第二十一話 茄子と狐と女 乙

 翌朝。案の定ひどく不機嫌そうな面をぶら下げた『名無し』を引き連れて、ぼくは李鶴峰侍郎の屋敷を訪ねた。あくまでもごく私的な訪問であるから、人数はごく少数に絞ってあるし、向こうにも仰々しいもてなしは不要であると伝えている。


「瀏親王殿下、我が粗末な荒屋に足をお運び下さいまして、恐悦至極に存じます」


「荒屋とは随分なことだ、侍郎殿。そうなればわたしの瀏親王府など掘建小屋も同然。あまりご自身のことを卑下なさるな」


 実際のところ、これは決して謙遜ではない。ぼくの住む親王府は格式こそ高いが、広さで言えば京師の中では随分と手狭な部類である。広壮な邸宅には付き物である華やかな庭園も無ければ、面積の三分の一はぎっしりと詰まった書庫に占拠され、あとは使用人の長屋を差し引けば、ぼく自身の自由になる空間は殆ど残らない。尤も、妻も子もいないぼくにとってはそれでも十分な広さがあるから、特段文句も何も無いのだが。


「本日はご子息のことについて、さるお方から相談を受けて参った。この紹介状をご覧頂けるかな?」


「拝見致します」


 李侍郎は妓楼からの紹介状を手に取ると、少し恥ずかしげに顔を赤らめたが、すぐに諦めた様に目を閉じてため息をついた。もはや醜聞として隠しておくこともできないと悟ったのだろう、悄然とした様子で奥に続く扉を開け、付いて来て下さい、とぼくらに告げた。


「倅はもうすっかり気が触れてしまった様なのです。一日の半分は正気を失って暴れ、大人しい時も茫洋として窓から外を見ているばかり。寝台から起き上がることもなく、毎日欠かさなかった経典の勉強もすっかりやめてしまいました」


「朝廷への出仕も?」


「この様な有様では、とてもとても……」


 入るぞ、と李侍郎が扉を開けると、果たして子息は正面の簡素な寝台に横たわっていた。白昼夢を見ている様な薄ぼんやりとした視線で、窓の外に生えている海棠の低木を覗いている様だった。霧深い山の頂上に立って、そこから遥か下に広がる谷底を見渡そうとしているかの様で、彼にはもう何一つ見えていないのであろうことが、直感でぼくには分かった。


「鷁、瀏親王殿下がお前に会いに来て下さったぞ、早う挨拶をせぬか」


「李翰林殿、お初にお目にかかる。わたしは瀏親王永暁、さる人からの頼みで、其方に会いに来た。こちらを向いてはくれまいか。いや、寝台に寝たままで構わんから」


「……李鷁です」


 辛うじて纏めただけのざんばら髪に、痩せこけて落ち窪んだ目。薄らと生えている青髭は酷く乱雑に剃られたのだろう、剃り残しや剃刀負けの痕があちこちにある。たったこれだけを見ても、ここ最近の間彼がろくな生活を送っていないことが読み取れた。


「李翰林殿の名はわたしもよく聞き及んでいる。博学英才の誉高い、若き俊秀であるとか。今日は顔を合わせることが出来て光栄だ」


「滅相も、無いことでございます……」


 掠れた平板な声。ぼくがどれだけ話を振っても、彼の応対はそっけなかった。まるでそれよりもずっと大事なものが目の前にある、とでも言いたげな投げやりな態度。既に通訳をしてくれている『名無し』は怒りを隠せない様子だったが、ぼくは抑えろ、と視線を送った。


「さて、少し緊張もほぐれたことだし、本題に入ろうか。君の狂気の原因であろう─二人の美女について、話を聞かせて貰いたい」


 鏡の様な水面に石が落ちた様だった。真っ白だった李翰林の顔に形容し難い悪意の眼差しが浮かんだかと思うと、カッとその目が見開かれ、くぐもった叫びを上げて苦悶にのたうち始める。


「不味い、永暁さま離れて下さい!」


「いや、このまま行く。『名無し』、ぼくの言葉を通訳し続けろ」


 ぼくは椅子から立ち上がって逆に距離を詰め、ガタガタと震える彼の肩に手を置いて、耳元に囁きかける様な声で言った。


「名を名乗るがよい、お前は誰だ。何の故に李翰林の体のうちに居るのか、わたしに教えてはくれまいか」


「……」


 すると、彼の震えは急激におさまり、両腕が力無く、くたっとした様子で布団の上に投げ出された。ややあって彼は身を起こして寝台から降りると、壁際の机に置かれた硯と墨を手に取り、一心不乱に擦り始める。その意図を察した家人が素早く束ねた半紙を持って来て、机の上に置いた。


「筆談ということですか、永暁さま」


「幽霊にぼくの声は聞こえている。しかし、幽霊の方ではまだ完全に体を支配出来ていないのだろう。だから、比較的自由になる手を使って何かを伝えようとしているのだろうな」


 そうこうしているうちに、ぱらりと一枚目の半紙が投げて寄越された。そこには丁寧な形の字で、


『瀏親王殿下に初めて御意を得ます』


「お初にお目にかかる。もし宜しければ、其方の姓名を伺いたい」


『忘れました。しかし、蓮という字が入っていたことは覚えている』


「ならば、其方のことは『蓮』と呼ぶことにしよう。宜しいな?」


『はい』


 ぼくは『彼女』に幾つかの質問を投げかけた。答えが返ってくるものもあれば、答えたくない、無視を決め込まれる質問もあった。しかし、これまで何一つ解らなかった幽霊のことが少しずつ明らかになるにつれて、段々とこの一件が面倒なものであることを、ぼくらは否が応でも理解させられた。


「其方はどこから来た?出身は、歳は?」


『何も覚えていませんが、江西省の山の中から記憶があります』


「何故李翰林に取り憑く?」


『縁あってのことです。詳しくは答えたくありません』


「二人の美女の姿を取ったと聞いたが、もう一人はどうした?また、どの様にして取り憑いた?」


『もう一人のことは秘密にする約束です。また、わたくしは美女の姿ではこの男の心を動かせませんでしたので、やむを得ず茄子に化けて潜り込みました』


 なるほど、夕食の後に俄かに体調を崩したのはこういうわけだったか。今後茄子はあまり口に入れたくないな。ぼくは勝手に頷きながら、『彼女』との対話を続ける。


「彼をどうするつもりだ?」


『……』


「答えぬつもりか。それもまた良い。だがそれにしても、其方は大層な美人であるそうだが、何故わたしを誘惑しに来ない?これでも、それなりの美男子であると自惚れているが」


『殿下のお美しさは皆存じております。しかし、こればかりは縁のないこととしか、申し上げられませぬ』


「そうか、寂しいことだ。だがそれにしても、腹の中とは狭苦しく汚いところではないか、もしよければそこから出て来て、わたしにその美貌の程を拝ませては貰えまいか?」


『卑しい身の上です。殿下のお目汚しになるなどとんでもないことでございますから』


 かたん、と李翰林の体が筆を放り出し、気を失った様に倒れ込んだ。どうやら今日の対話はここまでらしい。ぼくらは彼を寝台に運んで元の通りに寝かせると、前後策を話し合った。


「さて、ひとまず幽霊と意思疎通が取れることは分かった。だから、今後は対話を通じて何とか外に出す試みを─」


「旦那様、失礼致します!たった今、江西の呉巡撫と張天師がご到着になられました!」


「なんと!直ぐに、直ぐにお通しせよ!」


 ぼくらが急いで屋敷の玄関まで向かうと、そこには巌のような体付きをした大柄な髭面の男と、腰の辺りまで届こうかという長い白髭を生やした老道士が立っていた。前者が呉巡撫、後者が張天師。共にぼくにとっては祖父にも匹敵する年齢の人だ。彼らは手短にぼくへの挨拶を済ませると、直ぐに李侍郎の方へ顔を向けて、


「我が友よ、安心せよ。たった今江西から張天師がお付きになった。天下を代表する稀代の道士がおれば、悪霊払いなど造作もあるまい。早速支度をいたそうぞ」


「はっ、ははあっ」


 待て、という言葉が喉元まで出かかったが、すんでのところで『名無し』に止められる。彼は首を振って、視線だけで物を言った。


「今日もわたしたちは部外者なのです。口を出してはいけません」


 ぐっ、と唇を引き結び、ぼくは悔しさを押し殺して二人の方針に同意するしかなかった。あくまでも目的は李翰林を助けることであって、その為に幽霊との対話が必要でないのだとしたら、ぼくの意思を無理に押し通すわけにはいかない。


「(だが、それにしても嫌な予感が拭えない。むしろ、藪から蛇を突き出すようなことにならなければいいのだが)」


 算段はすぐにまとまり、今から京師郊外の廟に祭壇を築き、三日三晩の潔斎の後、悪霊祓いの儀式を執り行うことが決められた。伏魔大帝をお迎えして悪霊を引き摺り出し、打ち払うとのことであった。ぼくと『名無し』は儀式に立ち会う準備をする為に一旦屋敷へと戻り、二人して酒と生臭を断つ旨を爺やに伝えた。また何ぞ面倒ごとですか、という表情を浮かべた彼の表情が、その時は逆に有り難かった。

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