第十一話 霓裳羽衣の曲 己
明朝。太陽の半身が地平線から身を起こし、少しずつ夜の残滓を駆逐していく頃。ぼくは朝廷に参内するときのように正装して、白門楼を訪ねた。しかし、今日は客としてではない。
「これは、殿下!再びのご来駕を賜りまして……」
「白門楼主人董一見。恐れ多くも主上の勅命である。今より直ちに、この店全体の一斉捜索を行う。誰もそこを動くな!手向かいする者は拘束せよ!」
ぼくが叫ぶや、背後に控えていた兵士たちが次々と店内に雪崩れ込んだ。手代も遣り手婆も何が起きたかさえわからず、狼狽するばかり。その間にぼくは松明を受け取り、『名無し』とともに帳場の奥へと突進した。
「見ろ、地下への階段があるぞ。隣の主人が教えてくれた通りだ」
少しだけ色の違う床板を蹴飛ばし、強引に狭苦しい階段を駆け降りていく。決して光の差すことがない妓楼の地下、その暗黒に横たわっているものを、容赦ない炎の灯りが照らし出す。
「やはり、か」
鼻をつく強烈な匂い。血と、膿と、吐瀉物と、排泄物の混じり合った悍ましい悪臭。それは紛れもなく、生きながらにして腐り果て、死んでいく人間の匂いだ。
「ひとりひとり運び出してやれ、慎重に!」
そう命じながら、ぼくは一人の少女の姿を探した。どこだ、何処にいる!と名前を呼んでやる。
「何処にいるのだ、『シュトゥギ』!」
「……ここにいます」
ほんの微かな声が応えた。今にも消え入りそうな小さな声に向けて、光を当てる。もう大丈夫だ。ぼくはそう叫んだ。そして、地下空間の隅で、ぼろぼろになった筵に横たわる少女の姿を認めると、夢中で彼女を抱き上げる。
「ようし、よく頑張った。よく頑張ったな、シュトゥギ。えらいぞ」
服が汚れるのも構わず、ぼくは痩せこけた少女の額を撫でた。階段を登って光の下に連れ出してやると、彼女は眩しそうに目を細める。妹を迎えに息を切らしてやってきた女に、ぼくは言った。
「もう安心だ、藍珠。いや、白門楼の幽霊よ」
真実はごく単純なことだった。白門楼の幽霊─それは唯の人間が、否、人間達が引き起こした一つの事件に過ぎなかったのだ。
「白門楼の地下には、『用済みになった』妓女達が監禁された場所─有り体に言えば、『処分場』がある、と言う噂があるのです」
昨夜。星稜庵の主人はそう語った。ぼくの尋ねたこと─『白門楼は何故まだ商売を続けられているのか』への答えだった。
「処分場、とは。随分と穏やかではないな」
「ですが、実際のところ全ての技法が持て余しているのですよ。特に病に冒された妓女などはね」
病に冒された妓女。毎日のように産み落とされる、ありふれた悲劇の一頁。それは外の人間からすれば、ある種当然の報いとも言えるものであるが、当人達にとっては地獄のような苦しみの、ほんの入り口に過ぎない。
「妓女といえど、官許の妓楼では勝手に処分することなどできません。たとえ病気になり、助かる見込みが亡くなったとしても、しっかりと養ってやらなくてはならないわけです」
「それを避ける為に、便宜上所属変えや預かりということにして、白門楼の地下に監禁していたと言うわけか。白門楼はその妓女の世話代の名目で金を受け取り、懐を潤している、と」
「はい、殿下」
だとしたら、藍珠が幽霊の装いをして地下に潜っていた理由にもある程度納得がいく。彼女は地下に監禁された妓女達に時折接触していたが、それを度々他の客に目撃されていた。そのことに尾鰭がついて、いつの間にか幽霊の噂へと発展し、自分の身を守る為に藍珠もそれを否定せず、むしろ積極的にそれを拡散していった……。
「だが、筋は通るがどうも釈然としない。まだ何か破片が欠けているように感じられるのだ」
「だからと言って、永暁さまが味噌樽や酒樽の間で夜明かしをする理由にはならないと思うのですよ。しかも、わたしまで一緒に」
「まあいいじゃないか。昔かくれんぼで隠れた虎の巣穴よりマシだと思うが?」
星稜庵の主人から話を聞き取った後、ぼくと『名無し』は共に店の地下倉庫に潜っていた。ちょうど隣り合う二つの妓楼、もし件の地下処分場なるものがあると言うのなら、ここに居ればそこから聞こえる声を拾うことができるかも知れない。
「つまり永暁さまは、件の少女の叫び声が、この地下から助けを求めている声だと、そういう風に考えているんですね?」
「まあな。藍珠が幽霊の正体である可能性が高まった今、その少女の声とやらも幽霊ではなく、実態を持った人間の声である可能性が高い。であれば、この地下から声を聞いて、正体を見極めることもきっと不可能ではないと思ったのだが」
「またえらく心許ない作戦を思い付きましたねえ」
揶揄いつつも否定することはしない。彼はいつでもぼくの愚行を献身的に支え、結果としていつも損をしている。申し訳ないと思わないではないが、
「まあ、もう慣れました。今夜も何の成果も得られなかったとしても構いませんよ」
邪魔な樽を取り除けて毛氈を敷き、交代で睡眠を取るための枕を用意しながら彼は言った。
「本当にお前は。わたしへの忠誠心が厚いのだな」
「勘違いなさらないでください。わたしは永暁さまを、まだ相応しい主人と認めたわけではありませんから」
「そうか。まだまだ頑張らねばなあ」
そう言いながらぼくは煙草を蒸そうと思ったが、この風通しの悪い空間で煙管に火をつけようものなら、煙くてとてもいられたものではない。仕方なく口に咥えるだけにとどめ、口の寂しさを軽減する。
「ところで、あの、さっきの聞き違いの件なのですけど。一体何に気がついたんですか?」
「むしろお前の方が先に気がつくと思っていたのだがな」
「先に?」
「ああ。そうだな、順番に口に出してみよ。満洲語の『父』、漢語の『母』、満洲語の『姉』、漢語の『災難』」
「ええと、『
「そう、完全に同じ、とは言わないが。あまり発音に詳しくない者だったり、言葉が途切れ途切れだったりした場合は、聞き違えてしまうものもいるだろうな」
「と言うことは、その叫び声を上げているのは─」
その時。分厚い土の障壁の向こうから、ぼくらの耳元にはっきりと声が聞こえた。
「お父さん、お姉さん……」
二胡の弦が切れた時に聞こえるような、痛々しい高さの声だ。しかし、よくよく聞いてみると、彼女が口に出している言葉が、よく耳になれた祖先達の言葉であることがわかる。
「やはりな。おい、そこで叫んでいる少女!こっちへ全部筒抜けだぞ!」
「!!」
向こう側で身じろぎしたのだろうか、何かが動いた気配がする。わたしはそのまま、満洲語で会話を強引に続けた。
「怯えることはない、わたしは瀏親王永暁。君のお姉さん、藍珠の幽霊騒動を調べているんだ。君が白門楼の地下に監禁されていることはもう調べがついている。だから、明日にでも官兵を率いて踏み込むことも可能だ。だが、まだ証拠が足りない」
「……」
「どうか知っていることを教えてくれ。それさえあれば、わたしは踏み込むことができる!」
「……わかりました」
壁の向こうの少女は『シュトゥギ』と名乗った。彼女曰く、自分は藍珠の生き別れになった妹であり、元々下級妓楼でこき使われていたのを、最近タチの悪い風邪を引き込んでしまったせいで追い出され、今ここにいるのだという。
「姉さんと再会したのは、今から一月ほど前のことです」
ジメジメとした地下に放って置かれ、時折残飯を乱暴に与えられるだけの暮らし。辺りには害虫やネズミが這い回り、病も悪化の一途を辿っている。その日は一際体が痛んだ。思わず、言葉が口からまろび出た。
『お父さん、お姉ちゃん……!』
「……そうしたら、本当に来てくれたんです。お姉ちゃんが。白門楼の売れっ子妓女になっていたなんて、知りませんでした」
「その時からか。この騒ぎの算段を─姉妹で協力して、幽霊騒ぎをでっち上げようと考えたのは」
「衰弱したあたしに出来ることは殆ど無かったので。できる限り苦しそうに、悲しそうに、叫んで欲しいと言われました。漢語はわからないけど……」
ああそうか、だから漢語でも意味がわかる発音の単語を選んで何度も叫ばせたのだな。尤も、『父さん《ama》』が『母さん《mama》』と真逆になってしまうのには少し笑ったし、『姉さん《eyun》』と『
「言葉とは全く、難しいものだな」
「ええ、心からそう思いますよ、永暁さま」
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