権威主義について

権力と権威は本当は違うがここでは同じだということにしておく。

私はローリングストーンズが権威だと思っているのである。というのは、子供の頃「コンボイ」という映画を観て「こんなかっこいい映画は他にない」と感激していたのである。映画の内容はこうである。


主人公は大型トレーラーのドライバーで、権力に歯向かう性格である。

一人の保安官が彼を目の敵にしており、執拗に追い回し、保安官の方がトラブルを起こす。それがエスカレートし、主人公と警官が乱闘になり、その事件がラジオで報道され、主人公は有名人になってしまう。主人公に同調した人間がわんさかやってきて、主人公がどこに行くにもついて廻るようになる。



しかし中年になってDVDを借りてこの映画をもう一度観た時、「あれっ」と思った。

なんだか気持ち悪い映画だなと。

まるで新興宗教を描いているかのようだ。

主人公が教祖に見えるし、主人公に同調した大勢が信者に見える。

するとローリングストーンズとファンの関係はどうかというと、

「コンボイ」と全く同じだと思った。

つまり、人間は反権威さえも権威に変えてしまうのである。

70年代は最初からおしまいまで世界的な反権力、反権威ブームだった。

日本も例外ではない。ただ、日本は敗戦国である。敗戦国では反権威も反権力も楽に出来るのである。

だって敗戦国の権力って説得力がないんだもんね。

敗戦国の国民にとって、本当の権威は戦勝国のトップだと思うのである。

また、私は権威とは父権の事だと思っているのである。そう考えればすべての辻褄が合うからだ。

反権威、反権力の大部分は実はエディプスコンプレックスではないだろうか。

エディプスコンプレックスとは息子が父親を憎み、自分が父親を殺して父親の地位を奪いたいという願望のことだが、それは母親を自分の妻にするためである。

西洋人にとっては、家庭の父親の権威の延長線上に世の中の権威や権力が存在するのではないか。だから、ローリングストーンズのような「理由なき反抗」の正体はエディプスコンプレックスなのではないだろうか。

ところが、「ものぐさ精神分析」の岸田秀が言うには、日本人にはエディプスコンプレックスが無いらしい。それは日本が父権が弱く母性が強い国だからであろう。

団塊の世代とかその下の世代は二言目には「自分は権力が嫌い」だの「権威が嫌い」だのと言うが、それは西洋人の猿真似で言っているだけなのではないか。私より上の世代の人間は実は権力が大好きなのではないだろうか。その証拠がテレビの時代劇である。「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「大岡越前」どの作品も権力者がヒーローとして描かれている。こんな番組を観る人間は権力が好きに決まっている。

1980年に第二次アニメブームが始まり、私の世代から熱心なアニメファンが登場した。と同時にテレビの時代劇を観なくなった。本当に権力が嫌いな人間は権力に無関心なのである。

評論家の岡田斗司夫がいい事を言っていた。

「愛」の反対は」「憎しみ」ではないと。「愛」の反対は「無関心」であると。

では「憎しみ」とはなにかというと、「歪んだ愛」だというのである。

あきらかに、団塊の世代やその下の世代は権力を愛している。彼らの「反権力」「反権威」とやらが本物だというのであれば、権力に対する愛が歪んでいるからこそ、反権威、反権力になるのである。

「権威主義」は権力に対する愛。「反権威」「反権力」は権威に対する歪んだ愛。

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