第七話 霓裳羽衣の曲 乙


 夜。駕籠の中から覗く京師の繁華街は、ぼくにとって新鮮な驚きに満たされていた。夜空の下で煌々と輝く赤色、桃色、種々の提灯。屋台から漂ってくる肉とタレの焼ける良い匂い、切見世の向こう側からは妖艶な女達が道ゆく男達を中へと誘っている。


 裏手から聞こえる華やかな音楽と人々の笑い声は、満洲人われわれも愛してやまない芝居小屋だろうか。そういえば、久しく芝居も観に行けていなかったな。


「楽しそうだな、この街は」


「あまり頻繁に出入りすることはお勧め出来ませんよ、永暁さま。この辺りは治安も悪く、あなたが一人でふらふらと出掛けたら、直ぐに賊に誘拐されてしまいますから」


「そうならない様にお前が目を光らせてくれたらいい。主人を守るのではなく、給金の支払い元を守ると思ってな」


「……そこまで不義理な男と思われるとは、さすがのわたしも心外です」


 初めて聞いた彼の拗ねた様な声音に、ぼくは思わず驚いて外に顔を出した。その時には彼はいつもの無愛想な顔に戻っていて、馬上で前だけを見据えている。おい、今の顔をもう一度してみろ、と心の中で呟いてみたが、勿論聞こえるはずもない。


「あ、そろそろ白門楼ですよ。早くも主人達が迎えに出て来ているみたいですね」


「そうか。なら、先に行って話を通しておいてくれ。仰々しい出迎えをされると、どうもきまりが悪いからな」


「畏まりました」


 彼が前へと馬を走らせている間、ぼくは考え込んだ。果たして彼はどちらなのだろう、『歳の割に大人びた子供』なのか、それとも『ひどく子供じみた大人』なのかと。



 妓楼『白門楼』は京師を代表する花街、陝西巷の一角にある。陝西巷は所謂『八大胡同』(注1)の一つであり、同じ様に多くの廓を擁する七つの街に取り囲まれる様な場所にある。その為路地全体に煙管から流れる甘やかな匂いが立ち込めており、そこに混じって妓女達の服に薫きしめられた品の良い香が鼻に届いてくる。

 

 しかし、ぼくがその場所の前で駕籠を降りた時、他の場所は人の賑わいで満たされているというのに、そこだけにぽっかりと穴が空いた様な、そんな不吉な予感がしてならなかった。


「ようこそいらっしゃいませ、瀏親王殿下」


「楼主殿か。話は全て聞いている。今夜のもてなしには期待しているぞ」


「ええ、ええ、勿論でございます」


 楼主─妓楼の経営者の名前など一々覚えようとは思わないから、仮に董大人としておこう。彼は馬鹿に広い額にいっぱいの汗を浮かべ、仏像の様に細い目をさらに細めてぼくに頭を下げた。なるほど、これが世間の人々の当然の態度なのか。奴僕の無礼極まる態度にすっかり慣れ切ってしまったぼくにとっては、こちらの方が逆に違和感があってならなかった。


「主人、そう畏まらなくても良い。こちらは銀を払う、そちらはそれに相応しいもてなしを提供する。それで良いではないか、なあ?」


「はは、はっ。勿論それは、その通りでございます、はい」


「ひとまずこれは心遣いだ。禿の着物代にでもするとよかろう」


 ぼくは白銀十両を取り出し、気前よく主人と遣り手婆に手渡してやった。こういった所に来るのは初めてだが、だからと言って野暮ったい振る舞いをして失望されたくはないし、緊張を見抜かれて手玉に取られるのも面白くない。


「ありがたく頂戴いたします。さあお前達、殿下をお部屋まで案内して差し上げなさい」


「わかりました!」


 まだ小さい子供達に手を引かれて、ぼくと『名無し』は階段を登っていった。建物自体は大変に狭く小さい筈だが、上手い設計の仕方をしているのだろう、余り苦しさは感じられない。


「今姐さん方をお呼び致します」


「ああ、頼むぞ」


 ぼくらが通された部屋は親王府の客間によく似ていた。妓女が楽器を演奏したり、舞を披露したりする為の空間が正面に設定され、それを邪魔しない様に部屋の内装自体は地味なものに抑えられている。寝台がない辺り、宿泊を目的とした部屋ではないのだろう。


「そういえば、ひとつ聞きたいことがあるのだが」


「なんでしょう」


「ここに来る前に妓楼について多少勉強したが、一応商売の『格』みたいなものがあるのだったな」


「はい。この京師の妓楼では大まかに四つの格があると聞いています」


 曰く、上から『清吟小班』、『茶室』、『下処』、『窯子』。


 最上の『清吟』は政治家、富豪などに好んで利用され、所属している妓女の風貌や教養も飛び抜けて優れている。書画・歌舞をよくし、古今の詩文に通じた彼女らは恐らく取っている客よりもずっと頭が良いのだろう。


 一夜呼ぶにも数百両、下手をすれば千両ちかい銀が吹き飛ぶだろうし、それだけ積んでも彼女らと房事を楽しむことができるわけではない。気に入らない客と見られたが最後すげなくあしらわれるだろうし、その場合は男の方にこそ責任があるのだ。


「(よくもまあそんなものに大枚を叩ける銀があるものだ。やはり財というものは、ある所にはあるものなのだな)」


 もしも女と『そういうこと』を楽しみたいのであれば、もう少し下の格を利用すると良い。金持ちの子供らが放蕩にふける『茶室』もよし、後腐れ無い遊びだけの『下処』もよし。尤も『窯子』だけはあまりお勧めしない。あそこは下級労働者が僅かな金を握りしめて利用するところだし、それに比例して迎える女も見られたものではない。


「ちなみに、お前の目から見て、この店の格はどうだ?」


「別にわたしも妓楼遊びに慣れているわけではないのですけど。友人付き合いで顔を出したことはあっても、泊まったことなんて有りませんし」


「まあまあ、それでもぼくより知らないということはないだろう。何しろ、ぼくはこの歳になるまで妓楼自体に来た事がないのだから」


「……見たところ、上の下から中の上、といったところでしょうか。上等な茶室か下等な清吟か、といった風に見えます」


「その根拠は?」


「まず、隣の妓楼からひっきりなしに人の笑い声と音楽が聞こえてきます。これは、隣が多人数で派手に騒ぐ客を受け入れる格の店ということ。ただ、漏れ聞こえる会話や音楽からして、そこまで低級な店というわけでもない様です」


「ふむふむ」


「それから、永暁さまが渡された心遣いに対する反応。十両銀を手渡されて驚きもしないということは、それを目にする機会が相応にあるということです。となれば、この店でかかる代はそれよりもずっと跳ね上がると考えられます」


「いい着眼点だ」


「それから、わたし達の下に敷かれている敷物。毛氈を敷けるあたり、それなりの資力があると見ていいかと思います。ですから、それらを勘案して、結論を出しました」


「お前はなかなかしっかりと周りを見ているな。気に入ったぞ、後で一杯奢ってやる」


「え、わたしも払う予定だったんですか?遊び代全部この楼持ちではなく?」


「冗句だ。既に楼主殿と話はついている、今夜の遊び代は全て無料ということになった」


 げんなりした顔の『名無し』。それなら初めに心遣いとして大金をくれてやることもなかったのに、とでも言いたげな顔だ。しかし世の中には、多少費用を支払った方が惜しむよりもはるかに円滑に進むことがあるのだと理解して欲しい。


「まあ、あれだ。ぼくも半分人助けでこの依頼を受けているわけだから、かねが出ていってしまうのは仕方がない。それよりも、今夜はぱっと遊ぶことだけを考えていた方がまだしも良いだろう。な?」


「わたしとしては、永暁さまが悪い女に引っ掛かることの無いよう祈らずにはいられませんね……」


「お客様、失礼致します」


 控えめな声と共に扉が開くと、しゃら、という飾りの音をさせながら、艶やかに着飾った妓女達が部屋に入ってきた。彼女らは敷物の上に座ると、椅子に座るぼくらに向けて丁寧にお辞儀をする。自信に満ち溢れ、洗練された麗しい所作だ。客足が遠のいて懐も寂しいであろうに、それを一切感じさせない振る舞いに、思わずぼくは感心のため息を漏らした。


「初めまして、殿下。藍珠ランジュと申します。本日の一席、御相伴を相勤めさせていただきます。至らぬところ多々あるかと存じますが、何卒ご海容を以て、お許しくださいませ」


「こちらこそ宜しく頼む」


「「何卒よろしくお願いします」」


 後ろに従う妓女達─名乗らないところを見るに、まだ見習いなのだろうか─も一斉に頭を下げる。どうだ、みんなぼくに傅いているぞ、という視線を向けると、彼は嫌な顔をして露骨に顔を背けた。ぼくはそのまま先頭の藍珠を側に呼び、


「ところで、藍珠どのは詩歌の道に堪能と、風の噂に聞いた。どうだろう、ひとつ歌ってみてはくれまいか」


「承知しました、では」


 一人の妓女が二胡を手に取り、ぽろん、と音を奏でる。それに合わせて藍珠が口を開き、水晶越しの光を見る様な透き通った声で、一編の詩を歌った。


春花秋月何時了      


往事知多少        


小樓昨夜又東風    


故国不堪回首 月明中


雕欄玉砌依然在      


只是朱顔改        


問君都有幾多愁     


恰似一江春水 向東流


 春のはなやぎ、秋の輝く月は幾度となく巡り、それをみるにつけて、わたしは昔の麗しい思い出を心にあらわす。ああ、またもこの楼閣に東風が吹いた。この月明かりの中で、どうして失われた故国を眺めることができよう。彫刻のあしらわれた欄干、宝玉の階の宮殿も変わらずここにあるというのに、わたしの若かった顔だけが老い果ててしまったよ。君には分かるか、わたしの心がどれほどの憂愁に満たされているか。あたかもそれは、長江一杯の春水が、東に向けて絶え間なく流れるかの様なのだ……。


 聞き覚えのあるうただった。昔書物に見つけて、ひどく幼い心に響いた詞。韻律も発音もめちゃくちゃやな、下手くそな漢語でなんとか歌える様に練習をしたけれど、顔色を変えた爺やが飛んできて、「左様な不吉な詞を歌ってはなりませぬ」と言っていたっけ……。


「実に見事だ。清らかな水の様に済んでいるかと思えば、海を見通す様に深く、また波立った良い声であることよ」


「お褒めに与り光栄です」


「しかし、あれは南唐の後主李煜の『虞美人』であろう(注2)。わたしは好きだが、亡国の君主、それもこの詞を以って賜死となった者の詞を歌うとは、めでたい席には些か不吉ではあるまいか?」


「……まことに、失礼を致しました」


「謝ることはない。そうだな、では次は舞を見せてもらおう。李煜に因んで、『霓裳羽衣』(注3)でもどうだ?」


 曲目を聞いて藍珠の眉がぴくりと跳ねる。ぼくの教養を評価してくれたのか、それともまた似た様な命を受けて辟易しているのか。それとも、亡国の詩を平然と歌ったにも関わらず、怒るどころか続けよと命じられることに驚いているのか。どちらでも構わない、兎に角今は彼女の舞を見てみたかった。


「……かしこまりました。では、お目汚しではございますが」


 その後の舞について、詳らかに語ろうとは思わない。何しろ、ぼくの言葉で語り尽くせる様な美しさではなかったし、あんまり話過ぎてしまうと妓楼の営業妨害になってしまうから。ただ最後には、彼女らが弾いてくれた満洲人の曲に合わせて、ぼくも『名無し』も混ざって、一緒に舞踏を楽しんだということだけ付け加えておく。


・注釈

1…八大胡同は北京の有名な花街の一つ。乾隆年間以降、かつて北京の内城にあった花街が移転したことで成立し、晩清から国共内戦の頃まで栄えた。実際には八つの胡同(通り)だけでなく、その周辺の通りまで含めて総称される。

2…後主李煜は、五代十国時代江南に栄えた南唐の最後の君主。宋の太祖によって国を攻め滅ぼされ、第二代太宗の代に亡くなった。史上最高の詞の作者の一人とされ、父中主李璟と共に『南唐二主』と並び称された。『虞美人』はその彼の最後の作品であり、これが太宗の怒りを買って毒殺されたと言われている。

3…霓裳羽衣の曲は唐の玄宗が楊貴妃の為に作ったと言われる曲で、白居易の『長恨歌』にも言及が見られる。その後李煜によって復元された。

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