ガラスの杉田を救え

杉田かおるはもともとは清純派の女優であった。「男はつらいよ」でマドンナを演じたり、「3年B組金八先生」でヒロインを演じていた。

だが杉田は変わった。ある時期から「ゴッド姐ちゃん」と呼ばれていた頃の和田アキ子みたいなキャラに変貌し、映画やドラマではなく、バラエティに登場して暴れるようになった。

なぜ杉田は変貌したのか。

その前に、なぜ過去の杉田は清純派で居られたのか。

若い頃の杉田は創価学会の信者であった。創価学会は建前は仏教だが、本音は教祖の池田大作に対する個人崇拝の宗教である。これをパースペクティブで説明すると、まずパースペクティブの第一の消失点が信者であり、第二の消失点が池田大作である。

個人崇拝とは、信者が第二の消失点を絶対化する事だから、杉田にとって池田大作は絶対だったのである。だがそれにより、杉田は「自己」(自分の主観)を相対化することができたのである。

つまりこの当時の杉田が清純派で居られたのは、「自己」を相対化していたからである。

そんなある日、幹部クラスの信者に対して、池田大作が高級メロンをご馳走するというお達しが出た。杉田もその会に呼ばれた。

ところがテーブルに着いても、信者には高級メロンが運ばれなかった。池田大作ひとりが高級メロンを食べている。池田大作はメロンの果肉を全部食べ終わると、その皿を信者に廻した。順番にメロンの汁を飲めという指図だった。杉田も池田大作が食べた後のメロンの汁を飲んだ。だがその時、杉田の中で絶対だった池田大作が相対に変わった。すると、今まで相対だった自分の主観が絶対になってしまったのである。

どういう事かというと、人間は自分の主観を相対化する必要がある。なぜなら自分の主観を絶対化した人間は病気だからである。

自分の主観はパースペクティブの第一の消失点である。この消失点を相対化するためには、第二の消失点(他者)、あるいは第三の消失点(神)を絶対化する必要がある。創価学会は多神教だから、最初から第三の消失点は無い。この場合、第二の消失点を相対化すると、第一の消失点が絶対になってしまうのである。こうして杉田は人格障害という、自分の主観が相対化できない(思い込みが強すぎる)人になってしまった。

というわけなのである。

週刊誌で杉田の告白を読んだ時私が感じたのは、杉田ひとりが正常な感覚の持ち主で、他の信者は感覚が狂っていたという事についてである。

正常な感覚が仇になり、杉田は人格障害になった。

杉田以外の信者は感覚が狂っていたから病気にならずに済んだ。

世の中にはこんな理不尽があるのかと寒気を感じた。

みなさんは、どんな事に寒気を感じますか?

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