霓裳羽衣の曲

第六話 霓裳羽衣の曲 甲

 「『名無し』、こんな噂を知っているか?」


 またか、と言う表情で彼がぼくの顔を見返す。この餓鬼ときたら、また妙な話を拾ってきやがったな、とでも言いたげな顔だ。書庫の一室、ぼくらはそこに設えた歓談部屋に溜まって、本を読みながらのんびりした時間を過ごしていた。振り返った彼の手には『満文訳三国志演義』の分厚い冊子が抱えられているし、ぼくの手元にはその続きに三冊ほどが積み上げられている。


「今度はなんですか、永暁さま。わたしはまた命懸けの面倒な仕事に付き合わされるのはごめんですよ」


「今度は面倒な仕事ではない。どちらかと言えば役得がつく仕事だ」


「役得?」


「そうだ。京師の妓楼の主人からの相談でな、ことがこと故、あまり表沙汰にはできないらしいのだ……と言っても、花街のことなど、表に出来ないことの方が遥かに多かろうが」


 くっくっく、と奥にこもった笑い声を立ててやると、彼が胡散臭そうな視線を向けて来る。


「その笑い方ヘッタクソなので、永暁さまはなさらないほうがいいと思いますよ。似合いませんから」


「そうか、意外と似合うと思ったのだが。……まあいい、読みかけの本を片付けたと言うことは、ぼくの話に耳を傾ける気があるということだな?随分と乗り気じゃないか」


「喋らないとあなたは止まりませんからね。仕方なく聞いて差し上げますよ」


 同じ長椅子に少し距離を空けて座る彼の横顔を、ぼくはしばらくの間眺めていた。少し日に焼けた、引き締まった顔つき。鼻がほんの少し高いことを除けば、まあ美男子の部類に入るのだろうと思う。一文字に引き結ばれた唇や、少し上に跳ね上がった眉は、芯の強さを自然と表しているようにも思えた。


「なんですか、わたしの顔に何かついていますか?そんなにじっと見つめて」


「いいや、別に。さて、じゃあ早速本題といこうじゃないか」


 ぼくは茶を一口含んで喉を湿らせると、少しずつ事件の概要を語り始めた……。


 「事件が起きたのは、京師の花街きっての名門妓楼『白門楼』。妓楼の名にするには些か不吉な名前の様に見えるが、それはまあ良いとしよう」


 白門楼。三国志演義の中で、豪傑呂布が最後に立て籠って敗北した下邳城の櫓の名前である。その名を冠した妓楼は今や京師で一、二を争う人気の妓楼であり、一晩の遊び代で下級官僚の年収に匹敵する銀が吹き飛ぶこともあると言う。その顧客には上級旗人、名のある士大夫、大っぴらには言えない話であるが、皇族に連なるやんごとなきお方もいらっしゃるとか。値千金の宵を過ごせる場所という触れ込みに偽りはない。しかし、


「少し前からこの妓楼に幽霊の噂が立っているのだ。花街ならばよく聞く話、そう思うだろう?」


「まあ確かに。恨みを持って死んだ妓女の幽霊だとか、想いをかけて心中をした連れ合いの人魂だとか、似た様な話はいくらでもあるけれど」


「そうだ。今回の話もそう言ったよくある与太話─だと、そう思われていた」


「と言うと?まさか、違うっての?」


 ぼくは少し大仰に頷いてみせる。『名無し』が興味に満ちた視線をぼくに向けてくるのが心地よかったからだ。彼の興味を引く様に、声を微かに低めて話を続けた。


「最初にこの噂が囁かれ始めたのは、今から一月ほど前─戸部に務めるとある高官の宴席でのことだった。その場に居て二胡を弾いていた妓女の一人が突然立ち上がって、こう叫び出したのだ」


 幽霊がいる、幽霊がわたしに取り憑こうとしている、と。月も出ていない真夜中のこと、華やかな宴の最中に唐突にそんなことが起きれば、もはや酒を飲むどころの話ではないだろう。


「女は直ぐに隣室へ退出させられ、手当を受けた。無論翌日に寺に連れて行かれ、妖魔祓いの祈祷を受けもした。ところが、話はここでは終わらない」


「当然だね」


「女が祈祷を受けた翌日、今度は吏部侍郎りぶじろう(注1)劉成安殿の宴席でことが起きた。劉侍郎は一階に設けられた最も大きな部屋に陣取り、大勢の妓女を呼んで盛大に息子の昇進祝いを催していたらしい」


「なるほど?」


「宴もたけなわ、そろそろ散会にして欲しいものは好みの妓女を小脇に抱いて一夜の宿を二階に求めようとしていた時だった。突然、床下からか細い少女の声が響いた。『お母さん、お母さん、辛い、辛いよう……』。皆が座敷から飛び出し、」


 引けで灯りの落とされた店の中、ふと暗がりに目を向けてみると、すうっと奥に現れた不気味な白い影。長い髪を振り乱し、粗末な白い衣を着た女が、憎悪に満ちた目でこちらをじっと睨んでいて……。


「そりゃあもう、千年の恋も万年の発情も醒めてしまうというもので、盛りのついた猫同然の心持ちだった彼らは皆顔を真っ青にして妓楼から帰ってしまったそうだ。楼主や遣り手婆からすれば、大きな損をしたことになる」


「さぞ機嫌を悪くしたことでしょうねえ」


「忘八の商売なんて言うが、人は優しさは簡単に忘れると言うのに、怒りを忘れることはどうしてもできぬらしい。全く難儀なものだと思わんか?」


「全くもってそう思いますよ」


 この様なことが度々あったせいで、今やすっかり白門楼から客足は遠のいてしまっている。禿を含めれば数百人の妓女を抱えているこの廓にとっては、毎日彼らに食わせる飯代だけでも膨大なものだ。


 しかのみならず、単なる売春婦ではない彼女らに必要な歌や踊り、詩文の教養を仕込む為にも高い費用と手間を要する。重ねて言うが、彼女らは単に体を売る淫売の類ではなく、自らの芸や教養によって客を楽しませることを生業としているのだ。身分上は賎民と見做されようともそこにはしっかりと誇りが根付いているし、それを無視して商売を行うことなどどんな楼主にも出来はしない。


「そんなわけで、ぼくの所にお鉢が回って来たわけだ。何とかしてうちの妓楼を救っては頂けませんか、もはや瀏親王殿下だけが頼りなのです、なんて調子のいいことを手紙につらつらと書いていたな」


「それ、まともに取り合う必要なんかないと思いますけどね、永暁さま」


「白門楼には父が世話になっていたそうだ。若い時分よく遊びに出掛けて、妓女達と共に笛の稽古をしていたそうでな。そう無碍に扱うわけにも行かんのさ」


 苦笑いして、ぼくは懐から一本の笛を取り出した。黒漆塗りの本体に金泥で川の模様を描き、控えめな色使いで散る牡丹の花びらを重ねているそれは、父である前親王弘朗がよく吹いていた形見の笛だ。彼は満洲人らしく音楽を好み、皇族の中でも指折りの腕前を誇っていたと聞いている。ちなみにぼくの才能は運動方面に著しく偏っているらしく、冰嬉スケートと騎射、舞踏では誰にも負けない自信があるものの、楽器方面の技量はからっきしだ。


 高い二胡の弦をこれまでに何本捻り切ったか数えるのも阿呆らしいし、横笛を吹いた時には、普通鳴る筈がない調子外れの高音を、この憎たらしい奴僕に笑われたことなど、今思い出してもはらわたが煮え繰り返る。


「まあそんな訳で、早速今夜。白門楼に部屋を用意してもらったから、一つ遊びに出てみようじゃないか。美しい妓女がいて気に入ったのなら、ぼくが縁を繋いでやってもいいぞ」


「ご勘弁を願います。それよりも、永暁さまこそよくおもてになるのではありませんか?端正なお顔立ちに、身分を問わない人当たりのいい立ち居振る舞い、捌けた性格で人を恨むこともなさらない。まさに理想的な貴公子ですよ」


「なんだか気色悪いぞ、『名無し』。ぼくをそんなに褒めるなんて、何か妙な下心があるんじゃないか?今ならまだ怒らぬから、ほら、申してみよ」


「……っ!」


 ぼくが戯れかかると、彼は顔を真っ赤にして長椅子から立ち上がり、そのまま黙って書庫から足音も荒く出ていってしまう。


「(少しやりすぎたかな)」


 そう言いつつも、ぼくの左胸も、さっきからひっきりなしに早鐘を打っていた。どく、どくと鼓動が明瞭に感じられ、微かに顔に血が昇っていることを自覚する。


「(今夜、果たして無事に過ごせるのだろうか)」


 正直、あまり自信は無い。


・注釈

1…侍郎は政治の実務を担う六部の次官職。吏部は官吏の任免、新規登用を司る役所。

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