第6話 我々はサムライの子孫ではない
現在、岸田総理の無能ぶりが話題になっている。
この人の最大の欠点はガバナンスと無縁の人間であるということ。
総理大臣に向いていない。しかし、私にいわせればほとんどすべての日本人はガバナンスが欠如しており、岸田さんと同じく総理大臣に向いていない。
それもそのはず、岸田さんを含め、ほぼすべての日本人は「和の文化」を信仰している。「和の文化」とは要するに「世間信仰」の事である。
日本人のガバナンスの欠如はこれが原因である。
世間を信仰するためには何が必要か。まず「性善説」である。渡る世間に鬼が居ると世間を信仰することが出来なくなるから、世間を信仰するためには性善説を信仰しなければならない。
もうひとつ、「和の文化」を信じるためには「喧嘩両成敗」を信じることが重要である。
「平和」の反対は「戦争」、「和」の反対は「対立」である。
だから「和の文化」を信じる人間にとって、対立そのものが悪なのである。
「ロシアも悪いがウクライナも悪い」と主張する日本人は対立そのものが許せない訳だ。
どうしてウクライナが悪いのかというと、反撃したから。対立したからである。ロシアが侵略した時、ウクライナ人が武器を捨てて逃げれば「和の文化」を信仰する者は留飲を下げたのである(護憲派の「絶対平和主義」もこれと全く同じ考え方である。つまり護憲派は、戦争には反対だが侵略には賛成なのである)。
だがこの考え方は加害者を利する。なんの罪もない被害者にとってはこんな迷惑な考え方はない。
加害者を利する考え方こそ悪だろう。それに、この考え方では問題の再発防止すらできない。
「和の文化」を信じる人々は「絶対に自分は被害者にならない」という確信でもあるのだろうか。
その根拠は何なのか。
そんなわけで、「和の文化」を信じるという事は「性善説」「喧嘩両成敗」を信じるという事なのである。
こんなけじめの無い文化が1400年も続いたのである。そんなに続くはずがないのだが。
ところがよく考えてみると、江戸時代の日本において「和の文化」はあくまで「平民」と呼ばれる下層階級のための文化であった。
「平民」を管理する「武士」の方は「和の文化」を信じていなかったのである。
「性善説」も「喧嘩両成敗」も信じていなかった(その証拠に武装して歩いていた)。だから平民を管理する事ができた。
「平民」は被管理の立場だったため、ガバナンスが欠如していても問題はなかった。
ところが、明治政府が武士階級を廃止してしまった。それでも戦前の日本は階級社会だったから、武士の末裔が統治能力を発揮していたが、戦後はすべての国民が平等になり、しかも天皇が「人間宣言」をしてしまったために、日本の伝統的な4つの文化「神道」「天皇崇拝」「和の文化」「武士道」のうち、「和の文化」だけがのさばるようになった。
こうして、日本全体がガバナンスを失った。だから現在の日本人は総理大臣には向いていない。というか、管理職全般に向いていない。
では、どうして「和の文化」を信じるとガバナンスが欠如するのか。
「真面目」と「シリアス」は似ているようで少し違う。「真面目」には「従う」というニュアンスが含まれている。
「シリアス」には「自律する」というニュアンスが感じられる。
「シリアス」とユーモアは両立するが「真面目」とユーモアは両立しない。ユーモアは自発性であり、自分でものを考える証拠である。
他者に服従する人間が「真面目」。自分で考えて行動する人間が「シリアス」である。
「和の文化」に忠実な人間はみんな「真面目」なのである。
「じゃりん子チエ」の主人公は自分のことを「ウチ」と呼ぶ。「ウチ」とは「家」のことであり、「キャラクターは『家』であり、自分はそのパーツに過ぎない」という意味である。
日本製コンテンツの最大の特徴はこれではないだろうか。
戦隊シリーズの「ゴレンジャー」におけるアカレンジャーとかモモレンジャーは一見キャラクターに見えるが実はキャラクターではない。
では何かといえばパーツである。
キャラクターはあくまで「ゴレンジャー」。五人揃った状態なのである。
合体ロボットは合体する前は飛行機とか戦車だが、これらは一見キャラクターに見えるが実はパーツである。飛行機と戦車が合体して人型ロボットになるということは、パーツとパーツが合体してキャラクターになるということなのである。
江戸時代なら自分達を武士が管理してくれたが、明治維新以降は管理してくれる者がいない。そこで日本人は集団でものを考えるようになった。
集団内のひとりひとりは「集団という頭脳」の手足に過ぎない。
厳密にいえば、「自分の考えを持つ」事は「自分が所属する集団に意見をする」事である。だが、それは「集団内で孤立する」リスクがある。
しかし日本人にとって、集団内で孤立するくらい怖い事は無い。
だから日本人は思考を停止するのである。
思考を停止する事によって手足に特化するわけだ。
それは被管理に特化する事を意味する。
どこの国にも同調圧力は存在するが、日本は同調圧力を文化にしてしまった。
それが「和の文化」である。
だから日本人の場合、真面目になればなるほどシリアスから遠ざかっていくのである。
岸田総理を見ればわかるだろう。この人のどこがシリアスなのか。
しかし岸田さんも、学生時代やヒラのサラリーマンだった頃は、つまり被管理の立場だった頃は優秀だったのではないだろうか。
それはこの人が「真面目」だからである。
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