第十話 霓裳羽衣の曲 戊

 翌朝二人して陽が高くなってから目を覚まし、簡単に身支度を整えて(だらしない話なのだが、ぼくは結局昨日着てきた服のまま布団に潜ってしまっていた)一階に降りると、すでに店の人々全員が起き出して見送りに出てくれていた。


「いかがでしたか殿下、幽霊など、やはり根も葉もないことでしたでしょう?」


「ああ、そうだな」


 ぼくは董大人の言葉に鷹揚に頷くと、世話になった、と一人一人に頭を下げて回る。


「今後もぜひ、我が『白門楼』をどうぞご贔屓に!」


「そうさせてもらおう。だが、その前に、だ」


 ぼくは見送りに出てくれていた藍珠を側に引き寄せて、抱き締めるふりをして耳元に囁く。


「今夜は隣の楼に行こうと思うが─幽霊は果たして、現れるかな?」


 彼女は硬い表情でぼくの顔を見つめる。それにぼくは、とびっきりの笑顔を返してやったのだった。



 屋敷へ戻った後。ぼくは直ぐに白門楼の隣の妓楼─格もあまり高くない、中級の茶室だ─に使いを送り、少し聞きたいことがあるから部屋を一つ開けて欲しい、それからお忍びだから出迎えは一切不要の旨を伝えさせた。返事が来るまでの間を使って、ぼくは目立たない服に着替えると同時に、これまでに手に入った諸々の情報の整理をする。


「一つだけ、奇妙なことがあるのだ、『名無し』。なんだと思う?」


「なんでしょう」


「少女の叫び声のことだ。まず、最初に噂話で聞いた叫び声の内容は何だった?」


「『お母さん、辛いよう、お母さん、辛いよう……』」


「そう。ではここでもう一つ。藍珠が聞いたという取り憑いた幽霊の声はなんだった?」


「『お父さん、お姉さん……』」


 そう、この食い違いなのだ。今のところ藍珠だけが、『お父さん、お姉さん』という少女の叫びを聞いており、他の人間は『お母さん、辛いよう』。ほんの些細な食い違いに思われるが、この点にこそ何か大きなものが隠されているような気がしてならなかった。


「同じ幽霊の声を聞いた、ということが前提になってしまうが、この違いは明らかにおかしいような気がする。今日はこの点について、少し突き詰めて洗いたいところだな」


「承知しました」



 夕刻。ぼくと『名無し』は、ともに白門楼の直ぐ隣にある中級妓楼『星稜庵』に足を運んだ。白門楼ほど洗練されておらず、料金の上で足元にも及ばない、明るく猥雑な店だ。いかにも商家の次男坊と、その苦労性の世話人といった風情でぼくと彼が玄関を開けると、直ぐに主人が飛び出してきて、


「こっ、ここっ、この度は誠に、ごご、ご来駕を賜りまして─」


「余計な挨拶は不要。それよりも、頼んだ通り部屋は用意してくれたか」


「勿論でございます」


「よし、ではひとまずそこへ上がろう。何心配は要らない、必要以上の銀は用意してある」


「は、はいぃ」


 可哀想な主人だ。これまで、器量も身分もはるかにぼくより劣る人間しか相手にしてこなかったのだろう。せめてもの意思表示に、ぼくは彼の背中をぽんぽんと親しく叩いてやった。そうすると陸に打ち上げられた魚のようにびくんびくんと震える。あまり人をおもちゃにするな、という奴僕の視線が背中に突き刺さり、しぶしぶぼくは威儀を正した。


「実を言うとだ、主人。わたしは隣の白門楼の幽霊騒ぎについて調べておるのだ。まさか、知らぬと言うことはあるまい?」


「幽霊騒ぎ……ええ、確かに。よく知っておりますよ」


 主人は何度も額に浮かんだ汗を拭いながら頷いた。やはり、隣の楼で起こったことだけに無関心ではいられないようである。彼は幾つかの興味深い話を聞かせてくれた。いや、と言うより捲し立てられた。どうやら随分と腹に据えかねていたらしく、通訳が間に合わないほどの早口で舌が回る回る。


「いやあ、わたくしどももですね、商売に差し支えが出ると言うのでとても困っているんですよ。やれ女の幽霊が出るとか、少女の叫び声が聞こえるとか。本当に勘弁願いたいですよねえ、『お父さん、お姉さん』だなんて─」


「待った、待った!」


「へ、ど、どうかしたなさいましたか殿下」


「今、今何と言った?少女の叫び声についてのところだ」


「はい、ええと確か、『お母さん、辛いよう』と……」


「なっ」


 言葉に詰まったぼくが通訳の方を向くと、その男は済まなそうに、


「すみません、わたしが聞き違いをしました」


「聞き違い……?」


 その時、ぼくの頭の中にひとつの考えが閃いた。途方もなく馬鹿らしいことではあるが、幾分か説得力があるような気がする。


「……もしかしたら、そういうことだったのかも知れない」


「えっ」


「主人殿、済まないが二つほど教えて欲しいことがある。聞いてくれないか」


「は、はいっ」


 ぼくは矢継ぎ早に二つの質問を投げかけた。即ち、客足が遠のいた白門楼が何故まだ商売を続けられているのか、今一つはこの楼で幽霊の声を聞いた者がいるなら、どこで聞いたのか。主人は戸惑いながらも、その二つの質問に答えてくれた。


「……『名無し』」


「はい」


「今夜、ぼくらが何処で夜明かしをするべきか、お前なら理解できるだろう?」


「正直、ものすっごく嫌ですけどね」


 ぼくが自慢げにその場所を告げると、主人の顔は蒼白を通り越して土気色になり、な、なりまけん、断じてなりません、と叫ぶ。しかしぼくは、揺るぎない自信を持って断言した。


「明日、この幽霊騒ぎはすっかり解決する。ぼくが─瀏親王永暁が約束しよう」

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