通判家の怪

第十三話 通判家の怪 甲

 「永暁さま、順天府(注1)の楊通判(注2)がお亡くなりになったこと、お聞きになりましたか?」


「んん?」


 二月も終わりが近づいた春のある日、朧月を肴に温めた酒を傾けていたぼくは、訝しげな顔を向かいに座る奴僕に向けた。こうした話を彼からするのは少し珍しいと、そう思ったのだ。


「珍しいな、お前からそんな噂話を持ち出して来るなんて」


「いえ、わたしだってそれなりに噂を聞くことはありますよ。それに─覚えていらっしゃいませんか、あの悪餓鬼の楊一坊のことを」


「悪餓鬼の……」


 ぼくはしばし頭を傾け、記憶の書庫をぐるりと一巡りした。やがて随分と昔の資料を仕舞い込んだ、埃まみれの本棚の中に該当するものを見つけ出すと、あぁ、と得心して手を叩く。


「楊一坊か、懐かしい名前だ。通判などとしっかりとした官職を名乗るものだから、全く分からなんだ」


 楊一坊。本名は確かありふれた楊忠、なんて名前だったはずだ。


 京師の外城に屋敷を構える士大夫の息子で、家が富裕で尚且つ喧嘩に秀でていたことから、あの辺りの子供らを一手にまとめる餓鬼大将だった。


 ぼくが一度王府を出て外城にある小さな別邸に滞在していた頃、物珍しさからかしょっちゅうちょっかいをかけに来て、度々『名無し』と大喧嘩を演じていたことはよく覚えている。


 今にして考えれば、いかに子供のこととはいえ皇族の子供に喧嘩をふっかけるあの悪餓鬼を見て、周囲の大人たちは戦々恐々としていたのではあるまいか。


「(ぼくがちょっと言えば、あの連中の家を全部平らに均して上に楼閣を建てることくらいできたのに)」


 と言っても、楊本人は別に悪い奴ではなかったので、ぼくはそうしなかった。大人しく大将に従えば、彼は色々なものをぼくらにくれたし、他の街の連中が喧嘩を吹っ掛けてきたら、すぐ駆けつけて守ってくれた。よくよく思い出すと、あいつの側にいた何十人もの子供たちの中で、絹や木綿の服を着ていたのはぼくらと彼だけで、あとはほとんど皆擦り切れた麻の粗末な服を着ていた。


 いつでも人差し指を軽く咥えて、物欲しげな目線をキョロキョロさせている様な連中だった。まだぼくが十の頃だったか、あいつに言ってやったことがある。


「今度からあの連中に物をやるな。あれはお前を慕ってるんじゃなくて、お前の手から出てくる饅頭や銭を慕っている様なものだぞ」


 すると、彼はぼくに向かってにっこりと笑いかけて、


「いいんだよ、それでもいつか、本当に俺の事を好きになってくれる奴がいるかもしれないだろ」


 金持ちらしくもない、不器用な男だと思っていた。


「……そうか、彼奴が亡くなったのか」


 少し長い回想を終えて、ぼくはまた一口酒を飲んだ。そして、空になった杯を並々と満たしてやり、それを月の方に向けて捧げ持った。


「クソ餓鬼め、精々待っていろ。ぼくの正体を知って驚く日を楽しみにしておくことだな」


 そう言って、ぼくは露台の上から庭にその酒を撒いた。少し遅れて咲いた桃の花が恨めしげにこちらを見ている様な気がしたが、今だけはどうか許してもらいたい。


「それにしても、随分と若くして出世したのだな。確か、ぼくよりも七つばかり上だったはずだから─二十五歳か。まだ幾らでも先があったはずなのにな」


「四年前の科挙で進士に及第して翰林院に入り、その後とんとん拍子に出世して、今や順天府の通判になったということで、楊の麒麟児と持て囃されていたそうです」


「麒麟児ねえ」


 確かに麒麟児だ。二十一での合格といえば、宋代の蘇軾(注3)よりも一年早く、これよりも早い人物といえばぼくは朱子(注4)の十九より他に知らない。あの時はあまり頭のできた奴には見えなかったが、しっかりと裏では勉強を積み重ねていたのだろう。


「それが死んだか。なんとまあ、何度惜しんでも足りぬことよな。それで、葬儀はいつ出ることになっている?」


「今彼の屋敷で法要が行われているそうですが、聞いたところでは、ちょっとした面倒ごとのせいで、遅れてしまうかもしれないと」


「面倒ごと?」


 ぼくは片眉を跳ね上げて問い返した。さては本題はそれか、というぼくの視線に頷いて、彼は話を続ける。


「実を言いますと、通判の家には妾が七人おり、子供も妻もいませんでした。そのせいで葬儀を主催する者がおらず、莫大な財産を誰が管理するかでひどく揉めているそうなのです。そこの老従僕から、何とかして貰えないかという話が、なぜかわたしのところに回ってきまして─」


「お前、意外と顔が広いのだな。まあそれもそうか、ぼくが屋敷にいる間外向きのことはお前にやってもらっていたし、手紙も代筆してもらっていたわけだから……」


 ぼくはしばし考えた。昔の知り合いが若くして死んだ。後には七人の妾と莫大な財産、しかも正当な管理者の資格を持つ者は不在ときている。ここは誰かが介入して、なんとか円滑に事が運ぶ様にしてやるより他にあるまい。こういう時、皇族としての身分と立場は結構物を言うのだ。相手に物を言わせない、という点において。


「分かった、その一件ぼくが預かろう。済まないが明日弔問に伺う旨、その従僕殿に手紙を書いてくれないか」


「畏まりました」


「それから、弔問に行くわけだから、それ相応の格好と品物を持っていかなくてはなるまいな。服と何か気の利いた品物を用意する様に命じてくれ。女以外でな」


「勿論でございます」


 では、と言い置いて彼は露台から中へ入っていく。一人残されたぼくはもう一口酒を飲み、更に盛られた焼き鳥肉を箸で摘んだ。そして、一旦は口に運びかけて、止める。


「馬鹿な男だ。お陰で肉を食い損ねてしまったじゃないか」


 酒の代わりに茶の入った瓶を手に取り、中身を注いで飲む。これも友達として最後にしてやることだ、面倒ごとが無い様に、出来る限り取り計らってやるさ。間も無く朧月が、より深い雲の陰に隠れていった。



・注釈

1…順天府は明清の頃に設置された北京周辺を管轄する府。清代では、同様に南京にも応天府、盛京(現在の瀋陽)には奉天府が設置された。


2…通判は地方官庁に設置された官職の一つ。従六品に相当し、財政を掌った。


3…蘇軾は北宋の宰相。別名蘇東坡。政務や教養に優れた人物で、有名な「春宵一刻値千金」の句の作者でもある。


4…朱子は南宋の儒学者。本名朱熹。儒学を中興して体系化し、朝鮮や江戸幕府において官学とされた朱子学を大成した人物。

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