第十六話 通判家の怪 丁 

 翌日。二日酔いと睡眠不足に由来する頭痛を抑えながら、ぼくはまた駕籠に乗って楊通判の屋敷に向かった。相変わらず敷地の中からは壮大な読経の大合唱(鉦と太鼓の伴奏つき)が流れていて、普段は気にもならないのだが、この日ばかりはがんがんと痛む頭に響いて怒りを覚えた。


「そういえば、永暁さま。昨晩頼まれた調べ物の件ですが」


「ああ、どうだった?」


「やはりというべきか、不首尾に終わりました。何しろ、この京師だけでも膨大な数の道士がおりますから、あれだけのわずかな情報では、見つけるのは難しく」


「そうか、そうだろうな」


 昨日の晩、ぼくは酔いつぶれて眠ってしまう前に、彼に件の道士について書庫の資料などで調べてくれる様頼んでおいた。目の下の隈から察するに、彼も相当遅くまで調べ物をしてくれていたのだろう。本当に申し訳ないことをさせてしまった。


「で、今日は一体何をしたらいいんです?永暁さま」


「差し当たって、昨日のうちに葬礼に必要なものは万事手配しておいた。今日は楊家の財産の目録を作り、臨時の管理者を決めなくてはならん。昨日に負けず劣らず煩雑な仕事になるぞ」


「うへえ」


 そうこうしているうちに、ぼくの駕籠はまた目的地に到着してしまった。例によって丁重なお出迎えを受けながら、屋敷の奥へと通される。すると、案内された先は来客用の部屋ではなく、かつて当主とその家族が食事をとっていたであろう大きな広間だった。


「こちらで少しお待ちください」


「何だ、茶でも振舞ってくれるのか?粗茶など出したら承知しないぞ」


「永暁さま、余り無茶を言うものではありませんよ」


 ふん、とぼくは鼻息荒く椅子にもたれかかった。少しくらいは言ってやらないと収まらない。


「ああ、殿下。お待たせしてしまって申し訳ございません」


「劉殿、これは一体どういうことだ。わたしは仕事をしに来たのだが……」


「誠に申し訳ございません。ですが、とても大切なお話ですから……」


 そう言って、劉老僕は一人の男を部屋に招き入れた。艶やかな白絹の衣を纏い、細い片足を引きずりながら、その男はにこやかな笑みを浮かべて円卓に席を占める。蓬髪をきらきらと光を放つ黄金の簪でまとめ、その左端には大きな孔雀の羽があしらわれていた。


「この方が賈道人か?」


「左様でございます、瀏親王殿下」


 道士は恭しくぼくに拝礼した。一目見てぼくはこの胡散臭い男が嫌いになった。『上善は水の如し』と老子は言っていたが、こいつは悪い意味で水の様な男だ。何事にも無定見、無節操で、自分のためならば何にでも手を染める様な気味悪さがある。


「(やはりお帰り頂くべきだろうか)」


 ぼくが席を立って彼を詰り、出て行ってしまえと言えばことは済む。しかし、あくまでもぼくは部外者であり、この家の人々が何をしでかそうと止める権利は無い。結局ぼくは話を聞きに七人の妾どもが部屋から出てくるまで口を開くことも、席を立つこともしなかったし、そのことを後で悔やむことになるのだ。



 半刻近く気まずい沈黙の中で待った後、ようやく最後の妾の化粧と身支度が終わり、円卓に全員がそろった。まずは劉老僕が口を開く。


「ええ、奥様方いい知らせでございます、昨日当家の門前を立ち去ってしまわれたはずの道士様が、何と戻ってきて下さったのです。これも阿弥陀仏様の結んで下さったご縁、旦那様の功徳に報いる天の配剤でございましょう」


「くだくだしい老人のお説教は要らないわ。それで、どうしたら旦那様は生き返りますの?」


 切れ長の目をした妾に気圧された様子で老人が口を閉じると、代わって賈道人が口を開いた。


「いやはやまことに、仏様や神様のお考えというのは広大無辺のことにございます。さる年の暮れ、庵の側に生えております小さな桃の木の根方でわたくしが休んでおりましたところ、夢に黄金の蓮に乗り、お優しいお顔をなさった阿弥陀仏様がお出でになり、『今から二日後に、京師に住む楊という金持ちの男が死ぬが、この男は大変に情深く、廉直な人である。それ故南斗、北斗の両神を始め生き死にを司る神々が寿命を延ばしてやることを今しがたお決めになった。しかし、もう死神が彼の所へ行ってしまったので、このままでは彼は死んでしまうことになる。そこでお前は今すぐに庵を出て京師に向かい、彼を蘇らせなさい』。そこでわたくしは急いで庵を出て、仏様がお示しになりました家に伺いましたところ、やんぬるかな、既に通判さまの魂魄は冥府に連れ去られてしまったあとでした。しかし、わたくしとて、何一つことを為さずしておめおめと山に帰るわけには行きませぬ。ですから昨日は一先ずご挨拶だけに留め、その後すぐに通判さまの魂を運ぶ死神を追い、色々と話し合ったところ、通判さまの魂を戻してくれることと相成ったのです」


「まあ!」


 一同の顔がパッと綻ぶ。中には熱心に南無阿弥陀仏を唱えている者もあって、とても諫言など言い出せない雰囲気になってしまった。道士は話を続けるが、続いてその口から飛び出したのは、思わぬ恐ろしい言葉であった。


「しかし、死神の連中、『一度、魂を乗せた死神の駕籠を空にして冥府へ行くわけには行かないから、しかるべき身代わりを出せ』とこう申したのでございます」


「身代わり?」


 途端、部屋は水を打った様に静まり返った。ぼくの問いに、賈道人は淡々と答える。


「冥府の駕籠は一度死人を乗せたなら、決して空で帰ろうとはしないもの。ですからわたくしは言いました。『分かった、三日後にこの方と縁の深い人の魂を身代わりに持って来ることにしましょう。ですから、それと引き換えに魂をお返しください』。

『よかろう、わし等の駕籠が三途の川を越えるまであと丁度三日ある。それまではまだ取り換えが効くが、それを過ぎればもうどうにもならぬ』と言った。それを聞いてわたくしはすぐに取って返し、こうして皆さんにお話をしているというわけでして……」


「「……」」


 案の定、広間には気まずい沈黙が流れた。先ほどまで天の配剤と喜んでいた劉老僕は冷や汗を浮かべて押し黙り、妾達はお互いの顔色を窺っている。大方、自分は身代わりになること無く、同時に気に入らない妾を冥府送りにする方法を探っているに違いない。


「あら、そういえばあなた、旦那様がご臨終のとき言っていたわよね。『このままお亡くなりになるのでしたら、わたくしすぐに後を追いますわ』。結局、いつになったら実行なさるのかしら?」


「お姐様こそ。旦那様の為なら死んでもいいって、心中立ての文を何枚も書いてやっと身請けされたわけでしょう?それとも何かしら、所詮妓楼上がりの女は嘘つきなのかしらね」


「何よ!」


「このアバズレ女!」


 死んだ後まで痴話喧嘩の原因になるとは。まったくお前は罪な男だな。ぼくは連中の言い争い、掴み合いの喧嘩を醒めた目で見つめていた。正直、こんな連中が身代わりになってくれるならその方がいいかも知れない。その方が京師の街が少しばかり静かになってよかろう。そんなことさえ考えだした時、


「分かりました、わたくしがお引き受けいたしましょう」


 声を上げたものがある。誰であるかは、言うまでもないだろう。ぼくは口をあんぐり開けて立ち上げると、思わず大きな声で叫んだ。


「劉殿、バカなことを言うな!」


「殿下、どうかお引止め下さいません様。もともとわたくしは、旦那様のほかに生きがいなどない老人でございます。もはや老骨ではお役に立てまいと思って暇を頂こうと考えておりましたところ、唐突に身罷られてしまって……それ故、御恩返しをする良い機会と、今は晴れ晴れとした気持ちでおります、殿下」


「だからと言って、こんな詐欺師の言うことを聞く必要はない!二十年来真面目に仕えた包衣に斯様な報いなど、あってはならぬことだ。いいか、ぼくも大勢の家臣を召し使う主人であるからお前に言うが、主人も主人で家臣を愛しんでおるのだ。かつて世宗皇帝ようせいていは億兆の人民の中に虐げられる者の有ってはならぬことを思い、天下の主人として、各地の卑賎の人々の軛を断ち切ったのだ。一度とて顔を遇わせたことも無い者たちにさえ、恩愛を注ぐ主人があるというのに、況や、生涯かけてすぐ側に仕えた老人を愛さぬ主人があろうか。楊通判はお前が身代わりになるなど、決して望みは……」


「永暁さま少し落ち着いてください。興奮して早口の満洲語で捲し立てられると通訳が追いつきません」


 ぐ、と悔し気にぼくは口をつぐむ。代わりに詐欺師が手を叩いて口を開き、


「なんと、なんと素晴らしい、忠臣の鑑でございますな劉殿。わたくし、感動して涙が止まりませんぞ。『割股奉君またをさいてくんにほうず(注1)』、にも劣らぬ美談にございます」


「口を慎め、下衆!その股の肉を割いた忠臣がどのような末路を辿ったか、知らぬわけがあるまい!(注2)」


「永暁さま抑えて」


 『名無し』に制止されなかったら、ぼくは殴りかかっていたことだろう。それほどまでに、ぼくの頭には血が上っていた。どうやらぼくは、君臣の仁義とか主従の在り方に関しては、些か興奮しやすい質の様だ。これはあまり良い性格とは言えない。何故なら─


「では、左様にわたくしをお信じ頂けないのでしたら、一度我が庵に殿下とそちらの方をお招き致しましょう。さすれば、わたくしがひとえに人の世を思い、修行に励んでいるのみの取るに足らぬ道士であることがご理解いただけることと思います」


「上等だ」


 そう、こう言うことになってしまうから。後ろで彼が大きなため息をついたのが聞こえる。ぼくが売り言葉に買い言葉で始めてしまった問題ごとの尻拭いをするのは、いつも彼なのだ。そして今回も、例外ではなかった。


・注釈

1…春秋五覇の一人晋の文公が、故国を追われ亡命生活をしていた折、家臣の介子推かいしすいが飢えた彼に、自身の太ももの肉を切り取って与えた故事。


2…前述の介子推は文公が国に帰った後、主君の呼び出しにも応じることなく、老母と共に人里離れた山奥に隠棲した。文公は彼を下山させる為に山に火を放ったが、結果彼は母親と共に焼死してしまった。このことから、彼が焼死したとされる日には、火を使わず冷たいものを食するという寒食節の習慣が始まったと言われる。

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