第十八話 通判家の怪 己
はて、どのくらいの時間が経っただろう。再び気を取り戻した時、ぼくは馬の背に一人でもたれかかっていた。誰かがぼくを乗せたのか、それとも夢遊病者の様にひとりでにあの屋敷を出て、ひとりでに馬に乗ったのだろうか。いずれにせよ、その時のぼくにとってはどうだっていいことだった。
うつろな目であたりを見てみると、馬は粗い林の中を、どこかを目指して歩いている様だった。馬任せの、気ままな旅。上から降り注ぐ夕暮れ時の日の光が心地よかった。
ひひん、と馬が一声嘶いて、足を止めた。降りろ、とでもいいだけに首を振ってきたので、ぼくは素直に鞍から地面に降りる。目の前には、あちこち苔むして、荒れ放題になった小さな廟が建っていた。ひび割れて、今にも砕け落ちそうな扁額には錆びついた文字で、『関聖帝廟』の四文字。
「何かがぼくをここに導いたのだろうか」
決して信心深いとは言えないぼくだったが、この時ばかりは何かに縋りたかった。ぼくは廟の中に駆け込み、蜘蛛の巣と埃の衣を纏った関帝の像に額づいた。
「罪深き永暁、関聖帝君に拝謁いたします」
小人は徳薄く、臣下の諫言を顧みることも無く、世を欺いて生きて参りました。そのわたしが天罰を受けるのは当然の理で、誰を恨もうとも思いません。しかし、何故天は何の罪もない包衣の命を奪われたのでしょう、暗君に仕えたとはいえ、彼は忠節を尽くしよく諫言をしました。臣下としての役割を十二分に果たしたはずです。どうして彼が、ぼくなどの身代わりにならねばならなかったのでしょう?
ぼくは涙を流しながら、神像に思いの丈をぶちまけた。もはや何の期待も胸には残っていなかったが、何かを言わずにはいられなかった。誰一人として聞いてはくれまい、自刎する為に短剣を忍ばせてこなかったことが悔やまれてならない。ぼくは一人で話し続けていた。
「おや、珍しいことも有るものだ。この荒れ果てた廟に来る人があるとは」
ぎょっとして後ろを振り向くと、そこには虫に食われ、穴だらけの袈裟を纏った僧侶が裸足で立っていた。顔つきは厳めしく、岩に刻んだ仁王像の様に頑なな目で、ぼくのことをじっと観察している様だった。
「これはいかん、そちの顔には妖気が浮かんでおる。このままでは、家臣共々とり殺されてしまうぞ」
「家臣共々、とは異なことを仰います。すでに彼はわたしのもとから去ってしまいました」
「それは妖魔の術がそちの目を曇らせているだけのこと。お前の家臣は術で囚われの身となってはいるが命までは失っておらぬ、しかし、そちがこのまま手をこまねいて居れば、共々死ぬることになろうぞ」
それを聞いて、ぼくの心にもう一度火が付いた。ぼくは猛然と僧侶の袈裟に縋りつき、
「どうぞ、どうぞお教えください。ぼくは何をすれば宜しいのでしょう、何でも致します、元よりいつ失っても構わぬ命でございます故」
「慌てるでない。よいか、わしの言う通りにせよ。まずこの包みを今から肌身離さず持っておけ。そして、今日の所はこのまま王府に戻り、沐浴をして眠れ。翌日以降もそうせよ。決して肉や酒を口にしてはならない。いざ身代わりの儀式の日となったら、願い出てそちも立ち会うのじゃ。決して早まってはならぬ。時が来たらこの包みを開けよ。さすればお前も、お前の家臣も助かる。このことは誰にも言うでないぞ、分かったな?」
「仰せの通りにいたします」
深々と拝礼したぼくが頭を上げた時、僧侶の姿は忽然と消えていた。しかし、なにやら頭にかかった靄がすっかり晴れたような、ずっしりと重い荷物を肩から降ろした様な良い心持ちになっていることに気が付いた。外に出てみると、雲一つない夜空に煌々と月が輝いていて、あたりには涼やかな風が吹き渡っていた。
「(そういえば、あの僧侶の言葉は、心に直接染み渡るように響いた。通訳が居なくとも、理解することができたし)」
やはり、この世のただ人ではないのだろうか。だが、例えそうだとしても構わない。ぼくは包みを懐に大切にしまい込むと、馬に飛び乗って鞭を入れた。すぐに京師に戻らねばならぬ。今度は一人きりの戦いになるのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます