第3話 日本が近代化するために

日本の知識人にとって「個人」「個人主義」は大昔からのテーマだった。

彼らはどうすれば日本人が「個人主義」に目覚めるのかを論争してきた。

だが考え方が根本的に間違っていた。日本の知識人の場合、「個人とは何か」を探るために、ヨーロッパと日本を比較するのである。

これは比較の方法として適切ではない。こんな比較では何も分からないと思うのである。

「個人とは何か」を知りたければ中世ヨーロッパと近代ヨーロッパを比較すればいいのである。なぜなら近代化以前はヨーロッパにも「個人」など居なかったからである。

近代ヨーロッパから中世ヨーロッパを引いたら何が残るか?

「メディアリテラシー」である。

だから「個人」とはメディアリテラシーの事である。

ただ、日本人にとって、そこは重要じゃないだろう。日本人が喉から手が出るほど欲しいもの。この国に決定的に欠けているものというのは、いわゆる「主体性」のことではないだろうか。日本の知識人は「主体性」の事を「個」とか「個人」とか「個人主義」と呼んでいたのではないだろうか。

いわゆる「主体性」なら、中世ヨーロッパにも存在した。というか、一神教の民族なら誰にでも「主体性」がある。

パースペクティブで説明すると、第一の消失点が「自己」、第二の消失点が「自我」である。多神教の民族の場合、ここで終わっているから、「自己」をコントロールする主体が「自我」なのである。だが、「自我」の正体は「他者」なので、「他者」が「自己」をコントロールする事になる。多神教の民族はこういう生き方しか出来ない。

一神教の民族の場合、「超自我」によって「自己」をコントロールする。「超自我」の正体は「神」である(多神教の神は神ではない)。つまり、「内なる神」が「自己」をコントロールするのである。これが「主体性」なのである。

「超自我」はパースペクティブの第三の消失点なのだが、この消失点は「聖性」「正義」を意味する。日本でよく聞かされるのが「ロシアにはロシアの正義がある」だの「ハマスにはハマスの正義がある」だの「中国には中国の正義がある」といった文言である。しかし、これらの「正義」はあくまでパースペクティブの第一の消失点に過ぎない。つまり当事者の自己主張に過ぎない。

裁判に例えれば原告側の正義とか被告側の正義と同じレベルなのである。

本当の正義は裁判長の主観なのである。裁判長の主観はただの主観ではなく、相応の客観性を持っている。なぜなら彼は、第三者の視点で検事と弁護士の対立を見ていたからである。その過程で先入観が洗い流されたのである。

このプロセスを弁証法と呼ぶのだが、近代社会はちょうど裁判所のようなものなのである。誰かの自己主張を正義と呼ぶならば、その正義を「本当の正義」が裁かなければならない。そして、「本当の正義」の遂行は第三者に限られる(「正義」を英訳すると「ジャスティス」だが、この単語には「司法官」という意味もある。あきらかに当事者の正義は本当の正義ではない)。

日本人が「和の文化」を捨てて、弁証法的な考え方をするようになれば、いつかは近代化できるだろう。(何故「和の文化」を捨てるのかというと、喧嘩両成敗の概念が近代化する上での障害になっているからである)(ちょうど弁証法を俗化すると喧嘩両成敗になる。喧嘩両成敗とは、いわば裁判長の居ない裁判のようなものだからである)。ただひとつ懸念があって、それはマスコミの存在なのである。マスコミの立場で考えると、日本は近代化しない方が好ましい。布教活動(プロパガンダ)のハードルは低い方がいいだろうし、テレビ番組のスポンサーだってノリの悪い視聴者より乗せられやすい視聴者が好きだろう。だからマスコミが日本の近代化を妨害する可能性がある。

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