二話

 自室へ戻ったフォルテは翌日の早朝訓練に遅れることがないよう、汗を流す為の湯浴みをせずに就寝用の軽装へと着替え始める。

 通常……大量の汗によるベタ付きや不快感をそのままに寝床へ就くなどという行為に及べば、脳を休めるまでに至らず、短縮した時間が意味をなさないほどに眠れない夜を過ごす事になるだろう。だが彼にはその問題が発生しない、何故なら──


「───」


 『清浄魔法』──それが彼の固有魔法であるから。


 フォルテが固有魔法の範囲を部屋全体に指定して発動すると、全身のベタ付きや脱衣後の服に付いていた汚れは勿論、確実に入室前よりも空気が清浄された様子が窺える。汗で張り付いていた布は肌から離れ、履物から剥がれ落ちた泥までもが消える。


「ハッ……──歴代の『救世主』達は揃って凄い固有魔法を持っていた?」


 そう言いながら──握りしめていた拳を緩め、戯ける。


「じゃあ俺はやっぱり、救世主なんて大層なモノじゃなかった訳だ」


 脳内で再生される期待を含んだ誰かの声。フォルテは"ああ、そんな事は分かっていた"とでも言うように、己へ向けての嘲笑を浮かべる。さしずめ喪失しかけた王家への信用を回復させる為に取った応急処置であり、自分はただの当て馬だったのだろう──と。


「フォルテ様、いるっスか〜? ご飯持ってきま──コホンッ。ご夕食をお持ちしました!」


 部屋の外から快活そうな女性の声が響いてきた。


「ありがとう。机の上に置いておいてくれ」


 聞き覚えのある声に、知り合いのメイドだろうと断定したフォルテは、窓際の棚にある本を取り出しながら返答する。部屋に入るなり、辺りを見渡すメイド。口調を正すことに慣れない様子の彼女だが、若くしてチェンバーメイドを任されるほどには優秀な人間だ。


「珍しいね、給仕係は君じゃなかったはずだけど」


「あ〜……なんか"フォルテ様のお帰りがいつもより遅いみたい……どうしよう〜!"てな感じに給仕ちゃんがアワアワしてたんで、わたしが無理矢理奪ってきたッス!」


 もはや口調を正すことを止めた様子の彼女は、フォルテへ向けて元気にピースサインを作る。


「それにしてもこの部屋……ちょっと綺麗過ぎじゃないッスか?」


「──そうかな?」


 先ほど発動したばかりの清浄魔法について隠す為、そう惚けるフォルテ。

 普通なら、この様に壁や天井を少し見たというだけで違いに気付ける訳がない。その瞬間を見ていたフォルテですら──辛うじて変わったか? と思える程度である。しかし、普段から彼の部屋を掃除している彼女からすれば、見分ける事くらい容易いのかもしれない。


「そうッスよ!」


「俺には分からないな。申し訳ないけど、本を読むのに集中したいんだ……」


 フォルテは手元にある『五歳でも覚えられる! 初代勇者が生きていた時代の魔物と魔法!』という舐めたタイトルのついた本を、片手で持つようにして彼女に見せた。

 この日の授業で必要な物を何一つ持って行かなかったフォルテは、進学校である王立学園で教えられる範囲の内容など何年も前に暗記している。自身を高め続けることだけでしか心の平穏を保つ事ができない彼は、更なる知識を目指し……国立大図書館から借りてきた文献を読み漁る段階にまで到達していた。


「それはそーりーッス! あー……食器を下げるのは明日の朝で良いッスよね?」


「ああ」


「了解ッス! では、おやすみッス!」


 メイドが離れていく音を確認したフォルテは、手元の書物を読む──ことはなく、窓際の本棚へと戻した。

 何故そんな事をしたのか……理由は単純──彼は既にこの本の内容を知っているからだ。

 彼女をこの部屋から遠ざける為に、一刻も早く一人になる為に、その為だけにそう装った、ただそれだけ。


「…………くだらない内容だった」


 そう吐き捨てるように言うフォルテ。実際はタイトルに反して、到底五歳の子供に理解できるような内容では無かった為、記されている情報が正しいかすら怪しいネタ書物であった。


「……過去へ跳躍する魔法」


 ふと、書物に記されていたことの一部を思い出した彼は、そのまま机の上に立て掛けてある母の遺影へと視線を向ける。


「もし俺が……俺が、本当に救世主だったなら」


 ──母が息を引き取る瞬間を何も出来ずに見ているだけ、なんて状況にはならなかった。その言葉を胸に秘め、机に置かれた食べ物に手を付けることなく部屋の明かりを消して、無駄に柔らかいベッドへと寝転がる。


「こんな……っ……こんな魔法ッ!」


 布団に包まりながら呻き声を上げるフォルテ。もしも過去に戻ることができたなら、彼は二度と同じ選択をしないだろう。救世主という身の丈に合わない役などではなく、無能な自分が初めて母を喜ばせる事が出来たこの魔法・・・・で、救いたかった人の笑顔を傍で見続けることを選ぶ。

 有り得ないと分かっていても願ってしまう。それが、人生に後悔を重ねてしまった彼に存在する唯一の逃げ道だから。


 既に枯れたはずの涙を零しながら、フォルテはその意識を手放した。







************







 朦朧とした意識の中、背部に伝わる硬い感触……──はて、国から支給されたベッドはこんなにも寝心地の悪い物であっただろうか? いや、そんなはずは無い! と、逸早く危機を察知して脳を覚醒させる。


「此処はッ──外?」


 仰向けの状態から首のみを動かしてみると、見慣れた自室の石床など影も無く、軽く吹いた風に飛ばされてしまうほどに細かい砂を乗せた硬い地面があった。一先ず、冷静さを取り戻す為──背後に感じる異物が引っ掛かる様な感触を無視して上体を起こしたフォルテの視線の先に、砂煙の中から小さな漆黒の何か、その先端の様なモノが揺れ出ているのを認識する。


「……魔獣か?」


 どうやらそれが尻尾であること理解した次の瞬間──それを覆っていた砂煙が完全に晴れ、小柄だと思っていた生き物の全容が現れた。


「──何だ、あれは」


 巨大な漆黒の後尾。直ぐ様フォルテは、何も無い荒野に唯一存在するであろう小さな岩陰へ……あの獣に気付かれることがないようにゆっくりと身を隠しながら思考を巡らせる。


「……訓練の一環で郊外に遠征をした時でさえ、あんな化け物は居なかったはずだ」


 近年、国壁の外に出現する魔獣にあの様な凶悪な見た目をしたものは居なかった。


「……でも、あの姿」


 ──しかし、過去には生息していた。と、彼の脳には記憶されている。


「……あの本で見た魔獣に似ている」


 あの本──自身がくだらない内容だったと判断した馬鹿げたタイトルのついた本、それに記されていた魔獣の一体。

 しかし、その魔獣が生きていたのはおよそ二千年程前──リスペアス王国が建国される以前のことであり、世界中の魔物が現在とは比べ物にならない水準で屈強且つ凶暴だったというほどに遙か昔の話だった。


「確か名前は……」


 観察に夢中で身を乗り出し過ぎてしまったのか、フォルテは一瞬──振り返った魔獣の視線が自身へと向いたのを認識した。


「……ッ!」


 ただちに息を殺して、背負った覚えのない黒色の柄を持つつるぎが岩肌に当たらないよう、背中を貼り付け身を隠す。暫くすると、大地を踏みしめる巨獣の音が段々と此方へ向かって来るのが聞こえてきた。

 そのまま巨獣が過ぎ去るのを願って、ギリギリまで身を潜めようとするフォルテだが──


「──流石に……無理、ですよねぇッ!」


 岩を覆い隠すほどに巨大な影の端が自身の足元に見えた瞬間──隠れ続けるのを諦め、反対方向へと走り出す。


「ヤバいヤバいヤバいヤバぁい!」


 背後の岩が粉砕される音と共に、けたたましい咆哮が鳴り響く。その音を生み出した存在から距離をとる為、全力で身体を動かすが、何故か強烈な違和感を覚えた。


「……は?」


 普段から自身の身体を完全に制御する為の訓練を行っているフォルテだが、たった今、全身のあらゆる感覚に想像していたモノとのズレが生じている。それが恐怖からなのか、あるいは別の要因によるものなのか。


「クソっ……」


 何れにせよ──最早あの怪物から逃げ切るのは不可能ということを理解したフォルテは、背中の剣を抜き、巨獣へと対面する。


「やっぱり、二千年前の魔物……ニグニスで間違い無さそうだ」


 大木のように太く長い尾を生やし、蜥蜴の様に四足で地面を這いずる漆黒の巨獣は、軽々と岩を粉砕することが可能な程の硬度を持つ鱗で全身が覆われている。


「お前を殺さないと、落ち着いて考えることも出来ないからな。今までの自己研鑽が無駄ではなかったと……証明、させてくれッ!」


 剣を大きく振りかぶろうとした腕を止め、気付いてしまった問題に驚愕から目を見開く。黒色の柄に、白銀の刀身、自身が普段から使っている武器ではない──しかし、そんな事はどうでも良いと思える程の事実に。


「──こ、れは?」


 柄を握る手が違う、それに連なる腕が違う、地に着けて立つ為の両足が、困惑から漏れ出るその声が──何もかもが自身の記憶するものとは一致しない。


「そういう……ことか」


 彼は眼前に迫る漆黒の魔獣を見詰めながら理解する。突如としてこの場に現れたのはこの巨獣の方ではなく、自分自身・・・・であったという事を。


 ──これは夢か?


 否、夢な訳が無い。知らぬ肉体でもなお感じることの出来る感覚が、その可能性を否定している。


 ──戦わないのか?


 この身体では、自身が培ってきた経験を活用することができない。何もかもが無駄になった今、奇跡的にこの魔獣を殺せた所で一体何になるというのだろうか。


「やっと……会えるの、かな」


 死を直前にしてフォルテは思う。


 "後悔ばかりの人生だったけど、これで漸く楽になれ──"




『───右に飛んで』




 そう思い込んだ自身の魂を否定するように、彼は直線状に突進してくる魔獣の右側へと向かって勢い良く飛び退いた。




 





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