03 皇子
教育する相手が王族なんて、聞いて――そうですね、今は言えないですものね。
青い瞳が見つめてくる。わたしではなく、後ろにいる
「見苦しい姿で失礼いたしました。着替えて参りますので、中でおくつろぎくださいませ」
旦那さまを隠すように立ち上がって促すと殿下は素直に塔の中に入ってきた。
一階は資料庫として本棚が並ぶが、読み物ができるように机と椅子も揃えている。
好きなものを手にとってください、と言い置いて、旦那さまとわたしは二階へとがった。扉を閉めればさすがに聞こえてはいないと思うが、囁くように訊ねてしまう。
「この姿でお会いしたことは?」
「人の姿で会われたことは?」
もう一度、旦那さまは首を振った。
ただの
思い詰めたような顔をする旦那さまに、どうしましょうね、と笑いかける。
張りつめていた空気が和らぎ、鼻から息を吐き出した旦那さまは膝を折った。
下に引かれているのは、落ち着いた色と細やかな模様が描かれた絨毯だ。塔に来たばかりの頃はごみの方がまだ可愛げがある逸品だったが、丁寧に丁寧に洗い上げて本来の美しさを取り戻した。旦那さまが気に入ってくださるので、家事に力が入るというものだ。
寝息をたてはじめた黒い背中に、かけ布を被せたわたしは詰めていた息をそっと吐き出した。服をととのえることにして、衝立ての影で何が最善か考える。
お話をいただいた時は、少し先の話で、なおかつ宮殿ですると思っていた。旦那さまが過ごされる
変身するところをもし見られたら言い訳もできない。
名前を呼ばれて衝立てから顔だけを出した。
幅の広い布を被るように巻き付けた旦那さまは人の姿をしている――夜明けの時間だ。
手早く髪をスカーフで巻き込んで、旦那さまの前に膝をついた。
下から伺う瞼は、閉じかけている。また、朝方近くまで星を眺めていたに違いない。仕方のない人――本当、星が好きなんだから。
夢の世界に行きかけている人の口へ、小腹がすいた用に置いていたドライフルーツを詰めこんだ。乾燥した唇が指先に触れる。
「殿下に挨拶だけでもされますか」
目が覚ました旦那さまは一度、わたしの手を見て、何回か瞬いた。理解が追い付いたようで手を捕まえられて下ろされ、ドライフルーツをを腹におさめてから口を開く。
「いや……会うなら、鹿の姿の方が都合がいい」
かすれた声で言った旦那さまはまだ寝ぼけているのか、手を離さない。星空のようなラピスラズリの瞳が、焦点の合わないまま見つめてくる。
「食事は別だな」
旦那さまから転げ落ちた言葉に首を傾げてしまった。
「
旦那さまは微妙な顔をして、首を振る。
「今日は冷える。あたたかいスープを出してやってくれ」
星読みの神官でもある旦那さまの天気予報はほぼ的中する。雨が降ると言ったら晴れていても雨が降るし、暑くなると言えば洗濯物がよく乾く。
旦那さまは何がよろしいでしょうか、と訊ねる前に手が離され、聞きそびれてしまった。
仕事場へと上がる旦那さまの背はひどくさみしそうで、申し訳ない気持ちになる。
「夕方は一緒にいただきますから、何が食べたいか教えてくださいね」
少しだけ振り返った旦那さまは小さく頷いて扉の向こうへ姿を消された。
気にやんでも時間は待ってくれない。自分を奮いたたせて階下に降りる。かけ足になるけれど、はしたくない程度に急ぐ。旦那さまにもスープを召し上がっていただきたいから、日が上りきる前に間に合わさなければ。
殿下は言われた通りに椅子に行儀よく座って書物を広げていた。少々、猫背ぎみな所が旦那さまと重なる。
「お待たせしまって、申し訳ありません。朝食はとられましたか」
わたしの声に顔を上げた殿下は首を振った。手も足も頼りないから、食が細いのかもしれない。
「スープをご用意することもできますが……毒味役が必要でしょうか」
重ねた問いに、殿下はもう一度、首を振る。
誰かと似ているな、と口元だけで笑いを耐えた。
「殿下もされてみますか? 全てのことに学びは溢れていますから」
あ、でも、とわざと声を出した。
不思議そうな猫のような顔をする殿下にいたずらっぽく笑いかける。
「夫人には秘密です」
みんな、秘密はお好きでしょう?
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