続ける。


「見ろ、四隅の灯明の炎が次第に大きくなっているぞ」


「確かに、不思議だねあれは」


「結界か何かを張っているのだろうか、とすると、あれが消えれば悪霊が─」


 今更ながら、ぼくは背筋に冷たいものが這い上るのを抑えられなかった。ぶるりと体を震わせ、目の前の光景に見入っていた。やがて、その苦しみが頂点に達するのと同時に、張天師達が最後の印を結ぶ。


「ぎゃあぁあ─っ!」


「今じゃ!」


 がくがく、と李翰林の体が飛び跳ねんばかりに震え、白目を剥いて気を失う。その隙を見逃さず道士達が毛氈に足を踏み入れ、彼の体を押さえ込んだ。そして張天師がその手をかっ開かれた口の中に突っ込み、喉の奥から何かをずるずると引き摺り出す。


 果たして、それは掌に載るくらいの小さな狐の子であった。急に明るいところに引き摺り出されたからだろうか、眩しそうに目を瞬かせた後、戸惑った様子で辺りを見つめている。しばらくして状況を理解したのか、慌てた様子で口を開き、


「外の様子を窺いに出たらなんてこと、捕まって引き出されてしまったわ。姉さん気をつけて、あなたは外に出て来たらダメよ」


 すると、腹の中からハッキリと女の声で「はい」と言う返事があり、続いてひどく恨めしげな声で、

「あたしはこの男に前世からの怨みがあるのよ。もう百年以上も怨みを抱えて彷徨っていたけれど、この狐さんが助けてくれて、術を教えてくれたの。だのに、狐さんが災難に遭うだなんて。こうなったらもう気が済まない、この男をすっかり苦しめて、祟り殺してやるのだから」


 そうか!二人の美女とはそう言うことだったのか。誰もが気がついたが、もう遅かった。張天師は護符を貼った壺の中に狐を放り込んで閉じ込め、急いで女の化けた茄子を引き摺り出そうとしたが、それよりも早く女が李翰林の体を乗っ取って、獣の様な速さで祭壇を飛び越えた!


「下がって!」 


 『名無し』が素早く前に出ると、相変わらず惚れ惚れする様な流麗な動作で李翰林の顎を蹴り上げると、そのまま床に倒して抑え込む。


「さあ言え、お前はどこの何という女だ!どの様な前世の怨みによって、この人に取り憑くのだ!」


「ふふふふ……いいわ、それじゃあ教えてあげる。どうせあんた達に出来ることは、もう何も無いんだもの……」


「勿体ぶらずに早く言え。俺は気が短いんだ」 


「……殺されたのよ、あたしは。この男に」


 翰林の口から、底冷えのする様な恐ろしい女の声が流れ出た。『彼女』は熱に浮かされた病人が譫言を呟く様に、ぶつぶつと恨み言を紡ぐ。


「寒い、寒うい冬の日のことだった。川の音が聞こえる真っ暗な家の中で、あたしの上にのしかかる男─そのまま首を絞められて、あたしは殺されたの……」


「その怨みを晴らすために幽霊になったのか?」


「ええ……霧深い山の奥で、あたしは正体を取り戻した。それから百年、あたしは仇を探して彷徨って、ようやく見つけた。この男、あたしを殺した、李清良の生まれ変わりを……」


 ばたり、と体から力が失われる。どうやら、また幽霊の限界が来た様で、支配を手放したのだ。すぐに道士達が青年の体を運び去り、手当てを施す。その間、ぼくは『名無し』の報告を聞きながら、考えを巡らせていた。


「前世からの怨み、か」


 調べてみる価値があるかも知れない。ぼくは急いで家臣達に命じ、車の支度を整える様に言った。李侍郎が訝しげに、


「殿下、何処へ向かわれるおつもりですか?」


「刑部だ。刑部に残っている殺人事件の資料を調べてみることにする。何にせよ、情報は多いに越したことはないからな」


「なるほど!では、何か我らにお手伝いできることがありましょうや」


「其方は知り合いに、刑部の先例に詳しい人物がいないか探してみて欲しい。何しろ、百年前といえば聖祖仁皇帝こうきていの御代だ。六十年分の档案・奏摺を一つ一つ調べている時間は恐らく無いだろうから」


「畏まりました!」


 廟の中に家臣が再び駆け込んできて、出立の準備が整ったとの報告。ぼくは振り返って『名無し』に向けて笑い、


「よかったな、今度はその武術の腕を活かさずに済みそうだぞ」


「もっと面倒なことになると思いますけどねえ」


 ようやくぼくらの時間がやって来た。

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