多神教が駄目なこれだけの理由
私の文章にはよく「世間」という単語が登場する。
「日本とはなにか」を説明する上で最も重要な概念である。
この際きっちりと定義しておきたい。
すべての人間は「国民」という概念を理解しているが「世間」という概念を持つ国は日本だけである。だが「世間」を理解するのは簡単である。
「国民」から「自分」を引けばいい。
すると純粋なパースペクティブの第二の消失点になる。「他者」の複数形だ。だから多神教の信仰の対象になりうる。
「国民」の方はそうはいかない。民主国家には「国民主権」という概念があり、社会で一番偉い人が国民だという事になっている。
だがその「国民」のなかに「自分」が含まれている。すると「自分が一番偉い」という認識になる。これが自分に対する信仰につながる。程度の問題ではあるが、自分を絶対化し、信仰する人間を「人格障害」と呼ぶ。ただし、一神教の場合はこのような問題は起こらない。
多神教の信仰は本質的にミーハーである。
まず最初は好意とか敬意にはじまり、それがやがてミーハーになり、ミーハーがだんだんエスカレートして最後には信仰になる。
ミーハーの対象も具象、信仰の対象も具象だから、ミーハーと信仰の区別がつかない。
しかし一神教の社会ではミーハーと信仰は全くの別物である。
ミーハーの対象は具象だが、信仰の対象は抽象だからミーハーと信仰の区別が出来ないなどありえない。
また、国家の指導者の問題もある。多神教の国のトップが「国民が自分の主観を絶対化している。」と認識した場合、そのトップが人格障害になりやすい。当然のなりゆきとして、自分が自分の主観を絶対化するようになる。
これも基本的に一神教の国では起こらない問題である。
どんな独裁者も本当のナンバーワンではない。国のトップの上位として「神」が居るからである。
さらに、多神教の人間は政治家を信仰してはならない。政治に失敗はつきものだからだ。信仰(絶対化)の対象である為政者が失敗すると、国民が人格障害になる。この問題については以前くわしく説明したので、興味がある方はそちらを読んでください。
このように考えると多神教は独裁にも民主主義にも向いていない。
ところが日本という国はこれらの問題をことごとくクリアーしている。
天皇は政治に参加しないから失敗しない。だからいつまでも信仰の対象でいられる。
日本人は「国民」ではなく、「世間」を信仰する。だから人格障害のリスクが小さい。
問題があるとすれば、「自律ができない」「メディアリテラシーがない」「だから民主主義がうまくいかない」ぐらいである。これについても以前くわしく説明したので興味がある方はそちらを読んでください。
近代化しないとこの二つの問題は解決できない。(前にも述べたが近代は一神教の宗教である)。だが日本は多神教の枠の中で最善を尽くした国といえるだろう。
ところで、このシリーズをフェイスブックに投稿しようとしたら、「異議申し立てをしました」という表示が出て、キャンセルされるのである。私は一度もフェイスブックを利用した事が無い。だからキャンセルされるような事は何もしていない。どうも自撮り写真を送るとキャンセルされてしまうみたいである。
それで読者の皆さんに逆にお尋ねしたいんだが、こんな時はどうすればいいでしょうか?
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