第二十七話 茄子と狐と女 終
また、ささやかな後日談。また二週間ほど経って、ぼくらは李翰林の快気祝いと称する宴に招かれた。会場はもちろん、あの馴染みの高級妓楼である。この時は流石に『名無し』も連れて行った。また露骨に機嫌を悪くされては堪らないから。
太っ腹なことに宴席の代金は全て李侍郎が持ってくれた。まあ、息子を救ってくれたということで、報酬を支払ってくれたつもりなのだろう。正確なところを言えば、ぼくはあくまでももの妓楼の主人から頼みごとをされたから首を突っ込んだのだが、まあ細かいことは考えずに素直に受け取っておくことにした。
そして、宴が果てて皆帰るか妓女と共に部屋へ消えたころ。藍珠に呼び出されたぼくは『名無し』を先に帰らせ、彼女の部屋で二人きりで会った。
「今回はありがとうございました、殿下」
「別に、大したことはしていないさ」
ぼくの好みを知っている彼女が煙草盆を持ってきて、用意をしようとするのをぼくは留めて、
「悪いが、煙草はやめておく。最近禁煙を言い渡されてな」
「まあ」
この世の中に、恐れ多くも親王殿下に禁煙を命じられる人間かいるとは、という驚きの表情だ。実際誰が言いだしたことなのか、彼女にも想像がついているのだろう。
「あの方、ですの?」
「正解だ。ぼくに禁煙などというものを命じる忌々しい人間はあやつのほかにいないわ」
「……そう、ですか」
彼女が柳眉を曇らせ、うつむいたのを訝しんだぼくは、
「どうした藍珠。調子が悪いのか、なら今日の所はこれでお開きにしよう」
「いえ、大丈夫です、お気遣いなく」
それでも、心配なものは心配だ。ぬるくなったお茶を飲みながら、ぼくは黙ってしまった彼女の顔を見つめる。それにしても、見れば見るほどいい女だ。流石京師最高峰の妓楼の看板、その称号に恥じない美しさを持っている。この女を過去に抱いたことがある男が、少なくとも一人はいると考えるだけで、嫉妬に狂いそうになる……そう呟いた男の気持ちもよくわかる。
「藍珠。お前は本当に、いい女だな。こうして黙ってうつむいていても華がある。笑っていれば牡丹のようだし─下を向いていても、水仙のように可憐だ」
「なら、どうしてわたくしを受け入れては下さいませんの?こうして、殿下がいらっしゃるたびにわたくしは……」
部屋に招き入れて、この一夜を共に過ごさないかと、奥ゆかしい誘いをくれる。その意味が分からないほどぼくも子供ではない。
「すまないな、藍珠。ほかにぼくにできることがあれば、なんだってしてやると、そう思っているのに」
「どうしてですの。殿下はわたくしの前ではいつも、海のように深く、どこまでも人をおぼれさせるような方ですのに。あの方の話をなさるときは、純真な子供の様なお顔をなさって。ああ、本当に─嫉ましゅう、ございますわ」
彼女の双眸からあふれる涙を指で拭ってやりながら、ぼくは言った。
「買いかぶりすぎだ。ぼくはそんな、大それた人間じゃない─お前の様な美人の表情に振り回されたり、子供っぽい執着心で迷惑をかけたりするくらいの、その程度の人間でしかない。そうでないなら─どうして、お前とこうして、古めかしい祖先の言葉で話したりするだろう」
ぼくは不器用に、座り込んだ彼女の
「偽らざる思いを言おう。ぼくはお前を好いている、愛している。だがそれは、お前の求めるものではあるまい。ぼくは自分の好いたものを彼と分かち合いたいと望んでいるが、お前はきっと、そうは望まないだろうから。それがすべてなのだ、藍珠」
今夜はありがとう、そう一言だけ言って、ぼくは部屋を出て行った。彼女の寂しさを思うなら、一服吸ってやってもよかったかもしれない。そんな一抹の罪悪感が、ぼくの心に隙間風を吹かせていた。
日付が変わる間際になって、ぼくは屋敷に帰ってきた。普段時を過ごす居間の戸を開けると、まだ部屋には明かりがついていて、見れば彼がぼくの煙管の手入れをしていた。
「羅宇が相当汚れていましたから。手入れしておきました」
「そうか、ありがとうな」
少し古くなった真鍮製の煙管。そのあたりの庶民が使っているようなものと変わりない、ごく簡素な品物で、さっきまで話していた藍珠の方が、はるかに良いものを使っていることだろう。ぼく自身、雁首や吸い口が金で出来たものや、真ん中の羅宇が紫檀で出来たものなど、幾らでも高級な代物を道具入れに放り込んでいる。しかし、結局はこの煙管で吸うのが一番うまい様な気がするのだ。
「手入れしてもらったところ悪いが、早速一服吸ってもいいか?」
「そうおっしゃると思って」
彼は蒔絵の装飾がされた煙草盆を持ってきて、手早く火皿に炭火を入れる。そして、懐から翡翠の根付が付いた煙草入れを取りだし、
「お返しいたします。二週間よく頑張りましたね」
「並大抵の苦労ではなかったぞ」
苦笑いしながら煙草を雁首に詰め、火をつける。久々の一服をゆっくり味わって吸い込み、夜霧の様な薄い煙を口から吐き出す。
「うまいな、久々の煙草は」
「ご満足いただけて何よりです」
「お前も吸え。折角の一服を独占するのはもったいないからな」
「いえ、わたしは」
「いいから吸え。先の方は熱いから気を付けろ」
手渡された煙管を不器用な手つきで彼は口にくわえ─盛大に咳込んだ。
「ごほっ、ごほっ!」
「ははは、相変わらず吸いなれていないのだな」
「勘弁してくださいよ。煙いし」
「どうせもう寝るんだ、そこまで気にする必要はあるまい」
返してもらった煙管をもう一度咥え、吸い込む。同じようにふう、と煙を吐きだして、たまった灰を捨てる。
「ありがとう、『名無し』」
「……なんか、今日は馬鹿に優しい態度ですね、永暁さま」
「そうだな、誰かさんのせいで、少ししんみりした気分になっているからかも知れん」
「しんみりした気分、ねえ……」
彼は胡散臭そうにつぶやきながら、諸々の道具を片付けていく。その様子を見つめていたぼくは、やがて大きなあくびを一つすると、ごろんと寝椅子に寝転んだ。
「ちょっと、寝るなら寝室へ行ってください」
「いいじゃないか、偶にはここで寝ても」
「あとで怒られても知りませんからね」
そう言って彼が灯明を吹き消すと、明るかった部屋は一気に夜の闇に閉ざされる。
「(もう寝るか)」
目を閉じて、体から力を抜く。やがてぼくの向い側から、同じような寝息が聞こえてくるのを楽しみながら、ぼくもまた夢の中へと落ち込んでいった。
少し長くなってしまったけれど、このお話はこれまで
参考資料: 袁枚『子不語』
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