第十七話 通判家の怪 戊

 そのままぼくらは二人で一頭の馬に乗り、詐欺師の後ろについて道を歩いて行った。その庵とやらは京師から離れた山の中にでもあるのかと思っていたが、何とも拍子抜けしたことに、外城の門を出てから半時もしないうちに、小さな川のほとりに構えられたその門が見えてきた。


 周囲には背の高い草木が生い茂り、いかにも俗塵を離れた道士の寓居と言った風情であったが、その壁は些か小綺麗過ぎていたし、奥の方に見える甍もしっかりとした瓦葺きである。修行をする為の仮の宿りというよりは、高官が密かに妾を囲っておくための別宅と言った風情に感じられる。


「怪しいにもほどがないか、『名無し』」


「分かりますけどね、そう疑ってかかるものでもありませんよ」


「ではお二方、どうぞ。お乗りになった馬は弟子に厩に繋がせます故」


 ぼくらは言われるまま馬を下り、その『庵』とやらにゆっくりと足を踏み入れた。外面の豪華さに比して、中の雰囲気や調度品は質素であり、黄金でできた香炉も緞子で織られた敷物も無い。


 だが、相変わらずいけ好かない雰囲気は肌にまとわりついてきて、一向に離れてくれない。ぼくは前にも役に立った様に、少しばかり鼻が敏感である。今回もぼくの鼻は本来有り得べからざるものの匂いをとらえ、露骨に顔をしかめさせた。


「肉と酒の匂いがする」


「えっ」


「恐らくあの奥が厨房なのだろうが、そこから豚肉の匂いと、酒を醸した時の匂いがしてくるんだ。生臭はご法度のはずなのにな」


「ふうん……」


 彼は腰に提げた剣に手をかけ、あの頼もしいハヤブサの目で周囲を警戒している。その気になれば彼はぼくよりもずっと強いのだ。だから、安心して背中を任せられる。


「さあ、こちらへどうぞ」


「ずいぶんと長い廊下だったな」


 ぎい、と異様な音と共に扉が開かれ、ぼくたちはごくありふれた、小さな客間に通された。中には湯気を立てている茶椀が置かれた円卓と、客が座るための椅子が二つ。それだけのごく簡素な部屋。しかし、普通なのはあくまでも内装だけで、壁と扉は異様に分厚く窓も一つとして無い。まるでこの部屋は─


「地下牢の様だな」


 その時だった。ぼくらの後ろにいた道士が何やら呪文を唱えたかと思うと、ごう、という音と共に部屋の中で火花がはじけた。気配を察した彼が後ろに剣を振りかぶった時にはもう遅く、奴の姿はそこにはない。


 代わりにぼくらの目の前には、見るも悍ましい異形の化け物が二匹─目はえぐられたように落ちくぼみ、爛々たる光を放ってこちらを見ている。六尺近い体躯は小枝の様にやせ細り、猿か何かの様に小さな毛でびっしりと覆われていた。しかし、最も目を引くのはその頭であった。馬車の車輪ほどに大きな頭が細首の上に乗っかって、頬まで割けた口からは虎の様に獰猛な牙が覗いている。


「何やってんだ!早く逃げろ!」


 言うが早いか、彼が強引にぼくの体を引き戻し、部屋の外に突き飛ばした。すぐさま化け物たちが正面に立つ彼に突進するが、一匹目は鮮やかな回し蹴りを左頬に叩き込まれて昏倒し、もう一匹は泰山の様に反り立った鼻に剣を突き刺されて悲鳴を上げる。


「行くぞ!」


 分厚い扉を閉めて廊下に飛び出ると、既にそこは魑魅魍魎の巣と化している。狭苦しい廊下に前から、後ろから、或いは天井から異形の連中がぼくらに手を伸ばしてくる。それを一つ一つ冷静に叩き伏せながら、彼はぼくを出口へと導いていく。


「先に走れ、永暁!俺が後ろから来る連中を食い止めるから」


「分かった!前はぼくが道を開く」


 懐から取り出した真鍮製の煙管で化け物の脳天を叩き割り、そのまま体ごとぶつかって道を開く。大混雑の廊下だったのは却って幸いだった。後ろまで将棋倒しになった連中の顔を道代わりに踏みつけて、ぼくらはひたすら前を目指して突っ走る。後ろには彼が居る、ぼくに連中の刃は絶対に届かない。外から差し込む、玄関の光がぼくらの視界の真ん中に見えた。ぼくは顔を紅潮させ、喜びと興奮のまま、振り返って叫んだ。


「もうすぐ出口だ!お前も早く……」


 そこには、誰もいない。溢れていた化け物も、その渦中で戦っていたはずの彼も。誰一人として、そこにはいなかった。ただ点々と、小さな血の雫が二、三床に垂れているばかりで、ひょうひょうと外からの風の音が耳に響くばかり。


「『名無し』おい、何処へ行ったんだ!冗談はよせ!どこにいる!」


 叫んだが、返事は無い。誰一人として、ぼくに答えてくれるものは無かった。


「くそっ!何処だ、何処にいる詐欺師め!今すぐぼくの前に姿を現せ!叩き殺してやるぞ!」


 ぼくは空しく煙管を振り回す。空を切り、酔っ払いの様に目をぎらつかせ、ふらふらと歩き回った。それでも、誰も答えてはくれない。彼はどこへ行った、誰が隠した!返してくれ、ぼくの包衣を!


「頼む、誰でもいい、返事をしてくれ。お前は、お前はどこへ行ってしまったんだ」


 とさりと力なく、ぼくは膝をついた。ぼろぼろと、両の目から涙があふれ出る。視界が滲んで、何もわからなくなっていく。彼を失った。その冷たい海嘯がぼくの中に流れ込んできて、人としての温かみを奪っていく様な。


 やがて、ぼくの視界と心は、深い闇の底へと落ち込んでいった。水面に浮かんだ枯葉が、少しずつ沈んでいくように……。

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