嫌いな単語

80年代に日本の知識人の間で「ポストモダン」という単語の使用が流行した。

だが、この単語の意味をちゃんと理解して使っていた人間は一人も居ないと断言できる。

「ポストモダン」とは「近代の終わり」とか「近代の次に来るもの」という意味だが、肝心の「近代」の意味を誰も知らなかったからである。

これは80年代の特徴かも知れないが、日本人は言葉の意味を軽んじる傾向がある。

「人命は地球より重い」

意味がよくわからない。

昔の総理大臣の福田赳夫のセリフだが、彼はどうして人命の重さを知っているのか。

このセリフは「地球は人命より軽い」という意味である。地球蔑視にも程がある。

なにより私が嫌いなのは、このどうしようもない大衆的な感性である。しかし、この時代はこんな言葉がもてはやされたのである。

「愛と青春の旅立ち」とか「愛と哀しみの果て」というタイトルの映画が上映されたが、これらのタイトルは日本の配給会社が勝手に付けたものである。

どれが主語でどれが述語かわからない。しかも、それがわかったら意味がわかるのかというと決してそうではない。「愛」が主語で「青春の旅立ち」が述語であっても、「愛と青春」が主語で「旅立ち」が述語であっても、意味がわからない事に変わりはない。

そして、「人命は地球より重い」に匹敵するベタな感性。

どうも当時の日本人は歌謡曲の歌詞のノリで言葉を使っていた気がする。

歌謡曲の歌詞というのは、韻が絶対で意味が相対なのである。

80年代の日本語はそれによく似ていてムードが絶対で意味が相対だった。

あるいはこれは世代の問題なのかもしれない。当時の主流は私と同世代か私より少し上の世代である。

メディアに飼いならされた世代である。

当時はまだインターネットが存在せず、テレビの影響力が絶大であった。

テレビをはじめとするマスコミュニケーションとは情報の流れが一方通行のコミュニケーションだから、与えられる立場で満足してしまう人間を大量に作ってしまうのである。そんな世代が情報を発信する側に立つと、くだらない文化を形成してしまうのかもしれない。

最近では「サイレントマジョリティー」という単語が嫌いである。この単語を使う人には「現実を見ろ」と言いたくなる。

サイレントマジョリティーなんてどこに居るのか。

80年代と違って今はネット全盛時代である。みんなSNSを使って言いたい事を言っている。「ノイジーマジョリティー」と「サイレントマイノリティー」に二極化したのである。この二種類しか居ないではないか。いや私のような「ノイジーマイノリティー」も居るには居るんだけど。

もうひとつ、「権威主義体制」「権威主義国家」という単語が嫌いである。

もともと「権威主義」という言葉はブランド志向を意味する言葉だったのである。

それがいつの間にか権力を愛するという意味の単語に変わった。つまり、「権威」と「権力」を混同しているのである。だが「権威」と「権力」を混同すると、日本のような「権威」と「権力」を分離した国を説明できなくなる。

日本の場合、天皇は権威だが権力ではない。反対に政府は権力だが権威性が全く無い。

これは一種の知恵だが、「権威主義体制」とか「権威主義国家」という単語を使うひとはこういう知恵が無いのである。

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