第十二話 霓裳羽衣の曲 終
─「そうして、お前は密かに妹のもとへ潜り込み、食事や薬を差し入れる一方、妹と共に幽霊騒ぎを演じ続けた。地下から響く謎の声と、現れた不気味な女。誰かお節介焼きがそこに興味を持って、地下を調べようと言い出すまで……」
立入検査が終わり、董大人が役所へと連行された後。すっかり静かになった店の片隅で、ぼくは藍珠に言った。彼女はうつむき加減で黙って話を聞いていたが、その横顔には何処か晴れやかなものがあって、まるで憑き物が落ちたかの様だった。
「あまりにもか細い、蜘蛛の糸でございました」
でも、それに賭けようと思ったのです。追い詰められたわたし達にとって、他の策などもう何も浮かばなかった。頼りに出来る男もおらず、足抜けを試みた妓女に対する仕打ちは苛烈だ。ありとあらゆる者達が二人に背を向けていた。
「でも、わたし達は幾万分の一かの大きな不幸を背負いました。ならば、同じ様に、幾万分の一かの幸運に賭けても良いと思ったのです」
もし、この世に神か仏がいるのなら。何処かで狂った天秤の片方を戻してくれてもいいだろう。それは、この世の誰もが無意識のうちに信じ込んでいることだ。天網恢々疎にして漏らさず、そう信じて、ぼく達は生きている。
「きっとそうなのだろう、藍珠。ぼくもまたそうだ─幾万分、いや、幾億分の一かの幸運を背負って生まれた代わりに、同じだけの不幸と秘密を背負い込んで生きることになった」
「殿下にも、その様なことがあるのですね」
「ああ。お前にはいつか、話してやってもいいかもしれないな……それで、どうするつもりだ。おそらく白門楼は認可を取り消されるだろう。地下に監禁されていた妓女達は、それ相応の待遇を受けられる様、帝に申し上げておく。たとえ助からぬ命でも、せめて最期は人らしく迎える権利が、誰にでもあるはずだから」
「感謝致します、殿下」
「感謝するならば、帝にだ……それから、妹の件だが。医師の見立てでは、しばし療養すれば助かるだろうと、そう言っていた。お前の差し入れた薬のおかげだな……あとは、これを渡しておこう」
ぼくは懐からずしりと重たい白銀の包みを取り出し、藍珠に手渡す。
「五十両銀が二つ、合わせて百両ある。お前との価値ある一夜に、ぼくからの祝儀だ。おっと、足りないなどと文句を言ってくれるなよ、何しろ親王府とて銀余りが著しいわけでもないのだからな」
あら、と藍珠が笑う。よくよく考えれば、彼女が笑う顔を見たのは初めてのことではあるまいか。こんなにも艶やかで、幸せそうな顔を─
「こんなにも鋭い武器を最後に隠しているとは知らなかった。今なら後もう百両払ってもいい」
「流石にこれ以上は受け取れませんわ。元々殿方は、この身を以てしても返し切れぬご恩がありますもの─もし、身辺が落ち着いて、また妓女として働くことができる様になりましたら、是非、足をお運び下さいませ。妹共々、お迎え致しますわ」
「そうか。実にありがたいな」
だが、一つだけ。彼女には呑んでもらわなくてはならないことがある。ぼくは一転、まじめくさった顔を作って言った。
「だが一つだけ、お前には呑んでもらいたいことがある」
「なんなりと」
「もし、妹─シュトゥギを妓女にするのであれば、そのまま名前を『紫雲』とはしてはならぬ。それはぼくの字だし、そのせいでうちの包衣が誑かされては、後で困るからな」
ささやかな後日談。
京師きっての名門、白門楼は官許の証である鑑札を没収され、妓楼としては廃業を余儀なくされた。董大人は知府の役所に送られ、これより裁判を受けることとなる。重罰は免れまい。また、妓女を白門楼に押し付けて、体よく始末した他の妓楼の主人達も処罰を受けることとなるだろう。
二週間ほど経って、藍珠から手紙が届いた。どうやら彼女は、その詩歌と舞の技量を買われて清吟の一等妓女となり、回復した妹共々売れっ子として働いているという。今度顔を見せて欲しい、と手紙に書かれていたので、足を運ぼう。
と、この話を『名無し』にしたところ、彼はまた不機嫌な様子で、
「羨ましいですね、美女二人を同時に閨に呼ぶだなんて。しかもみんなお若いことですから、きっとお盛んなのでしょうねえ」
「お前のその、なんだ、色事となると不機嫌になるのは一体何なのだ」
「別に」
ぷい、と顔を背ける彼の頬はまた微かに赤らんでいる。ふと、頭に一つの可能性が浮かんだぼくは、にいっと笑みを浮かべて、
「なんだ、お前まさか女に触れた経験が碌にないんじゃないか?」
「!!」
露骨な動揺が顔に走る。隠し事が下手くそなのにも程があるだろう。
「そうか、それはすまないことをした。くく、この歳になっても経験のないお前を差し置いて、ぼくが大いにもてているのだから、不機嫌になっても仕方がないな」
「ちっ、違いますよ永暁さま!」
「何、安心しろ。ぼくがこれまで、自分の手に入れたものをお前と分かち合わなかったことなんて無いだろう?」
「……はい」
無造作に投げ出された彼の手を取ると、ほんの少し震えていた。お互い、儘ならぬものも、割り切れぬものもある。そこまで含めて、全てを飲み込んで、時間をかけて溶かしていくべきなのだろう。
「ただ、その。幾ら彼女らが若いとはいえ─四人で同時に、というのは少し難しいだろうから。その辺は少し、配慮してやらねばいかんぞ!」
「だから行きませんよわたしは!」
─だがそれにしても、一つだけ気になることは残っている。幽霊が藍珠だったのは分かる、彼女は大勢の者に目撃されているから。しかし、少女の声の方はどうだろう。妓楼の建物の壁は防音のために分厚く、地下からの助けが─それも病で衰弱し切ったか細い少女の声で─が伝わるものだろうか。
「(もしかしたら、『順風耳』の神か何かが、力を添えでもしたのかも知れないな)」
人間達が引き起こした事件、という評価に間違いはないが、人間達『だけが』関わった事件という結論は、少しの訂正を要するかも知れない。だがいずれにせよ、助けを求める少女の声を聞き届けるくらいには、きっとまともな何かなのだろう。特に心配をすることはないはずだ。
「さあ、『名無し』。着替えて外出する支度をしろ。今夜はまた、飲み明かそうじゃないか」……
これにて、この噂の話はおしまい。
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