02 夫人

 夜も明けきらぬ内に、星鹿ユルドゥスゲイキの塔の扉を叩く者がいた。

 そろそろ朝食の準備を始める時間とはいえ、あまりにも早すぎる。無遠慮な来訪者に戸惑いつつ、ランプを手に下の階に降りて扉を開ける。


「貴方が新しい教育係ですか」


 朝一番だというのによく通る声だ。目元のしわを感じさせない気概に圧倒される。

 品定めするような目に上から下、下から上に少なくとも二回は見られた。寝巻きに上着を羽織っただけだけど、髪にスカーフは忘れていない。寝ぐせのついたまま出迎えれば、はしたないと頭ごなしに説教を頂戴しそう。

 胸の前で両手を組み、膝を折って瞼を伏せた。今できる最大限の礼節を示して、微笑みを唇にのせる。


「ごきげんよう、夫人。ご挨拶ありがとうございます。こちらからうかがうべきでしたが、昨日の晩に聞いたばかりで何も準備ができていないのです」

「そうですか。ありがたい職をいただくというのにそういう心構えなのですね」


 夫人の瞳はさらに険を帯び、細められた。深緑の大巾スカーフヒジャブは厳格な雰囲気をよく表している。

 謝るのも違う気がするので、あいまいに笑って流した。

 夫人の瞳は小生意気なと語っているが、他にはおくびにも出さずに顎を上げる。


「至らない場合は即刻、首をはねますので重々肝に命じて勤めなさい」


 恐ろしいことを、なんとまぁ大きな口で、とシルフィは呑気に構えたが、夫人の後ろに控えた小さな影に慌てて膝まづいた。


「失礼いたしました。殿下、お初にお目にかかります」


 八芳星は王家にだけ許された象徴。少年のターバンを飾るブローチがそれだった。

 膝をついて背丈が同じぐらいだから、第二皇子だろうか。髪色はわからないが、伏せられた瞳は青く、北の血を受け継いでいることがすぐにわかる。

 まだ市井しせいにいた頃、殿下の母君が亡くなられたことを聞いた。確か、二月前。まだまだ傷が癒えていないのかもしれない。

 死は終わりではないと言われるけれど、お母さまを亡くした喪失感を思い出す。さみしくてかなしくて、世界に絶望した、あの暗闇をこの方もきっと抱えていらっしゃる。


「母君が亡くなられたこと、わたしも身を切るような想いですわ」


 陰りのある姿につい口から出ていた。

 微動だにしない殿下の口は引き結ばれたまま、夫人が目くじらを立てる。


「親が死ぬことにいちいち悲しんでいては困ります。尊き皇帝パーディシャーの血を継ぐ者だというのに、なんと情けない」


 さすがのわたしも我慢ができなかった。口を開きかけて、袖口を誰かにひかれる。


「まぁ! 獣を屋内に入れるなんて不浄な」


 わたしが振り替えるよりも先に、夫人が声を上げた。

 星鹿ユルドゥスゲイキ姿の旦那さまの体がかたくなり、耐えるように目を細める。わたしの出過ぎた言動を止めようとしてくださっただけなのに、眠りの邪魔をした夫人にいいように言われるなんて。

 無意味に彼を傷つけてほしくないと思うのはわたしの我が儘なのか、正義感なのか。夫人の崇める皇帝パーディシャーの弟君ですよ、と言い返したいのを我慢して、差し障りのない言葉で返す。


「太古の血を受け継ぐ聖なる生き物です。王弟殿下の計らいで塔内で過ごしております」


 暗に王弟に背くのかと示せば、夫人は鼻白んだ。


「あの方は今もそうなのですね」


 意味深な言葉を落とした嵐の元凶は立ち去ってしまった。皇子を残したままで。






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