茄子と狐と女
第二十話 茄子と狐と女 甲
「少し、お話を聞いて下さいませんか、殿下」
馴染みの妓女である藍珠がぼくにそう言ったのは、三月の初め、夏の気配がだんだんと近づく頃の、ある夜のことであった。
この日、ぼくはふと気になったので彼女の務める妓楼へ手紙をやり、近況を聞きたいから仕事が終わった後に登楼しても良いかと問うた。すると、果たして退庁の時間間際になって返書がやって来て、
「ぜひいらして欲しい」
とのこと。それは重畳と思い、そのまま屋敷にも帰らずにやって来たという次第であった。
「あの方は今日はいらっしゃいませんの?」
「彼は屋敷勤めだからな。今日は仕事が終わってそのままここへ来たからいないのだ。お前とは通訳が無くとも話が通じる訳だし……」
「そうでございましたか。ちょうどわたくしも、殿下と二人きりでお話ししとうございました」
「彼に何か秘密ごとの相談か?ならよした方がいい、ぼくは口が軽いもので、こと近しい人にはなんでも相談してしまうからな」
「ほほ、いえ、そこまで大それたことではありませんわ」
藍珠とは、この少し前にある一件で知己を得、以来付き合いが続いている仲である。彼女は八大胡道に提灯を掲げる花街の妓女で、それも春をひさぐ様な格の低い女ではない。貴人が密やかに通う様な最上の妓楼、清吟の看板なのだ。
そんな彼女がわざわざぼく一人の為に侍ってくれる機会があるのだ、そこにわざわざ他人を呼んで水を差す阿呆が何処にいるだろう?と、一応ぼくは心の中で言い訳をした。また家に帰れば彼からぐちぐちと小言を言われるかも知れないが、それはそれだ。
「まあいい、ひとまず今日はお前の近況を聞きに来たのだ。どうだ、この妓楼に移ってしばらく経つが、暮らしには慣れたか?」
「はい。まだ妹は未熟で店には出られませんけれど、もう少ししましたら一人前の妓女として、芸を披露することもできますわ」
「ほう、それは楽しみだ。だがそれにしたって、お前の妹も妓女として働いていた期間があるというのに、この店の『一人前』とは他所の『十人前』に相当するのかも知れんな」
「元々彼女は、専ら春をひさぐ低級な店におりましたから。芸事は殆ど何も仕込まれていなかったのですわ……」
彼女が注ぐ酒をじっくりと味わいながら、ぼくは話に耳を傾けた。一見華やかに見えて、少し踏み込めば逃れられぬ地獄が広がる妓女の世界、ぼくらがかつて目の当たりにしたのは、そのごく一端に過ぎなかったのである。
「ところで、お前はここに入ってから一月たらずで看板の地位を手に入れたと聞くが、やはり妬み嫉み、やっかみなどもあるのではないか」
「ええ、それは何処にでも。現に殿下がいらっしゃる前、簪が五本ばかり纏めて失せまして。問い詰めたらわたくしに嫉妬した他の妓女が禿を使って盗ませたそうですよ」
「それはまた。えらく面倒なことをしたものだ」
ほほほ、と藍珠は笑っているが、簪五本となれば金銭的な打撃も無視できない。上級妓女に相応しい装飾が施されたものとなれば、腕利きの彫金師に大枚叩いて作らせねばならないだろうに。
「ですが、この程度の嫌がらせは前に居たところでもございましたから。むしろ、殿下のお陰で大分減りましたわ」
「ぼくのお陰?」
「ええ。『藍珠は瀏親王殿下のお気に入り』だと皆が噂をしておりますから。流石のお方々も、皇族の怒りを買うのは恐ろしく思うものと」
「そうか。大した力もないこの身だが、役に立てたのなら幸いだ」
「……いえ、殿下は非力ではございませんわ。わたくしと、わたくしの妹とを……鮮やかに救って下さったではありませんか」
「またその話か?いい加減に忘れよ、とそう言っただろう?」
「忘れることなどできませんわ、殿下」
じっと大きな目で見つめられると、思わずぼくの心臓はどきんと震え、柄にも無く早鐘を打ち始める。吸い込まれる様な美しさ、単に素地が整っているだけではなく、それ以上のもの─妓女として積み重ねた経験や、波に揉まれて垢抜けた心持ち、その中に光る一筋の真情─が彼女の面差しにはあった。ぼくは情け無くもそこから目を背けて、
「もういい。この話しはよそう。それよりも何か、面白い話など無いか、ぼくが興味を惹かれる様なものは」
「……そう、でございますわね」
藍珠はしばし考えている様だったが、ややあって、思い出した様に呟いた。
「それでは……少し、お話を聞いて下さいませんか、殿下」
この店の馴染み客の一人に、朝廷の侍郎を務める李鶴峰という人がある。その李侍郎の長男は
「ところが、今からひと月程前、急に振る舞いがおかしくなり、今では痴人同然の有様になってしまったのです」
曰く、手で自分の頬を真っ赤に腫れ上がるまで叩いたかと思えば、大雨が降っている外へ飛び出して、庭に転がっている石を口いっぱいに詰め込んで、ずぶ濡れになるのも構わず跪いている。
偶に尋ねてくる人があればそれに合掌し、時には恨めしそうな顔をして自分の首を絞めようとすることさえあると言う。
「何とも恐ろしい話だな。原因はわかっておるのか?」
「分からないのです。ただ、李侍郎のお話によれば、ある夜に、二人の美人が彼を訪ねたことがあったとか。二人は彼に言い寄ったそうなのですが、彼は心を動かすことなく、女は渋々立ち去りました。その翌日の夕餉を食べ終えた後から─」
「様変わりしてしまった、と言うわけか」
常識的に考えれば、二人の女はこの世の人ではない。妖魔、亡霊の類だ。
「なるほど、確かにぼくの……いや、と言っても、ぼくは妖怪変化ばかり好き好んで相手をしているわけではないぞ、藍珠」
「ええ、分かっておりますわ。でも、お好きでしょう?こういうお話」
まあ、それを言われれば返す言葉も無い。ぼくは苦笑いを浮かべて頭を掻き、
「分かった、少し調べてみよう。李侍郎宛の紹介状を主人殿に頂けるかな」
「かしこまりました」
程なくして、藍珠は一通の紹介状を持って部屋に戻ってきた。宛名は李侍郎、送り主はこの楼の主人と、馴染みらしき妓女の名前になっている。わざわざ主人が乗り出してくる辺り、この父親は相当のお得意様だったのだろう。
「ありがとう、では、今夜のところはこれでお暇しよう。屋敷に戻って、明日の訪問の段取りをつけなくてはいけないから」
「……本当に、お帰りになってしまいますの?」
少し寂しそうに彼女は目元を伏せる。眦を下げて服の袖口を少し掴まれると、どうも動こうにも動けない。人を留めるには大した力など必要無いのだと、ぼくは理解した。
「済まないな、早く帰らないとあいつが寂しがる」
「わたくしよりも、あの方のことがご優先ですのね」
「嫉妬かい?お前らしくもないな」
丁寧に結ばれた艶やかな髪の上に手を置くと、子供扱いするなと言いたげな上目遣いをして、小さく頬を膨らませる。
「ええ、悪いですか?意中の殿方を独占する方は、誰であれ妬ましいものでございますよ」
「戯れを。ぼくなどより、ずっとよい男を選び放題の身の上ではないか」
「案外殿下は、人がご自身に向ける思いというものには無頓着でいらっしゃいますのね。今だけは己の身分と、殿下の聡明さが恨めしゅうございます」
手練手管としか思われないことは、彼女とて理解しているのだろう。その瞳に浮かぶ涙の正体が嘘なのか、それとも真なのか。まだ十八のぼくに分かろうはずもない。だからぼくは、抱きしめてやることにした。少し不器用な動きで手を後ろに回し、親が子供にしてやる様な浅い抱擁をくれてやると、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「また来る」
「はい、お待ちしております」
きっと、あいつは不機嫌になるだろうな。煙草に混ざった白檀の香、その正体を知らないあいつではないのだから。
・注釈
1…翰林院は朝廷の部署の一つで、詔勅の起草や皇帝の諮問に応えるなど、官房にも似た役割を果たした。
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