第九話 霓裳羽衣の曲 丁

 「おい、『名無し』。ちゃんと話を聞いていたか?」


「んぁ?」


 やけに間の抜けた返事が返って来た。見れば、服を脱ぎ散らかし、ひどくだらしない寝巻き姿になった彼がごろんと布団に横になって、薄目を開けながら白昼夢に没頭している。すぐ側には空になった徳利が二、三本転がっており、ぼくは直ぐに何があったのかを察して舌打ちをした。


「お前、ぼくの命令を聞いていたのか?お前は閨番だろう、つまり、隣の部屋で何があったのかをしっかり頭に記憶しなきゃならないんだぞ」


「はぁい、記憶しております。永暁さまは、藍珠さんと、睦合って、わたしが一人だけ何の良い思いもできずにいて─」


「馬鹿!」


 バシン、と小気味良い音が部屋に鳴り響いた。ぼくが彼の頬を引っ叩いたのだ。彼はどさりと布団に倒れ、もぞもぞと正体なく動き回る。


「お前、本当にぼくの話を何一つ聞いていなかったんだな」


 ぼくは怒っていた。ひどく不機嫌になっていた。理由は正直なところよくわからない。心の奥底で何かが沸騰し、久方ぶりに真実からの怒りが口を吐いて出た。


「大体、お前の身分は何だ。言ってみろ、ええ?包衣の待遇とはいえ、お前はぼくの奴僕じゃないか。主人の命令とあらば、何があっても従わなくてはいけない身分じゃないか。それが何だ、くだらない嫉妬心で命令を破りやがって。お前なんかもう知らん、明日には昔の様な物乞い当然の格好で屋敷を追い出してやるからな」


「……」


 彼は何も答えない。ぶすくれた赤ら顔であらぬ方向を見つめていたかと思うと、


「無礼を平にお詫びいたします」


 と今更の様に叩頭する。ふん、もう遅い、少なくとも今日の間は許してなどやるものか。ぼくはそれを無視して、もう休むから、お前はもう話しかけるなと言い捨てる。蝋燭を吹き消し、普段の服を着たまま布団に潜って、強引に目を瞑った。


 しばらくの間、押し殺した男の啜り泣きが聞こえた様な気がしたが、聞こえないふりをすることにした。



 どのくらい時間が経っただろう。うっすらと窓の外が明るいあたり、夜明けの少し前になるだろうか。少しむずむずした感触を覚えて、ぼくは目を開けた。厠へ行きたい。半分寝ぼけているが、こうした本能的な行為では明瞭に体を制御できる。


 隣の布団を見ると、うっすらと目元から頬にかけて涙の痕を滲ませて、彼が寝息を立てていた。彼が泣くのは随分と久しぶりのことだ。昔、そう、今からもう五年以上も前─巻狩りの時に無茶をして落馬し、骨を折る怪我をして以来だ。


「(あの時、お前は泣きじゃくりながら、ずっと熱に浮かされるぼくの手を握ってくれていたな)」


 どっちも何も食べるどころではなかったから、落ち着いた時にはとにかくお腹が空いて仕方がなかった。夢中でごはんを掻き込んで、今度は二人揃って腹痛で倒れたのも良い思い出だ。


「……言い過ぎて悪かった。お前にとって、ぼくがどんな主人かはわからないが、それでもお前はぼくにとって……きっと、良い奴僕だよ」


 独りでそう呟き、ぼくは彼の頬に唇を寄せてふと我に返った。何をしているんだぼくは、『今の』ぼくと彼とは男同士だぞ。恐らく顔は真っ赤に茹で上がっていただろう、ぼくは慌てて立ち上がると、厠へ行くために戸を開けて、まだ真っ暗な廊下に出た。


「(暗いな。確か厠は一階にしかなかった筈だが……)」


 灯明を一つ残しておくのだった、とぼくは後悔した。眠る時、怒りに任せて全て吹き消してしまったのが仇となってしまい、ぼくはまともな明かりのない中、ごく僅かに効く夜目を頼りに階段を降りざるを得なかった。


「(ここから帳場を抜けて、ええと……)」


 恐る恐る降り出した階段の三段目をぼくの足が踏み、ぎい、と大きな音が響く。そして、ぼくがさらにもう一段降りようと体を下に沈めた時、ぼくは見た。帳場の奥、真っ暗なはずのその場所にぼう、と影がひらめくのを。


 それは、白い何者かであった。白い何者かが、帳場の奥から浮かぶかの様に─そうだ、それは服の袖だったのだ。白い帷子の袖をはためかせる様にして登ってくるのを、ぼくは息を殺して見ていた。真っ黒な髪をざんばらに乱れさせて、その何かが出てくるのをじっと見つめていた。見つめていたかった。この機に正体をすっかり掴んでやる、との気概がぼくの中に渦巻いていたのに、土壇場で体の方がぼくの心を裏切ったのだ。


「きっ」


 思わず漏れかけた悲鳴を慌てて手で押さえ込むが、それは『何か』の注意をこちらへ引きつけるには十分だった。振り乱した髪の間から爛々と光る目がこちらに向き、きゅっと細められる。


 必死だった。ぼくは大きな音を立てて他の部屋の客が起きるのも構わず、階段を駆け上がって自分の部屋の扉を乱暴に開ける。


「永暁さま!」


 すると、今度は逆に部屋を飛び出そうとしていた『名無し』の腕の中に体を躍らせる形になり、ぼくらはもつれ合うまま布団の中に倒れ込んだ。


「永暁さま、大丈夫ですか?」


「ゆ、幽霊がっ。今、帳場の奥にっ……」


「大丈夫です、落ち着いてください。わたしが─いえ、『俺』がここにいます」


「うん……」


 ぎゅう、と彼がぼくのことを抱きしめた。これも随分久々のこと。昔、ぼくが寂しさや怒り、やるせなさ、子供を苛む無数の苦しみに溺れていた時。誰にも何も言えず泣き伏すだけだったぼくを、彼は不器用に抱きしめて、慰めてくれていた。永暁、永暁。俺はここだ、少なくとも今、俺はお前の味方でいるよ。だからもう泣くな。


 幼い時は毎日の様に、彼の胸で泣いた。その度に彼はぼくと同じ寝台に横になって、ぼくが怖くない様に、たくさんの話を聞かせてくれた。でも、そんなあどけない営みは、お互いが歳を重ねるにつれて減り、今ではすっかりなくなってしまっていた。


「(もしかしたら、彼はもう全部知っているのかな。ぼくが隠していること、ぼくが抱えていること。それを何もかも)」


 だから、彼は自然と距離を置いてくれたのかもしれない。ぼくがそれに戸惑う前に、或いは、どうしようもないことでそれを知ってしまう前に。そんな都合のいい考えが頭の中を駆け巡るが、ぼくは直ぐにそれを打ち消した。


「……ありがとう。でも、もう大丈夫だ」


「何があったんです?」


「幽霊を見た。帳場の奥だ。恐らく女の幽霊だ、髪の毛を振り乱して……」


「他に何か特徴はありますか?風体とか、顔立ち、目の色とか……」


 ぼくは彼に問われるまま、幽霊の特徴を並べていく。すると、自然と考えが整理され、恐怖で過熱していた脳髄が冷えていった。そして、思考の中に描かれる幽霊の姿が明瞭になるにつれて、その正体が─枯れ尾花の影が浮かび上がってくる。


「でも、もし、もし幽霊が─だとしたら、一体何の為に?」


「調べてみましょう。きっと真実は、俺たちのすぐ近くに転がっている筈ですから」


「ああ、やろう」

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