第八話 霓裳羽衣の曲 丙

 月が中天に昇り、夜も更け出した頃。食事と酒もしっかりと堪能し、ぼくらは満足した様子で食後の茶を楽しんでいた。お気に入りの煙草を詰めた煙管を口から離し、ぷかりと煙を吐き出すと、藍珠がそれを掃除しながらぼくに言った。


「殿下、もう引けの時間でございますが、いかが致しますか?わたくしの部屋でお泊まりになられますか?」


「……そうすることにしよう。『名無し』、お前は隣の部屋で控えていろ。閨番を申しつける」


「……!」


 びくり、と彼の体が震えた。どうした、返事をしろ、と言っても言葉は出てこない。


「(もしかして、動揺しているのか?ぼくが女を抱くと思って?)」


 彼は何も知らない筈だ。そうであって欲しい。ぼくはあくまで毅然として、主人の声音で命令を告げる。


「いいな、お前は今夜の間隣の部屋に控えているんだ。仕事をしっかりと果たせ」


「……通訳がいなくても、大丈夫なのですか?」


「ああ、心配はいらないよ」


 にこりと笑ってやると、彼はようやく大きな大きなため息をついて、いつも通りの憎まれ口を叩いた。


「ご自身だけお楽しみとは、酷なことをなさいますね、永暁さまは」


「お前も楽しみたかったら金を払うことだな。さあ、藍珠、部屋へ連れていってくれ」


「……かしこまりました」


 小さな部屋だった。部屋の隅に二人分人が眠れるほどの寝台を据え付け、正面には装身具・小物を仕舞い込む引き出しがひとつ。敷物の上には炭を熾した火鉢が湯を沸かすための薬缶と共に置いてあった。藍珠は髪飾りを外して引き出しにしまうと、青い色調で統一された衣に手をかけ、帯を解こうとする。ぼくは手を伸ばしてそれを止めた。


「脱がなくていい。それよりも、少し話をしよう」


「……」


 彼女はそのまま立っている。側から見れば、それは当たり前の光景だったろう。ぼくが語ったことを理解できずに、彼女は立ち尽くしている。何故ならそれは─


「もういい、ここにはわたしとお前しかいない。もう満洲語が理解できない『フリ』をする必要は無いぞ」


「……ご存知で、いらっしゃったのですか?」


「観察していれば分かる。お前、わたしが『霓裳羽衣』の歌を命じた時、彼が通訳する前に反応していただろう」


「よく見ていらっしゃいますね」


 彼女は苦笑いして、敷物の上に膝をついた。ぼくもその正面に胡座をかき、言葉を続ける。


「満洲語をどこで覚えた?士大夫の娘ならば妓女にまで零落することはあるまい。暮らしが立ち行かなくなった旗人の娘か?」


「……左様でございます」


「一般旗人か?それとも包衣ボーイか?」


「いいえ。わたしの家は『旗下家奴』(注1)でした」


 旗下家奴。なるほど、そういうことかと納得して、ぼくはため息をついた。八旗の中でも最底辺、賎民同然の待遇で旗人の家に仕えている人々のことである。彼女は恐らく─


「母は早くに亡くなり、父も五年前に死にました。わたしと、まだ幼かったわたしの妹は……」


「暮らし向きが苦しくなった主人によって売られ、流れ流れて妓楼に行き着いた、そんなところか?」


「ええ、まあ、その様なところでございます」


「しかし、珍しい主人に仕えていたものだな。今時父祖の言葉を話せる旗人など、殆ど見かけなくなったというのに」


「読み書きだけは役に立つだろうと、父から散々仕込まれました」


「なるほどね」


 道理で、ぼくが満洲の音楽を頼んだ時にもすぐ応えられたわけだ。


「まあいい。今のところお前の過去に特段興味は無い。言葉が話せるというのなら、通訳を介する必要もなくて結構なことだ。周りから聞き耳を立てられる心配もあるまい。それでは、さっそく詳しく話を聞かせてもらおうか─お前が、幽霊とやらに取り憑かれてから、この妓楼で何が起こったのかを」


「はい、ありがとうございます」


 藍珠は熱い湯の入った薬缶を取り上げて、茶葉の入った急須に注いだ。味がしっかりと濃く出るまでの間、話をしようという算段なのだろう。ぼくは閉じられた部屋の扉に目を向けながら、彼女の話を聞くことにした。


「まず、ことの発端は今から一ヶ月前のことです。わたしは丁度、戸部員外郎(注2)の林如海様の宴席に呼ばれ、舞を披露しておりました」


「戸部員外郎か」


 恐らく捐納で官職を買ったくちだな。ぼくは勝手にそう推測した。最近は叛乱や天災が続いたせいで、たびたび民間から献金を募るということが行われている。それで多額の金銭を納めて叙任されたのだろう。


「その時のことでした。急にわたしの耳に、こんな声が聞こえてきたのです。『お父さん、お姉さん』、と」


「ほうほう」


「声はますます強くなって参りました。しかし、他の方には聞こえていないようで、わたしは恐ろしく感じられて、思わず座敷を飛び出してしまったのです」


「なるほど。それが噂される間に誇張されて、悪霊憑きの妓女などと言った奇妙な噂が立ったのか。他には何か?」


「……幽霊を見た、叫び声を聞いた、という者が数多おります」


「幽霊と叫び声、どちらも詳しく聞かせてもらいたいな」


 彼らによれば、決まって引けの後の暗い時間帯に、玄関のある建物の一階で女の幽霊を見るという。白い経帷子の様な着物を纏い、髪をばらばらに振り乱した女が暗がりの中に立っていて、憎悪に満ちた目で見るものを睨みつける。その後ろには常に悲しげな少女の叫びがこだまし、耳から心をかき乱してくる。目撃者が恐ろしさのあまり立ちすくむと、女は暗がりに溶ける様に、いずれともなく去っていくのだ。


 或いは、叫び声にも特徴があるという。その叫び声は若い少女の声であり、決まって客が帰ろうとする時、地の底から響くような悲痛な調子で聴かれるとか。言葉はいつも同じ、「お母さん、辛いよう、辛いよう……」。


「この様なことが幾度となくあったせいか、今やこの妓楼にはすっかり閑古鳥が鳴いております。もう長くはないだろう、と噂する者も」


「それはそれは。お前達も食うに困って難儀なことだな」


「いいえ……今のところわたしたちは楼主さんのお陰で満足に食べることができております。ただ、禿達のことが心配で」


 彼女は目を逸らし、静かにそう言った。あからさまに何かを隠している風情だが、深追いは避けた方が賢明だろう。ぼくは頷いて、ありがとう、今夜はもう休むことにすると言って立ち上がった。


「あの、お休みなら寝台に」


「いや、今日は妓女を抱きに来たわけではない。彼を待たせている隣の部屋に、もう一組布団を用意してもらえまいか。そこで休むことにするから」


「彼─あの、『名無し』、という方ですか?」


「わたしの包衣だ。元はお前と同じ家奴の扱いだったが、今は待遇を改めて譜代同様にしてやっている。─尤も、当人は一向にわたしに名前を教えてくれないから、『名無し《ゲブ・アクー》』のままで公文書も発給しているが」


 くすくすと笑うぼくのことをみて、藍珠は訝しげな表情を浮かべた。確かに側から見れば、ぼくと彼との関係は奇妙極まりない。なんだかんだもう十年近く連れ添っているのに、ぼくは彼の呼ぶべき名前を知らないのだ。


「でも、ぼくはそれ以上のことを知っているから構わんのさ。彼の好きな食べ物、嫌いな食べ物、いつも薫いている香もよく知っている。名前なんて瑣末なことだと、今なら少しくらいは思ってしまうんだ。それじゃ、おやすみ、藍珠」


 少しきざっぽかったかな。扉をパタンと閉めて、ぼくは首を傾げた。そう振舞おうとしなくても、たまにぼくはこういうことをやらかしてしまう、と彼はぼやいていた。気をつけようとは思っているのだが。


・注釈

1…当時八旗には大まかに三つの階層があり、戦争や狩猟を行う『外八旗人』(所謂一般旗人)と、その家政や農業を担当する『包衣』、そして通常の旗人としての戸籍を持たず、主家に所有される『旗下家奴』がいた。


2…員外郎は六部の官職の一つ。従五品で、郎中の副官。時に売官の対象ともなった。

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