第五話 春宵一刻値千金 終

 下女が静かに客間の戸を開けると、その背後には、白い綾絹の衣を身に纏った、瑞々しい黒髪の美女が立っていた。白粉を塗った顔には鮮やかな紅が刺され、頭を飾る簪は黄金に翡翠の飾りをあしらっている。これ程の品物は禁城の後宮でもお目に掛かったことは無い。


「親王殿下とはつゆ知らず、誠に失礼を致しましたわ。わたくしが、この家の主人でございます」


「面を上げられよ。貴女は我々の恩人なのだから」


 女主人の顔をじっくりと観察する。なるほど、なかなかの美人だ。鼻筋はすっきりと通っており、輪郭はふっくらとした卵形。目や眉の造作は絵師が墨で引いた様によく整っている。


 来ている服はといえば、豪華であるか少しけばけばしい感じがして、ぼくは思わず眉を顰めた。


「(尤も、向こうも同じ様にぼくを値踏みしているだろうな)」


 相手の黒々とした瞳の中に、ぼくの顔が映っているの見る。母親の面影をよく留めた、少し幼なげな顔付き。肌は内向的な生活の名残か白みを帯びていて、猫の様にぱっちりとした瞳は深い緋色を湛えている。隣の奴僕は『永暁さまは顔だけはとてもよろしいですね』などと軽口を叩くが、実際はどの様なものか。


 舌なめずりをした。女主人はぼくの顔を見て、ほんのごく一瞬だったが、本性を見せた。鮮やかな色の唇から微かに舌を覗かせ、奥に秘めた犬歯の煌めきをぼくに見せた。どうやらぼくは、この妖の本能に触れてしまった様だ。


「こちらは構わない、元からいた客があるのだろう。そちらへ行くと良い」


「いいえ、親王殿下がおわしますのに。その様なことはできませんわ。さあ、酒をお持ちして。わたしは舞をお見せ致しますわ」


 鼻が曲がりそうな程の芥子の香り。衣の上からでも分かる大ぶりな乳房が揺れて、客の欲望を煽る。確かに男からすれば、これ程の上玉を目にする機会はそう無いだろうから、罠だと分かっていても飛び込んでしまいたいものだ。


 しかし、ぼくらを誘い込もうとするほどに、その獣臭さはあからさまになり、強烈になっていく。ぼくは卓の向こう側に座っている『名無し』に視線を送り、隙を見て奴を捕らえるぞ、と言う意思を示した─のだけど。


「(おい、おいまさか!)」


 案の定、彼は術中に嵌っていた。普段はやたら厳しいはずの顔をだらしなく緩ませ、とろんとした目で美女の舞に見惚れ、下女達からの盃を受けている。


「(このままだと、彼が副都統殿の様になってしまう……それだけは避けねばならん。それに、)」


 普段はぼくを散々馬鹿にするのに、あの様な妖に心を奪われているのが気に入らない。全く不機嫌だ。ぼくは心を決めると、


「済まないが、舞はもう結構。それよりも貴女に酒を注いでもらいたいが、どうかな」


 通訳としては動いてくれるんだろうな。恍惚としている彼を軽く叩いて、言葉を伝えさせる。


「では、仰せの通りにいたします」


 女主人はさらりとぼくの側に寄って、陶器の壺から透き通った酒を盃に注ぐ。口を付けるつもりは全く無い。並々と注がれたのを確認すると、ぼくは口へ運ぶふりをして、わざとそれを取り落とした。


「しまった!」


「『あら、今すぐお拭きします。どうぞ外套をお脱ぎ下さいまし』」(この辺り、彼女が何を言っていたか正確には分からないので、推測である)


 手を伸ばして、着たままにしていた外套に触れた彼女の顔色がサッと変わる。どうやら気がついた様だ、この外套の裏地が何で出来ているのか。


「気がついたか妖め。この外套の裏地はな、お前の同族の毛皮で出来ているのだぞ」


 通じてはいないが、何を言ったかは伝わった筈だ。ぼくの外套は狐の毛皮を裏地に使っている。ふんわりと触りが良く暖かいので、京師の金持ちや貴族は皆好んでこれを着ているのだ。


「咽せ返るほど香や阿片を焚きしめても、その獣臭さは消えない様だな。わたしには分かるぞ、お前達の正体は狐だ。元から薄々分かっていたが、その反応を見て確信した」


 最初に寝巻きの香りを嗅いだ時に感じた微かな違和感。それは、阿片の甘い香りの中に混じったわずかな獣の匂いだった。ついさっき、駕籠かきの痕跡を追ってきた時に見つけた足跡は、二本の指が前に突き出ていた。そして、寝巻きと同じ獣臭さを放つ女が、外套を脱がせようとして顔色を変えた。


「巻狩りでお前達を何度も捕まえたからな、わたしはその匂いも習性もよく知っている。人を化かす生き物は三つあるというが、狐は輪をかけて狡猾だ─その代わり、化ける力は狸や貂に遥かに劣る。匂いや痕跡を熟知した人が見れば、すぐにでもその正体に気がつくだろうさ」


「『貴様ッ!』」


 正体を見破られた狐の化けの皮はすぐに剥がれる。女主人は犬によく似た長い顔から犬歯を露わにして、ぼくの喉笛を噛み切ろうと襲いかかって来る。しかし、それよりも早くぼくは卓の上に置いてあった煙管を手に取って脳天をぶん殴り、怯んだ隙に椅子から立ち上がった。


「さあ、起きろ馬鹿者!」


 がつん、とだらしなく伸びた彼の足を思い切り蹴飛ばすと、ぎゃん!と言う悲鳴と共に意識を取り戻す。


「ヨ、永暁さま!」


「馬鹿め、まんまと狐の術中に嵌りおって。帰ったらお仕置きだ!」


 今の騒ぎで屋敷中の狐がここへやって来るだろう。なんとかして部下を助け出したあと、ここから逃げ出さなくてはならない。


「逃すんじゃないよッ!」


 ぼくらは扉を蹴破って外に出ると、宴会が続いている隣の部屋に強引に踏み込んだ。音楽が鳴り止み、美女とそれに囲まれた髭面の偉丈夫が、何事かと驚いた顔でぼくらを見つめる。


「李儒徳!わたしの顔を見忘れたか!?」


 急いで、しかし意図を漏らさずに『名無し』が通訳してくれる。偉丈夫は目をまん丸にしてこちらを見ていたが、ややあって自分が部下として仕えている親王が目の前にいることを悟ると、


「り、瀏親王殿下!何故ここに─」


「話は後だ!お前は狐に化かされている、すぐに此処から逃げるぞ!」


 瞬間、ぼくらがいた豪奢な家屋敷はぐらぐらと揺れ出し、今にも崩れそうになる。あられもない格好でまだ混乱している副都統殿を強引に部屋から引き摺り出し、ぼくらは屋敷の外にこけつまろびつなんとか逃げ出した。


「(やはり、屋敷は幻に過ぎなかったのだな)」


 振り返ってみれば、そこには豪奢な邸宅などどこにもなく、草生え苔むす荒屋が、崩れる寸前の様相で辛うじて立っているだけだった。


「さあ、帰ろう。もう東の空が白んでいる。衙門での仕事に差し支えが出る前にな」


 ささやかな後日談。その日の昼、正白旗都統衙門に出仕したぼくの下に辞表を持ってきた李儒徳が語ったこと。


 曰く、最近一人で寝床に就くと同じような夢を見ることが続いていた。屋敷の門前に黄金の駕籠が着き、迎えに出て来た人に従って乗ると、山奥にある豪奢な屋敷に通される。そこでは女達が次々と歌や舞を披露し、最後には主人である妖艶な美女と歓を交わす─他愛もない夢だと思っていたものが、まさか現実のことで、しかも狐に化かされていたのだとは全く気が付かなかった。


 ぼくはこの旨と経緯とを簡単に書き記し、帝に上奏した。その答えの一部。


「……副都統の危難を救わんと自ら危地に赴く類い稀なる勇を朕は喜ばしく思う。李儒徳については辞職を認めるが、すぐに別の職を用意することが出来るだろう……それにしても、なんと嘆かわしいことであろう。今の旗人は、もはや狐の気配さえ分からぬほどに、堕落してしまったとは!」


 そして、すっかりあれに魅入られてしまい、何もできなかった『名無し』はといえば、しばらくの間はしおらしくして、ぼくに敬意を払っていたが、やがて元のくそ生意気な態度に戻った。もう少し過酷なお仕置きをしておくべきだったかと、少し後悔している。後もう一つ次いでに。今回の一件で帝から下賜された報奨金で、ぼくの屋敷はすっかり修繕された。もう彼が隙間風に震えることはないだろう。


 このお話はここまで。

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