四日目

 アリシアの体は、レジャーエリアの中央にある噴水にもたれ掛かる形で見つかった。

 噴水の水を頭から浴び、顔に沿って流れる冷たい水に何の反応も示さない様子は、とても生きているようには見えなかった。

 そして目を引いたのは、濡れた服に透けて見える赤い模様。

 胸元に描かれたその模様は、赤い円に三つの動物を象った形をしていた。

 呆然とする僕と健太、陽子を他所に、空湖は黙って警報装置の下にある白いボタンを押す。

 緊急用のサイレントアラート。

 以前にもここで使われたのを空湖は見ていたと言っていた。

 音のしない、スタッフに静かに知らせる装置はその機能を発揮して、スタッフをすぐに呼び集めた。

 僕達はすぐに外に追い出され、現場は一時的に閉鎖される。

 ソフィアに知らせた方が良いのか? いや、それは僕達の役目じゃ……、とオロオロしながらも結局ソフィアの部屋の前まで来てしまう。

 ドアをノックし、「どうしたの?」とソフィアが顔を出したが、「アリシアさんが……」と青い顔で言う僕達に全てを悟ったのか、すぐに部屋を飛び出して行った。

 後を追おうとも思ったけれど、咽び泣くソフィアの声が聞こえて、そのままとぼとぼと部屋へ戻った。

 母にも話し、沈痛な面持ちになる。

 これまではよく知らない人の事件だったが、アリシアは日が浅いとは言え友達になった間柄だったのだ。

 その友達が犠牲になり、そして間違いなくそれをやった犯人がまだ船にいる。

 それが今までとは違うことなんだ。

 その後朝食が運ばれてくるも、あまり喉を通らず。

 マスターを心配していた健太達も、もう外へ出る気力はないようだった。

 空湖が外へ行くと言うので僕もついて出る。

 一人にすると心配……というより何を仕出かすか分からないから心配だ。

 レジャーエリアへ行くと既に片付けられていた。

 一応黄色いテープが張られて閉鎖は続いているんだろうけれど、あまり現場保存の役には立っていないように見える。

 確かに噴水の中ではあまり証拠が残りそうにないけれど……と通り過ぎ、カフェが視界に入るとマスターがいるのが見えた。

「やあ君達。なんか大変なことになったみたいだねぇ」

「マスターは大丈夫だったの?」

「僕かい? 僕も夕べはずっと寝込んでいたよ」

 空湖の問いに少しゲンナリしたように答えるが、見た感じは直前まで寝込んでいたような様子は感じられない。

 空湖は当たり前のように席に座ると、マスターも当然のようにコーヒーを出してくれる。

 僕もそれに倣うが、空湖はどうしてここへきたのかな。

 もしかしたらマスターが事件に関係していると考えたのだろうか。マスターが皆に毒を盛って……。

 でも出されたコーヒーを躊躇もせずに飲んでいるところを見ると、そう考えてはいないんだろう。

「大変だったけど、これで安心もできるんじゃないか?」

 特に会話もなくコーヒーを飲んでいるとマスターが口を開く。でもその内容に僕は疑問を口にした。

「……安心って?」

 マスターはグラスを磨きながら肩をすくめる。

「連続殺人だよ。あれはプリメラを探し出して暗殺するためのものだったと、もっぱらの噂だよ」

 そう。僕も見た。

 アリシアの胸に赤い紋章が描かれていた。

 あれはアリシアが言っていた、プリマ王国王位継承者の紋章の形状と一致する。

 もっとも本人だったのなら詳しく知っていて当然だ。

 そして事件の処理に当たったスタッフ達も紋章を見ただろうし、野次馬の目にも触れただろう。

 乗客にはプリマ王国の王女か? と騒いでいた人もいたのだから、王国の事情や暗殺の可能性についての噂も飛び交っていたと考えられる。

 そんな中、本物のプリメラだったアリシアが殺害されたとなれば、犯人は目的を達成したとして安心するのも頷ける。

「じゃあ、最初の二人はプリメラと間違えて殺されたっていうこと?」

 僕の問いかけに答えられる人はいないのだけれど、状況から見るとその可能性が一番高いのだろう。

 プリメラは今まで日本で暮らしていて、今回の王位争奪戦に祭り上げられた。

 それをよしとしない派閥に命を狙われていたから、正規のルートではなくこの豪華客船の試験航海に紛れ込み、まず日本を離れてから本国に戻る計画だった。

 思えばアリシアは外国人にしては日本語が熟達していた。

 だけどどこからか情報が漏れたのか、暗殺者もこのツアーに潜入。

 でも誰がプリメラかまでは分かっていなかったから、それらしい人に目星を付けては接触、殺害。

 ついには本物に行き着いた。そんなところだろうか。

「集団食中毒は偶然?」

「え? ……いや」

 効率が悪いからとプリメラごと皆殺しにしようとしたにしてはお粗末だし。

 事件とは関係ない、衛生面の不備と考えるのが妥当だとは思う。

 いずれにせよ本物が死んだ時点で犯人の目的は達成したのだから、これ以上の事件が起きる可能性は低いと考えるのも無理はない。

 今のところ犯人は分からないけれど、ヘタに詮索しようとすると目撃者を消す目的で殺されてしまいかねない。

 船側も大々的に犯人を探さないのではないか。

 でもそうなると犯人も逃げてしまうかもしれない。

 時間が経てば経つほど証拠も褪せてしまうのだから。

 それは何とかした方がいいんだろうけれど、僕達が心配することではないのも事実だ。

 被害者は皆一人旅だったようで、騒ぎも大きくなっていない。

 アリシアの同行者もソフィアだけだ。ソフィアは日本での友達なのか、それとも王国からの案内人なのか、どちらにせよ「仇を討つために犯人を」とはなりにくいだろう。

 なにせ相手は国の雇うような殺し屋かもしれないのだ。

「僕としては、何もせずこのまま過ぎ去るのを待つことをオススメするよ」

 それは僕も同感だ。ヘタに犯人を探して追い詰めたら何をするか分からない。

 犯人に辿り着く前に殺されてしまう可能性の方が高いだろう。

「でも、それはあくまでアリシアさんが本当にプリメラだった時の話。もっと言えばプリメラの殺害が目的だった時の話」

 空湖は真っ直ぐ前を向いたまま言う。確かに今は憶測でしかないんだ。

「他の人、わたし達に危険がなくなったとは限らない」

 そうかもしれないけど。そう考えたところで僕達には何もできないと思う。

「アリシアさんが、本物のプリメラだったと分かればいいんだけど……」

 確かにそれが分かれば、プリメラ暗殺事件は終了という確証は得られる。

 でも医務室でお医者の先生に聞いて、簡単に教えてくれるものなのか。そもそもお医者ならプリメラの証明ができるわけでもないだろうし。

「マスターはプリマ王国のマークって分かるの?」

「まあ、大体でいいなら知っているよ」

 空湖の問いかけに、マスターはナプキンを取って絵を描き始める。

 基本はアリシアが言っていた通りの模様だ。

 円は豊作を表す植物のツタのような、籾殻もみがらのような線で、その中に人間、獅子、鷹のようなシンボルが三つ。それが調和を表すように描かれている。

 人間に見えるものは正しくは神を表しているそうだ。

 確かにアリシアの胸にあった、濡れて透けた服から見えていた模様と似ている。

「もう一度、よく確かめてみようかしら」

 遺体を!? 見に行くの?

「いや、無理でしょ!」

 僕達が医務室に行って「遺体見せて」ってどう考えてもおかしいでしょ。

「色々と腑に落ちないのも分かるけどね。僕としては問題が大きくなると、仕事に差し障るからなぁ」

「仕事って? 美術品?」

 ストレートに聞くなぁ。ここはカフェの経営とかじゃないのかな。

「まあ確かに僕はアンティークが趣味だからね。件の美術品にも興味はあるさ」

「あれにどんな価値があるの?」

 空湖は全く興味ないという表情で聞く。

 まあ芸術なんて分からない人には分からないものだけど。

「値段をつけるなら占めて一万円くらいかな?」

 たはは、と僕は苦笑いする。

 曲がりなりにも外国から預かった美術品なんだ。

 いくらなんでもそれは……、という顔を見て取ったのかマスターは真面目な顔をした。

「本当だよ。今の所は……という意味だけどね。ただ古いってだけで誰がいつどこの国で作ったのかも分かってない。もしかしたらとんでもない価値があるかもしれないから、今のうちに拝んでおいた方が得だよって売り込んでるだけさ。僕も見たけど、見た感じはどう見てもプラスチックなんだよねぇ」

 だが予想される製作時期にプラスチックがあったのなら、それはそれで凄い発見ということになる。

「僕には、鑑定されてメッキが剥がれる前に少しでも見世物にしよう――って魂胆としか思えないけどねぇ」

 マスターはコーヒーを注ぎながらさして興味なさそうに言う。

 でも、それならどうして人を殺してでも盗み出そうとしたんだろう、と思うも証拠はないんだ。

 もしかしたら本当に僕達の思い過ごしなんじゃないか?

 と少し表情を緩めていると、それに気付いたのかマスターはウインクする。

「今のは持ち主の思惑を語っただけさ。所有者はアレの価値を何も分かっていない」

 意外な回答に僕は一瞬我を忘れて聞き返す。

「それって、どんなものなんですか?」

「オーパーツって知ってるかい?」

 聞いたことはある。

 古代文明の遺産みたいなものだっけ?

 それこそ、専門家でもない素人には何の価値もないはずだ。

 マスターはポケットから丸っこい板を取り出す。

 手の平に収まるような大きさで、装飾の入った銀色に小さな赤い宝石が埋め込まれている。

 外国の貴族が持っていそうな、オシャレで美しく、可愛らしい小物だ。

「これはいくらの価値があると思う」

 数万円、くらいかな。宝石付いてるし。

「僕は二十三万円で買ったけどね。宝石は本物だけどただの飾りさ。コイツの本質は……」

 と言ってスライドさせるように開くと刃が出てきた。

 要するにお洒落な折り畳みナイフだ。

 柄が不自然に丸いから、使うには持ちにくそうだ。

 畳んでいると装飾品みたいだから、どちらかと言うと仕込みナイフだろうか。

 アクセサリーだと思っていたらナイフが出てくるみたいな。

 刃渡り自体は数センチしかない。

「これは日本刀と同じ方法で作られていてね。かなりのワザモノだよ」

 小さいが、硬さと切れ味は本物だと言う。

 でも小さすぎるので実用性がないみたいだ。

「僕のコレクションさ。これもね」

 と言ってカウンターの下から金属質の塊を取り出した。

 それは……鉄砲?

 よく見る拳銃のような物ではない。

 海賊映画に出てくるような単筒。

 つまり火縄銃を短くしたようなものだ。

 こちらは磨かれてはいるものの、所どころ傷や汚れがあり、上部――つまり撃鉄が叩くはずの場所は大きな穴が開いている。

 壊れているようだった。

「改造してあるからね。価値としては無いみたいなもんだよ。でも僕のお気に入りさ」

 元々火薬を入れて撃った時に暴発して、銃身の真ん中が大きく破裂した物らしい。

 それを修理して形を整えたけれど、無くなった部分は穴になっている。

 もっとも使えた所で武器としては全く役に立たない。

「これも壊れてなければ数百万する代物さ。でも僕に言わせれば、そんなもの大した価値とは言えない」

 折り畳まれたナイフと銃を振り回すようにして言う。

「じゃあマスターにとって価値のある物って何?」

 空湖が澄まして聞く。

 命とか愛とか、形のないものを取り上げるのかと思ったら、マスターは同じように小さな物を取り出した。

 それは手の平に収まるような金属物だけど、さっきのナイフとは違って何とも地味で……。

「なんだと思う?」

 マスターは僕に聞いて来た。

「え? あの……、磁石?」

 理科の実験で何度も見た、U字型の磁石のようだ。

「お、惜しいねぇ。近いけど、根元に棒が付いてるだろう? これは『音叉』と言うんだ」

 そうか。

 それも聞いたことはある。

 叩くと音が響いて共鳴なんかの色々な現象を起こすんだ。

「これはいくらだと思う?」

「ええ~?」

 と困ったような笑いを返す。僕なら三百円でもいらない。

「まあ、そうだろうね。でもコイツの価値に値段なんて付けられない。少なくともアメリカなら数億ドルという値をつけるだろうね」

 たはは、と苦笑いする。

 本気なのか冗談なのか分からない。

「コウ君は音ってなんだと思う?」

「え? えーっと、空気の振動?」

「そう。振動だ」

 マスターは先程のナイフを取り出すと、音叉に刃の背をコツンと当てる。

 キィーンと小さいが高い音が周囲に響き渡った。

 耳をつんざく程ではないが、耳の奥を貫通して脳に直接刺激を与えるかのような領域の音。

 マスターはコーラの瓶を置き、栓のやや下辺りにナイフを当てると、そのまま横に引いた。

 するとガラスでできているはずの瓶は、まるで麩菓子のようにさっくりと切れて落ちた。

 コロコロと目の前に転がって来た瓶の先端を思わず指で触ってしまう。

 偽物じゃない。本物のガラスだ。

 それが大した力を入れた風でもなく、簡単にナイフで切れた。

「超音波振動」

 マスターは得意げに言う。

 その言葉も聞いたことはある。

 小さな周期で細かく振動する刃物は想像を絶する切れ味を発揮する。

 ノコギリも「押す」「引く」を繰り返して木を切る。それは早くやればやるほど早く切ることができる。

 その距離をより短く、より早くやっていくと最後は振動してるみたいになるはずなんだ。

 要するに細かく振動する刃は、物凄く鋭利なチェーンソーになる。

 でも、それって音叉を叩けばなるもんだっけ?

「どうしてこんなことが起こるのか。それは未だに分かっていない」

 古代の文明か、異星人が持ち込んだ物か、とにかく今の科学で説明できない現象を起こす物。

 マスターはそういう物のことをオーパーツと呼んでいるんだそうだ。

 科学者の手に渡って研究されたこともあるが、そういった物は狙う者も多く、必ず動乱に巻き込まれる。

 それになぜそんなことが起きるのか全く分かっていない物を、分解したり削ったり、放射線を当てたりすることもできない。

 何かすることで効果が消えてしまうのが恐ろしい科学者は、外から眺めながら議論するだけだ。

「こんな物。研究所の保管庫に置いといても無駄なだけだろう?」

「で、でも。研究されることで、原理が分かって、世の中が便利になることもあるんじゃないですか?」

 僕は反発心からささやかな抵抗を試みる。

「そうだねぇ。半導体やら何やらも、そういう類だと僕は思ってるよ。それは世の中を凄く便利にした」

 でもね、とマスターは顔を寄せて声を落とす。

「この音叉を見て、何に使えると思った? 日曜大工をする時に便利? そういう人ばかりじゃない。これは何の変哲もないただのナイフを、金庫に穴を開ける道具に変えるんだ」

 うう……、と僕は言葉に詰まる。

 人間が核の力を手に入れた時に、一番最初に作ったのは人を殺す爆弾なんだ。

「僕自身、これが何のためにあるのか分からないし、有効活用しているとも思ってない。まあクルミを割る時には便利だけど」

 と笑いながらマスターはナイフを仕舞う。

「あの美術品がオーパーツなの?」

「さあね。可能性が高いってだけさ。もしそうでも、使い方が分からないかもしれないし、全く役に立たないかもしれない」

 案外神秘のアイテムなんてそこら辺に転がっているのかもしれないよ、と笑う。

 空湖は転がった瓶の口を手に取り、その切り口に指を当てる。

 あ……、と僕が声をかけるより先に、指先から赤い物が流れ落ちた。

 空湖はパタパタと滴り落ちる血を眺め、そのまま僕を見るとにんまりと笑う。

 僕は嫌な予感を感じた。

「医務室に行かないと」

 マスターはナプキンを取り出し、空湖の手を覆いながらやれやれとため息をつく。

「気を逸らすために、こんな話をしたってのに……。手強いお嬢さんだなぁ」





 僕達は医務室へ向かう。

 昨日の夕食から時間が経ったためか、ややゲッソリとしているものの、壁に手を付きながら通路を移動している人も見かけるようになった。

 やはりただの食あたりだったのかもしれないが、いくら揺れないことがウリのこの客船でもまだ辛いのだろう。

 ほとんどの人は客室で横になっていると思われたが、通路に以前見かけた、全身を黒で統一している女性の姿が見えた。

 相変わらずのサングラスにマスク、に帽子。

 でも全く同じ服装というわけでもないようなので、本当に普段から黒い服を愛用して、クローゼットにも黒い服がズラリと並んでいるのかもしれない。

 その女性は僕達と目を合わせることもなく――サングラスで目線は見えないが――俯くようにすれ違う。

 この人も体調が悪いのかもしれないと、僕達もそそくさとすれ違う。

 医務室に着き、ノックしたけれど誰も出てこなかった。

 少し重い扉を開けて中を覗くも、やはり誰もいない。

 確かに医師は回診で忙しいのかもしれない、と少し待たせてもらうことにする。

 空湖は続きになっている奥の部屋を覗いたりしているが、止めても聞かないんだろう。

 しばらく居たたまれない気持ちで待っていたけれど、わりとすぐに余興でもお世話になった医師と看護師が戻ってきた。

「おや? どうしたんだい?」

「いや……その、指を切っちゃって」

 空湖が……、と続けようとするも肝心の空湖がいない。

 誰も居なかったので奥へ探しに行っちゃったかも……とオロオロしていると出てきた空湖に「勝手に入っちゃダメだ」と言われるが、医務室を空けてしまったのは自分達も悪いと軽く叱られただけだった。

「済まないね。ちょっとバタバタしているからね」

 それは仕方ないと思う。

 医師は空湖の手を見て、手際よく治療をしてくれる。

 僕はそれとなく皆の体調不良のことを聞いてみた。

「いやぁ、原因はまだ調べているところだけどね。そんなに大変な病気ではないよ」

 医師は子供相手だからか、言葉を選んでいるようだったけれど、要するに今乗客が床に伏しているのは急性胃炎。

 菌によるものだけれど、それ自体は特に珍しいものではなく、街でもよくある症状のものらしい。

 普段の食生活によっては全く影響のない人も要る。たとえば僕達のように。

 だがこんなに自然発生するものなのか? という疑問には答えられないようだった。

「だけどこれだけは言えるよ。人を殺す目的で、こんな毒は使わない。いや、毒と言っていいものですらない。だから心配することはないよ」

 優しい口調で言う。

 そう言えばこの医師も余興で空湖の推理を聞いていたんだ。

 子供が興味津々毒殺事件を嗅ぎ回っていると思ったのかもしれない。

 でも毒が入れられたのでないなら、廃棄予定の食材を間違って使ってしまった、取り寄せてしまったとかなんだろうけれど。

 こんな豪華客船を運用する会社がそんなミスをするかな?

 大勢の命に関わるような設備でも人為的ミスは起こるのだから、絶対とは言えないんだけど。

 船の会社としてはその混入経路の特定と、不調を訴える乗客をどこまでケアできるかは、今後の運営にも関わるのだから大変には違いないだろう。

 空湖の治療を終え、諭すような話をしていると、奥へ行っていた看護師が血相を変えて戻ってきた。

「ありません!」

 いきなり叫ぶように言う看護師に医師を含めた僕達はきょとんと顔を見合わせる。

「ありません……ってどうした? 何がだ?」

 看護師は青い顔をしたまま固まっていたが、再び同じ言葉を繰り返し、付け加えるように言う。

「アリシアさんの遺体が……」

 僕と空湖は顔を見合わせた。



 外へ追い出された僕達は医務室のドアに聞き耳を立てる。

 中では医師が看護師に詰問口調で確認していたが、医務室を空けたのはお互い様なようで、結局は自分の責任だと言うように声を落としていた。

 聞いた限りでは、霊安室も確認したが見当たらない。寝かせておいた遺体に近づいたのは「そばに居たい」と言ったソフィアと僕達――正確には空湖だが、空湖が奥の部屋に入った時には既に無かった。

 暗殺事件はお国の事情だが、遺体を持ち去られたとあっては管理責任を問われるかもしれない、と嘆く声も聞こえた。

 船内を捜索しないと……、と手配のために看護師が出ていったので僕達もその場を離れる。

 医師はもう医務室を空けないだろう。

 僕達は……、やはりソフィアにも知らせるべきかと思い、客室に向かった。

 船舶特有のデザインを施されたドアをノックすると、やや憔悴した顔のソフィアが迎え入れてくれる。

 部屋の中に入ると、お調子者のイヴァンもいた。

 いつもの調子で挨拶してくるが、僕達は神妙な面持ちで今見てきたことを話す。

 ソフィアは驚いたというより、どうしたらいいのか分からないという様子だ。

「ソフィアさん、アリシアさんはプリメラなの?」

 ソフィアは少し息をつまらせると、

「いえ……、私は何も知らなくて」

 と伏せ目がちに言う。

 ということはソフィアは一緒に旅行に来ただけの友達だったのだろうか。

 王位継承権を持つ者を一人で送り出す、または護衛を付けると目立つから、それを知らない友人を旅行と称して連れ出したということはあり得るのかもしれない。

 それかタトゥーはただプリマ王国のファンによるペイントで、不運にもそれが原因で巻き込まれてしまったか。

 イヴァンは「そんな話をするもんじゃないよ」と僕達をたしなめ。

「そうだ、ソフィアもこの子達の部屋に入れてもらったらどうだい? 食事もそっちに運ぶよう言っておくよ」

 そう言いつつ、困惑するソフィアに聞こえないよう僕達に耳打ちする。

「友人を突然亡くしてしまったんだからね。思い詰めて海に飛び込む人もいるんだ。だから目を離さないようにしてほしいんだ。頼むよ」

 そう言われてしまっては無碍に断れない。

 空湖はなんでもないように「うん、いいよ」と答える。

「遺体の件で僕も呼ばれるだろうから、もう行くよ」

 とイヴァンは僕達に目配せしてくる。あとを頼むということなんだろう。

 元々この人は乗客であるソフィアの心のケアに来たのだろう。

 食中毒もあって人手が足りない時に遺体の捜索も加わったのだ。だから顔見知りである僕達に手助けを求めるのも分かる。

 イヴァンに続いて部屋を出ると、扉を閉めずに部屋の中を見るようにして待つ。

 ソフィアは戸惑ったような様子を見せたものの、渋々という感じではあるが部屋を出た。

 通路で、一瞬全身を黒い服で覆った女性を見かけるが、すっと居なくなってしまった。



 僕達は母達にも事情を話し、ソフィアを受け入れてもらう。

 健太達にもそれとなくソフィアが早まったことをしないよう注意する必要があることを伝えた。

 やはりというか、ソフィアは少し塞ぎ込んだ様子だったが、健太達の他愛のない話に、少しずつだけど表情が緩んできた。

 昼食が運ばれ、僕達はソフィアと一緒に頂く。

 豪華客船旅行とは思えない、レトルト製品みたいだけど、今の状況なら仕方ない。もしかしたら、調理器具の何処かに菌の発生源があるかもしれないので、衛生上問題の少ない食事を用意する方針なんだろう。

 なのでレストランも閉鎖されている。

 船としてはあくまで「できるだけの対応をしましたよ」というポーズを取っているんだろう。

 食事に少し不満を漏らす健太達に母はそんなことを言った。

 そのまま談笑していたが、ソフィアがデッキで外の空気を吸いたいと言って立ち上がる。

 僕は健太と顔を見合わせて頷き合う。

「じゃあ、オレも行くよ!」

 健太と陽子が一緒に連れて行ってくれとせがむ。

 ソフィアはやや迷惑そうな反応をするも、強く断われないようで結局了承した。

 ドアを閉じる際に健太がこちらに向かって指を立てる。

 一人になりたいだけかもしれないが、確かに一人でデッキに向かわせるのは心配だ。

 僕達だけになると、母は口を開いた。

「でも、遺体なんて盗んでどうするのかしら?」

 ソフィアのいる前ではしにくい話だ。

 考えられることは、目的はプリメラ本人ではなく紋章の方だった。

 紋章に何かの暗号や、認証……たとえば金庫を開けるための鍵のような役割があって、それが必要だったのかも。

 模様の形ではなく、紋章そのものに何か必要な要素がある。

 つまり写真に撮ったのではダメで、遺体そのものが必要だった。

「でも、それだと始めに噴水に置いとく意味がないよね」

 空湖の言葉に、言われてみれば確かにそうだと思い直す。

 それに僕達が医務室に行った時には既になかったが、アリシアは奥に寝かされていたんだ。

 そこに他の犠牲者の遺体はなかったから、霊安室のような所で保管されているのだろうと思う。

 このくらいの規模の豪華客船だとヘリポートもあって、何かあった場合すぐにヘリで病院に搬送することもできる。

 なので初めから霊安室などは設置しない設計をしている船もあるらしい。

 でも天候によってはヘリも飛ばせないし、どう対応するかは所属する国の法律に照らし合わせて船長が判断するのだから、あるに越したことはないのだろう。

 この船がどちらなのかは分からないけれど、ヘリが来たというような様子もなかったし、犠牲者の数からみても何度もヘリを呼ぶとかは考えにくい。

 遺体が必要だったのなら、港に着くまでは保管させておいて、その後盗み出す方が確実ではないか。

 作家である母はそんな話をする。

「なーんか設定甘いのって気になるのよねー」

 設定って……、と僕は苦笑いする。

 確かに霊安室から遺体を盗み出すのも簡単ではないから、盗める時に盗んだ……とも言えるんだけど、それなら初めから遺体を晒さなければいい。

 プールでの犠牲者は事故に見せかけることができたとして、二人目はカジノの珠の中に隠されていたんだ。

 あれは遺体の状態を全く考慮していない隠し方だ。数日後には異臭があったかもしれない。

 ツアーの間乗り切れると考えたか、それまでにプリメラを始末するつもりだったか。

 いずれにせよ二人目が見つかったのは、犯人にとっても予想外の出来事だったはずなんだ。

 だから計画に狂いが生じて、犯人は焦った。

「そして何が起きたか……」

「集団食中毒」

 空湖の言葉に、母が不敵に答える。

 そう。夕食後、突然乗客が苦しみだして寝込んだんだ。

「大勢倒れたけれど、プリメラであるアリシアは無事だった」

 激しい腹痛でのたうち回る人もいれば、不調を訴える程度の症状の人もいたけれど、平気な人も居た。

 船内を歩いている時に何人かすれ違ったし、ソフィアも、僕達も平気だった。

 そしてその翌日アリシアが……、そこまで考えて僕は「あっ」と声を上げる。

「もしかして、食中毒はプリメラを探し出すため!?」

 僕達は皆、アリシアが勧めるお茶を飲んでいたんだ。珍しいお茶で、健康に良いと言っていた。

 それにアリシアは王族。古来より、毒による暗殺を防ぐため、解毒作用のある飲み物を愛飲する習慣があったのだとしたら?

 同じものを飲んでいた僕達が無事だった説明がつく。

 他に平気だった人達も、似たような効果のあるお茶や薬を常飲していたのかもしれない。

 だからそれほど強くない毒を使ったんだ。おそらくはピロリ菌のような。

 胃炎を起こすけれど、お茶に含まれるカテキンで殺菌できる。ピロリ菌自体は珍しい菌ではなく、大人なら数人に一人は保菌者がいるくらいだ。

 慢性的に胃炎に悩まされているお父さんは、一度その手の科を受診してみることをお勧めする。

 そうしてプリメラと思しき人物は乗客全員から数十人に絞り込まれた。

 船側は総出で乗客を管理しようとしたから、その情報を得るのは容易だっただろう。

 もし乗客の中に犯人が居たとしても、この緊急事態。自分は平気だから看病を手伝うと申し出ればスタッフも断らないかもしれない。

 平気だった人達から、男性、老人、子供、子持ちと除外していけば対象は限られてくる。

 もちろんプリメラが床に伏している可能性もあったのだろうけれど、殺人が公になって警察が介入してきたら計画が困難になると焦った結果なんだろう。

 そしてアリシアがプリメラだと気づかれ、犠牲になった。

「でも、その後どうして遺体を盗み出す必要があったわけ?」

 それなんだ。

 それが不可解だから、まだ事件が終わってないような気がして落ち着かないんだ。

 船の中を捜索されれば犯人にとっても都合が悪いはずだし、なにより人一人を抱えて船内を移動するのは、いくら人が少なくなったとは言え簡単ではないはずだ。

 僕達が顔を突き合わせて悩んでいると、ドアをノックする音がする。

 母が返事をしてドアを開けると、お調子者のスタッフ――イヴァンがいた。

「やあ、何か困ってることはないかと思ってね」

 ソフィアのことを気にかけたようで、様子を見に来たらしい。

 健太達が一緒だと話すと安心したように息をついた。

「プリメラの遺体は見つかったの?」

 無遠慮に聞く空湖に苦笑いしながら答える。

「ああ、それなら見つかった、というか解決したよ」

 どういうことですか? と詰め寄る僕達に、多少引いた様子を見せながらも教えてくれる。

「船の防犯カメラにね。遺体らしきものを捨てる犯人の姿が写ってたんだ」

 僕達は驚きの声を上げた。

「犯人が? 分かったの?」

「いや……、それは」

 映っていたのは顔を隠した人間が、布で包んだ大きな物を海に投げ捨てる所だけだ。

 でも形と大きさから人間であることは想像できた。

 男か女かも判断できなかったけれど、人間の遺体のようなものを運んで海に投げ入れるところから屈強な男なのではないか、と予想されている。

 そこまで話したところで「おっと」と口をつぐむ。

「あまり詳しいことは話せないけれど、それは秘密なんじゃなくて確実じゃないからなんだ。でも事件がプリメラを狙ったもので、遺体は海に捨てられた。船はそう見ているし、海上保安庁にも連絡して、もう事件は済んでいるから安心していいよ」

 事件について知らない人もいるから、不用意に人に話して不安にさせてはいけないよ、と言い仕事に戻っていった。

 僕達は無言で互いの顔を見合う。

「設定が……」

 母は眉根を寄せてコメカミに指を当てる。

「何か変なことでもあるの?」

 僕が冷や汗混じりに聞くと、母は同じ顔をしたまま言う。

「こんな真相の話を書いたら、ウチの編集なら一発NGよ」

「それなら、どうしてプリメラを殺害した後、すぐに海に捨てなかったのか」

 空湖の補足に母がうんうんと頷く。

 殺害直後なら時間はまだ夜で、人目も少なければカメラにだって映りにくい。

「でも、これは小説じゃないし。犯人も動転していたのかもしれないし」

 犯人にも自分が何をしているのか分かっていない例はある。突発的に人を殺してしまって、パニックになって自分でもよく分からない行動を取ってしまって、後の捜査を混乱させることはあるんだ。

 でも今回の場合、事前に二人を殺害し――最初のが事故である可能性は消えてないけれど――プリメラを焙り出すため乗客全員に毒を盛るような奴なんだ。

 動転したと言うより、何か理由があると考えるのが妥当なんだろう。

 でも事件としては、遺体が海に捨てられたことで終結とする船の決定も分からなくもない。

 ヘタに犯人を探すより、海上保安庁と現地警察に全て委ね、船は乗客の回復と安全に専念する。

 それは僕達にも言えることで、嗅ぎ回って犯人に目をつけられてもまずい。

 今の所、犯人が乗員なのか乗客なのかも分からない。可能性としては乗客の方が高いようには思うが、本物とすり替わって潜入する可能性だってゼロではない。

 できるのは、アリシアを追って海に飛び込まないように、遺体が棄てられたことはソフィアに知られないよう気をつけるくらいだろう。

 そこだけは一致して、少なくとも僕達からソフィアにその話はしないよう頷きあった。

 そして空湖は立ち上がって出口へ向かう。

 僕は「どこへ……」と声をかけようとしたけれど、「僕も……」と母に目で合図してついて行った。

 ソフィアを探しているなら注意しなくては……と思っていたけれど、空湖が向かったのはデッキではなくマスターのいるカフェ。

 なんだ。いつものルーティンか、と安心して空湖の横に立つ。

 だけど空湖はカフェが見えるところで先に進まなかった。

 なにを……と顔を覗き込もうとすると空湖は指を真っ直ぐに伸ばす。

 カフェを指し、

「コウ君。ここから写真を撮ってくれない?」

 と言う。僕は「ええ?」と動揺しながらも言われたままに携帯で写真を撮った。

 撮ったものを確認するも、別にいつもと変わらぬ風景だ。何も違和感は無い。

 それでどうするのか……と聞く間もなくカフェに向かいそのまま席に座る。

 ワケがわからなかったが、僕も続いて席に座った。

 マスターは当然のようにコーヒーを出してくれる。

 しばらく黙ったままコーヒーを飲んでいたけれど、空湖は唐突に、

「ねぇマスター。マスターのコレクション。貸してくれない?」

 と聞く。

 僕はギョッとして空湖を見るが、無表情のままだ。

 マスターは、グラスを磨きながらうーんと考える様子を見せた……やがて「いいよ」と笑う。

 そして机に銀の丸いアクセサリー、と小さな小袋を並べた。

 袋は形からして音叉だろう。アクセサリーはナイフになっているんだっけ。まさかこっちじゃないよね? と思っていると、空湖はにぱっとした笑いを見せて両方を手に取った。

 両方借りていいの? とマスターを見るが別に気にしてなさそうだ。

 空湖は礼を言うとそのまま席を経つ。

 僕はどうしていいか分からなかったけど、マスターに苦笑いを返して席を立った。

 どこに行くのだろうか……と見ていると空湖はツアーのパンフレットを取り出す。

「何を探しているの?」

「警備室」

 警備室? そんな所で何をするつもりなんだろうと思いつつパンフレットを覗き込むが、娯楽に関係する施設については解説されているものの、警備室の場所は記されてなさそうだ。

 空湖は構わず船内を歩き続け、少し人が多い所に出た。

 空湖はいそいそと歩いていた女性スタッフを呼び止め、落し物を拾ったけれどどうすればいいのかと聞く。

「それなら保安課に届けるといいよ」

 女性スタッフは「この辺」とパンフレットの場所を指す。

 僕達はお礼を言ってそちらへと向かった。

 まさかマスターのナイフを落し物として届ける気じゃないよね? と思いつつ動向を見守る。

 スタッフの拠点とも言える区画に入ると少し人通りが増えてくる。

 乗客はほとんどが寝込んだけれど、スタッフの被害も無かったわけではないようだ。

 交代で食事を摂っているためか乗客ほどではないものの被害はあるらしい。途中具合の悪そうなスタッフともすれ違う。

 乗客と違って動けるくらいの軽症なら寝込んでいる場合ではないのだろう。

 乗客の大半と一部のスタッフが床に伏しているのだから、スタッフの労力は相当なものなのだと思う。

 本当にお疲れ様、とすれ違うスタッフ達に頭を下げた。

 僕も少し調べてみた――というか母に聞いたのだけれど、船舶のスタッフは大きく、国家資格を持つオフィサーとそれ以外のクルーに分けられる。

 物凄く大雑把に考えるなら正社員とアルバイトだと思えばいいと母は説明していた。

 船の運用は互いに鉄壁の信頼があることが重要だと言う。

 誰か一人のミスで船が沈んでは乗員全員の命が危ない。だからスタッフは身元や素性のしっかりした者しか選ばれないんだ。

 でも今の船は中にホテルがありレストランがあり、カジノがあり劇場まである。

 スポーツクラブや教会もあって結婚式まで挙げられるんだ。

 それらに関わる人全員に国家資格を要求するわけにもいかないので、段階分けがされている。

 調理師や看護師だけでも結構な数乗船するんだけど、今回は試験航海だからクルーの数は本来より少ないんだろう。

 その中でも接客や乗客のケアを主業務とする人達とよく接しているわけで、こうしてみると船には大勢のスタッフが乗っていたんだなと思い知らされる。

 また人の数が減ってきた所で空湖は扉の窓をジャンプして覗き込む。

 保安課とやらを探しているのかな? 時には扉に耳を付けて様子を窺っている。

 ひとしきり周囲を探った空湖は「ここが怪しい」と扉を指した。

 ここが、落とし物を届ける部屋? でも扉には窓も無いし錠がかかっているようだ。そんな部屋だとは思えないけれど……、と見ているとマスターに借りたナイフを取り出す。

 なにを……、と硬直していると空湖は音叉も取り出し、マスターがやったようにナイフの刃を軽く打ち付けた。

 キィンと心地よい高音が頭の中を芯まで貫く。

 一瞬意識が遠くなるような錯覚を感じながら見ていると、空湖はナイフを扉の隙間に差し込んだ。

 特に抵抗があった様子もなく、僕にはただ扉と壁の間にある空間に沿って動かしただけのように見えたが、空湖は扉をすっと開く。

「そ、空ちゃん!?」

 ようやく何をしたのかを理解し、思わず声を上げてしまったが、空湖はにひっとした笑いを見せて部屋に入る。

 僕は慌てて周囲を見回し、誰も居ないのを確認すると続いて部屋に入った。

 中には誰もいない。

 棚や機器が置いてある粗雑な部屋だ。

 確実に言えることは落し物を届けるための部屋ではない。

「警備室かな?」

 書類棚とパソコンにモニター。確かにそれっぽい。

 空湖は電源の入ったままのパソコンに向かう。

 キーボードのボタンを押すと、スリープモードから目覚めたパソコンのハードディスクが唸りを上げた。

 パスワードの入力を要求された空湖が僕の顔を見る。

「いや、勝手に触っちゃ……」

 とも思うがもう既にドアを壊してしまっている。

 ここでゴタゴタやるより、さっさと空湖の気を済ませて逃げた方がいいような気がした。

 僕は画面に表示されているIDと同じ単語をパスワード欄に入力。

 すると画面が一瞬暗転し、デスクトップの画面に切り替わった。

 この手の端末によくあるやつだ。

 パスワード管理をすると、職員が忘れたり伝わってなかったりとトラブルがあるのでIDと同じものを設定する。

 セキュリティに問題ありとも言えるが、それで言えば部屋には鍵が掛かっていたのだから問題はないのだろう。

 画面が映ると僕はこれが何のための端末なのかを理解した。

 空湖が不敵な笑みを見せているところをみるとこれが目的だったのだろう。

 デスクトップ内のウィンドウに映っているのは監視カメラの映像。

 おそらく直前に調べた後そのままスリープ状態に入ったようで、船の側面……海に面する所に人影がある場面で止まっていた。

 プリメラの遺体が海に投げ捨てられたと思われる場面だろう。

 僕はマウスを動かしてスライドバーを操作し、少し前の辺りから映像を再生させた。

 映像はコマ撮りのようにカクカクしたものだったけれど、確かに何者かが海に大きな物を投げ捨てている。

 少し距離があって本来は小さいものを拡大して表示しているようだ。なので画像が荒くてどんな人物なのかは分からない。

 船の扉から、棺から出したミイラのような物を抱えて出てきたと思ったら、すぐに持ち上げて外に放り投げていた。

 確かに凄い力だ。アリシアさんは女性だけれど、そこまで小柄と言うほどでもなかったのに。

 遺体は包帯と言うか、シーツのような布でガチガチに固めてあるようだった。

 映っている人物も大柄ではないから、アスリートのように細身で筋肉質の男なんだろうか?

 などと思っていると、部屋の外でガタンと大きな音がする。

 ギクリとして空湖と顔を見合わせ、そっと扉に近づく。

 今ドアが空いたらどう言い訳しよう……と考えながら扉を開くと誰もいない。通り過ぎただけだったのか。

 僕は空湖を促すとさっさと部屋を出て扉を閉める。

 通路を進んで部屋からある程度離れるとほーっと息をついた。

 まったく心臓に悪い。

 今回ばかりはちょっと文句を言ってやろうとも思ったが、マスターに借りていたものを返し、客室に戻るとソフィアもいたので結局言えずじまいだった。

 結局空湖は犯人を見たかったのだろうけれど、監視カメラの映像からは人物を特定できなかった。

 画像が粗かった上に犯人も上着にフードのようなものを被っているようで、鮮明だったとしても分からなかっただろう。

 鍵まで壊して収穫無しだったのかなぁ、と思っていると夕食が運ばれてきた。

 ワゴンに載せられたトレイを受け取って部屋に運び入れる。

 夕食はリゾットだ。

 運んできてくれたのは余興にもいた――何度か顔を合わせている調理師さんだ。皆の体調不良は衛生面の不備ではなかったので、明日からは普通の食事に戻ることを教えてくれる。

 でも食堂は臨時の病室にしてしまったので、毒入りワインの推理イベントで使った娯楽室をビュッフェ会場にすると言う。

 動ける人の人数は限られているから、あの部屋でも足りるのだろう。

 今夜のうちから用意しておくけどつまみ食いしちゃダメだぞ、と僕達に笑いかける。

 確かに空湖は心配だな。

 そんなことを思いながら夕食を済ませ。

 他愛のない話をしていたが、やはりというかソフィアはずっと沈んだ様子だった。

 少し落ち着かないようにも思う。

 友達になったとは言え、よく知らない人達に囲まれているのだから無理もないと思う。

 本当は独りになって泣きたいのではないだろうか、と思うとあまり引き止めておくものでもないのかなと思う。

 でも一人で送り出すのも心配ではあるんだ。

 そうこうしているとソフィアも自分の部屋に戻ると言う。

 それもそうだろうと僕達は座談会をお開きにして解散することにした。

 僕と空湖はソフィアを部屋まで送ると言ってついて行く。

 心なしか重い足取りのソフィアの後をついていくように歩く僕達だったけれど、なんて声をかけていいのかも分からず、ただ気まずい雰囲気のまま時間が過ぎていった。

 空湖は横道にそれるように通路の一角の空間に入り込む。

 どうしたんだろう……と思い覗き込むと、自動販売機のあるスペースのようだった。

 何か飲みたいのかな? と思って覗き込むけれど、自動販売機は停止中のようだった。

 故障中なのか、それとも食中毒騒ぎがあったから、原因が特定されるまで休止していたのか、ボタンにはキレイに赤い文字が並んでいる。

 空湖は諦めたのか通路に戻った。

 遅い時間なので通路に誰も居ない……と思ったのだけれど、角を曲がった時に人影が見えた気がした。

 丁度僕が顔を出すと同時に引っ込んだようだけど、一瞬見えた人影は何度か見かけた黒い服の女性だったような気がする。

 遠くで、照明が少し落とされているからそう見えただけなのかもしれないけれど。

 そうしてソフィアの部屋に近づいたあたりにイヴァンがいた。

「やあ、君達。明日のビュッフェについては聞いたかい?」

 と言うので先ほど調理師さんに聞いたことを話す。

 今まで質素だった分、調理師達が腕によりをかけているよと笑う。

「でも、もう準備を始めてて大丈夫なの?」

 空湖の問いに、言われてみればそうだと思う。

 元々食中毒が原因でこういうことになったのだ。

 早朝に出す料理とは言え、早くから準備するのは衛生上問題なのではないのだろうか。

 もちろん問題は無いんだろうけれど、イメージとしてそういう選択をするのは「そんなことだから毒が混入したりするんだ」と後のクレームに繋がるのかもしれない。

「いや全くその通りなんだけどね。スタッフもそろそろ限界に来てるんだよ。だから用意できるものはしてしまって、一部の者を残して後の者には休んでもらうことにしたんだ」

 航海は今日で終わりではない。もう数日続くのだから、スタッフも休憩を取らせないと事故につながるミスをしてしまうかもしれない。

 しかもただの食中毒事故じゃなく、殺人事件の中に起きたのだ。スタッフの神経が限界に来ていても不思議ではない。

 メインの調理師達も、食材の再チェックや手順の見直し、病人食の用意などでここのところ不眠不休だったと言う。

「僕達は、言ってみれば下っ端だし。なんだかんだ言っても若いからねぇ」

 と言って力こぶを作って見せる。

 でも明日は休ませてもらうことになるよ、と笑う。

 朝食も時間が経っても問題のないものを用意するし、スープなどはさすがに直前に温め直すから大丈夫。

 君達はつまみ食いしちゃダメだぞ、と調理師と同じことを言う。

 イヴァンはまだ明日のことを知らせるのと、乗客に不調はないかの確認をして回らなくてはならないと言う。

 ソフィアの部屋にもあとで様子を見に寄らせてもらうよ、とウインクする。

 僕達は苦笑いしながらイヴァンを見送ったが、ソフィアの表情は少しだけ緩んだように思った。

 イヴァンはああやって乗客を安心させるためにお調子者を演じているのかな、と思う。ソフィアのことも後で様子を見ると言っていたし、大丈夫だろうと消沈した少女の背中を見送った。

「ソフィアさんも、少し落ち着いたみたいで良かったよ」

 と僕も脱力して息を漏らす。

 なんだかんだでソフィアと一緒の時はこちらも気を抜けなかった。

 なにか言えば傷つけてしまうのではないか。そんな思いがどこかにあったからだ。

「そうね。落ち着いたみたい」

 空湖も同じ感想なのかな。

「落ち着いたところで、わたし達は一足先に行きましょうか」

「行きましょうって、僕らの客室に? 今向かっているのがそうじゃないの?」

 空湖はにぃっとした笑いを向ける。

「娯楽室」

「娯楽室……って、まさか」

 本当につまみ食いに行くの!?

「大丈夫。お母さん達にはソフィアさんの部屋でしばらくダベってくるかもって言ってあるから」

 いや、そういう問題じゃ……。

 それに、最初からそのつもりだったって言うこと?

 混乱する僕を他所に、空湖はずんずんと歩いて行った。





 船も消灯時間になると通路などの照明は落とされる。

 バーやシアター、ナイトプールなど夜通し稼働しているエリアもあるので区画によっては明るいが、客室周りは試験航海のためか緊急事態のためか、カジノを含むレジャーエリアも薄暗くなっていた。

 娯楽室も同様で、扉が閉まっていると完全に真っ暗になる。

 翌日のビュッフェのため、ワゴンを引いたスタッフが行き来していたが、準備が終わると完全に静寂が訪れた。

 闇世の中、その静寂が船全体を満たしてしまったのではないかと錯覚してしまうくらいの時間が過ぎた頃、娯楽室の扉がゆっくりと開く。

 薄っすらと差し込む光は弱いものだったが、完全な闇に染まった空間には、室内に入ってくる者のシルエットを切り取ったかのように浮かび上がらせていた。

 音を抑えるようにゆっくりと扉が閉められると、室内は再び漆黒の闇になる。

 静寂の中に、僅かに人の息遣いが混ざる。

 その気配がゆっくりと移動を始めると、突然室内に明かりが灯った。

 僕が照明のスイッチを入れたためだ。

 明かりは入ってきた人物の姿を照らし出し、その正面に位置するテーブルに腰掛けた空湖は、サンドイッチを頬張りながら言い放つ。

「いらっしゃい。



 現れた人物は何が起きたのか理解が追いつかないように周囲を見回す。

 僕も何度か船内で見かけた、全身黒ずくめの女性。

「推理アニメの犯人って全身黒ずくめだけど。こういう意味だったのね」

「いや、それは違うと思うよ」

 僕は壁際から、ホームズ風の帽子を頭に乗せた空湖の方へと移動する。

 黒い女性はハッと背後を振り返り、今しがた入ってきた扉を確認する。

「サイレントアラートを押してある。今外に出てもここに向かってるスタッフと鉢合わせするだけよ」

 空湖が無感情に言うと、黒い女性は足を止め、観念したように胸の前で拳を握りしめる。

「でも、空ちゃん。この人が、アリシアさんを殺した犯人だって言うの?」

 僕は恐る恐る聞く。見た目の様子からは想像できない。

「ある意味ね」

 サンドイッチを口に入れながら言うけれど、ある意味って?

 僕達はソフィアを送った後、空湖に言われるままこの娯楽室に潜んだ。

 まだ準備の途中で、その後も何度かスタッフがワゴンで料理を運んできたりしたけれど、そのあともずっと隠れていたんだ。

 始めはつまみ食い目的だと思ったけれど――いやつまみ食いはしてるんだけど、ここにいれば犯人が来るという空湖の言葉に、結局付き合うことにした。

 そうしたら本当にこの女性がやってきた。

 正直僕もまだ何が何だか分からない状態だ。

 そうこうしているうちに、ドタドタという足音の後で扉が開いた。

 入ってきたのはイヴァンと医師を含めた数人のスタッフ……とソフィア。

 イヴァンが様子を見に行くと言っていたから、一緒にいる所を呼び出されたイヴァンの後を何事かと付いてきたのだろう。

 奇しくも初めにこのツアーの余興、毒入りワイン事件の推理イベントとほぼ同じメンバーが集まった。

 その時の見物客、空湖にワインを飲んでいなかったと指摘されたスタッフと犠牲になったセレブマダム、僕の母はいないけれど。

「一体どうした!? 急病人ではないのか?」

 推理イベントで進行役だった医師が困惑した声を上げる。

「これから犠牲になるかもしれない人がいるから、予め呼んでおいたの」

 空湖はしれっと答える。

「もしかして空ちゃん。いたずらで押したのかい? 悪い子だな」

 推理イベントで死体の役だったイヴァンが呆れたように言う。

「いや……、あの。空ちゃんが、犯人が分かったっていうものだから」

 僕はしどろもどろになりながらも言い、「そうだよね?」と空湖の顔を見るが、無表情のままだ。

 そうだと言ってくれないと、僕の立場が……と冷や汗を流していると、

「犯人って、乗客を何人も殺した犯人ってこと? もしかして、この人!?」

 推理イベントでグラスを選ぶ役だった看護師が、この空間の中で露骨に怪しい装いの女性を指して言う。

 皆が黒い女性に注目するが、医師は冷静に言う。

「もしそうなら拘束する必要があるが、何か証拠はあるのかね? 服装が怪しいと言うだけで犯人だと思ったというわけではないだろうね?」

 確かにそうだ。

 密航者ならともかく、この人も乗客には違いないんだ。

 間違っていたら名誉毀損で訴えられてしまう。

 しかし黒い女性も、何を言うでもなく押し黙っている。

 いきなりあらぬ疑いをかけられたら怒るとかありそうなものだけれど、動揺のあまり動けなくなってしまう人もいるだろう。

 せわしなさそうに周りをキョロキョロと見渡すのは逃げる隙を窺っているようにも見える。

 でも唯一の出口である扉の前には後からやってきたスタッフ達がいるのだ。

 だけどスタッフ達も呼びつけられた理由に納得がいかないようで、若干イライラした様子を見せる。

 そんな様子もお構いなしのようで、空湖は次のサンドイッチを手に取って差し出した。

「まずは食べたら? お腹空いてるでしょ。大丈夫、毒は入ってなかったよ」

 自分に向けられているのか? と黒い女性は少し動揺した素振りを見せたが、やがて意を決したようにゆっくりと進み、帽子を剥ぎ取った。

 栗色の髪が解けて流れ、続いてサングラスとマスクを外す。

「あなたは……」

 室内に悲鳴にも似た声が上がった。

「アリシアさん!?」

 プリマ王国の次期王女、正確にはその候補。

 そして夕べ殺害されて海に捨てられたはずの、アリシアだ。

「馬鹿な! 私は確かに死亡確認したはずだ」

 医師が動揺するも、アリシアは空湖に歩み寄ってサンドイッチを受け取ると口に入れた。

「それは多分。プリマ王国の、一時的に仮死状態にする薬か何かだったんじゃないかしら。ね? ソフィアさん」

 皆の視線が、今度はソフィアに注がれる。

 ソフィアは俯いていたが、空湖の指摘にギクリと肩を震わせた。

「ソフィアさんも知っていたっていうこと?」

 ソフィアは無言だったが、その様子が肯定していた。

 驚きの連続だったので少しパニクってしまったけれど、僕は頭の中を整理して、自分の中にある疑問を捻り出す。

「でも、おかしいよ。黒い人が乗客でなかったのなら、スタッフも気がつくんじゃないの? それに、僕の記憶が正しければ……、黒い人はアリシアさんがいなくなる前からいたように思うんだけど……」

 僕の疑問にスタッフからも同意の空気が流れる。

「そうだ。日本に寄港した時から見かけていて……、なんというか、目立つからよく覚えていたんだ」

 イヴァンの言葉に皆うんうんと頷く。

「その人は本当に居ます。私は似たような黒い服を着ただけです」

 そうか。初めから見かけていた黒い人は別人で、アリシアはその格好を真似ただけだったんだ。

 そうすれば人に見られても、元からいた人だと思われるだけだ。

 本物の黒い人は元々それほど外をうろつかなかったから、二人同時に見ることもなかった。

「でも、どうしてそんなことを?」

 僕の疑問に皆同感だと言わんばかりに答えを待つ。

 アリシアは並べてあった水入りペットボトルのキャップを開け、その中身を喉に流し込むとふうと息をついた。

 そして虚空に向かって語りかけるように話し出す。



 その内容は、僕と母、空湖が推理したことと途中まで同じだった。

 二人の犠牲者はプリメラを狙ったもので、彼女達はその身代わりとなって殺されたであろうこと。

 二人目の遺体が見つかったことで焦った犯人が、乗客に毒を盛ったであろうこと。

 そしてソフィアとアリシアは無事だった者達に含まれる。

 プリメラを焙り出すための計略だったのなら、自分達に辿り着くのも時間の問題。

 ここまでは僕達の推理と同じで、アリシア達も同じ結論に達して、そして恐怖した。

 だから先手を打った。

 プリメラを狙っている組織が一組とは限らない。

 だからプリメラが殺害されてしまえば、犯人も別の組織の仕業だと思って諦めるだろう――というより任務完了だ。

 だから一芝居打つことにした。

 解毒作用のあるお茶も常飲しているが、こういう時のための用意もある。

 一時的に体温と血圧を下げ、仮死状態にする薬。詳しく調べれば分かるのだろうけれど、この状況での診断ならば十分誤魔化せるものだと言う。

 それを打ち、疑われにくくするために、一目見て生きていなさそう見える噴水の中に遺棄した。

 その後、遺体にすがるフリをしてソフィアが蘇生させる。

 あまり長時間仮死状態にしておくと危険なので、もし医師達がアリシアから離れなければ何とかして注意をそらすつもりだったが、幸いにも食中毒騒ぎでその隙はあった。

 遺体がなくなれば騒ぎになるが、監視カメラがあるというのを聞いていたので、夜のうちにブティックから盗み出しておいたマネキンを海に投げ捨てた。

 黒い服装もブティックから拝借したと言う。

 アリシアはそこまでを話した。

「でも、マネキンは……」

 僕は写真を撮ったのを思い出して確認する。

 空湖に言われて、撮っておいたんだ。カフェの風景、そこにブティックもある。

 僕も推理物が好きだから観察力には自信があるんだ。

 これは海に遺体が投げ捨てられたと言われた後の画像。

 マネキンは二体。

 僕の記憶が正しければ、マネキンは初めから二体あったはずだ。

 そう思って写真を凝視していると、「ん?」とあることに気がつく。

 じっくりと写真とにらめっこをすると、空湖に顔を向ける。

「クリスティーだ……」

 マネキンの一体はカフェの店員、パントマイムの達人だった。

 じゃあ、あの時カフェでコーヒーを飲んでいる時も、ずっと動かずにじっとしていたんだ。と改めて凄いと思うも……。

「じゃあ、マスター達も協力していたってこと!?」

 アリシアに問いかけるも、少し戸惑ったような様子を見せる。

「あ……、いえ。それは偶然かと。マネキンが一つ無くなっても誰も気にしないと思っていたので……」

 そうだったのか。

 それがなければ僕だって気がついたかもしれないんだ。

 でも、空湖はあの時、あそこにいるのがクリスティーで、マネキンが一つ無くなっているのに気がついたんだ。

 だから保安室に行って、監視カメラの映像を確認したのか。

 空湖を見ると、僕の視線に気がついてにぱっと笑う。

 言われてみれば確かにそうだ。捨てられた遺体は布でガチガチに固められていたように見えたけれど、死後硬直を考えても不自然だ。

 エジプトのミイラのようだと思ったのは、あのくらい布を巻かないとポーズが不自然だったからだろう。

 軽々と投げ入れられたのは、人物が屈強だったからではなく、遺体がマネキンだったからだ。

 色々と繋がったけれど、釈然としない。何か展開がおかしい気がする。

「私からも聞いていいですか?」

 アリシアが低い声で言う。

「なぜこんなことを?」

 返答を待たず、そのまま質問するアリシアに、それまで動揺していただけだったソフィアが声を上げる。

「そ、そうよ! どうしてバラしたの!? せっかく犯人の目を誤魔化したのに。生きてるって分かったら、また命を狙われるじゃない!」

 そうだ。

 それが引っかかってたんだ。

 アリシア殺害事件は本人の策略だったとして、初めの二件の犯人は違う。またプリメラの命が狙われるだけで振り出しに戻った。

 プリメラの命を守るなら、このまま航海が終わるまで何もせずやり過ごせばよかったんだ。

「名探偵のさがってやつかい? 目の前に謎があると解かずにはいられないっていう。確かに空ちゃんは推理のセンスあると思うよ。でも、やっぱり子供だなぁ」

 イヴァンがやれやれとかぶりを振る。

「よし、プリメラは僕が絶対に守ってみせる。犯人には指一本触れさせないよ!」

 強い意志を込めた目で言う。

 確かに今となっては船を上げてプリメラを守るしかなくなるんだろう。

 でも、どうなんだろう。

 そんなことができるなら、初めから日本政府を経て、護衛を付けて移送してもらえばいいんだもの。

 それができないから、こうやってこっそりと自分達だけで来たんじゃないのかな。

 誰も信用できないから。どこに敵がいるか分からないから。

 アリシア達が僕らに近づいてきたのも、こんな子供連れが刺客なはずはないという思いがあったからだろう。

 でも、それが空湖によって壊されてしまったのなら、確かに大人の手に委ねるのが正解なんだろう。

「空ちゃん……」

 たしなめようと声をかけると、空湖はくるっと顔を向ける。

「コウ君。コウ君はどうしてここにいるの?」

「え?」

 どうしてって。

 空湖がここに来たからついてきたんじゃないか、という顔をしていると。

「じゃあ、どうしてわたしはここにいるの?」

 そんな「私は誰?」みたいに聞かれても……と思った所で、そう言えばなんで空湖はここに来たんだろう? と考える。

 思えばそれ自体が不可解だ。

 結果から考えればアリシアが――黒い服の女性に扮したプリメラがここに来たからだ。

 いや、来ると分かっていたからだ。

「空ちゃんは……、どうしてアリシアさんがここに来るって分かったの?」

 空湖はサンドイッチを口に入れながらアリシアを見る。

 アリシアは少し考えるように目を泳がすと、挙動が不審になっていく。

「わたしにも分かった。……ということは犯人にも分かっていたはず」

 国を獲ろうという組織から派遣されたプロの刺客なら、遺体を晒し、その後盗難、あっさり遺棄されたという情報を得る……などというお粗末な結果に不信感を抱かないはずはない。

 だからプリメラは生きていて、船の中に潜んでいる。そこまでは考えることができた。

 しかしどこにいるのかは分からない。

 誰かに匿われている可能性もあるけれど、元々単独で乗船している上に、誰が犯人かも分からない船の中で他人を頼る可能性は低い。

 アリシアも、犯人に不審がられることを恐れてソフィアに近づけなかった。

 だから、アリシアは本物の黒い女性に出くわさないよう注意を払いながら、船内を隠れながら移動していたんだ。

 食事も獲らずに……。

「じゃあ、アリシアさんは、お腹が空いて……、ここに?」

 アリシアの顔が心なし青くなる。

「わたし達に予想できたのなら、犯人にもできたはず。そして予想通り人気のない時間に一人で忍び込んだアリシアさんを……」

「襲うつもりだったんだ」

 空湖はそれを阻止するために?

 ということは、つまりそれって。

「犯人は、近くに潜んで、アリシアさんが来るのを待ってたってことだよね?」

 僕達はまだ用意がされる前、正確には途中で忍び込んで潜んでいた。

 だから犯人も僕達がいたことは知らないだろう。

「そう。そしてここにはサイレントアラートでスタッフ達が呼び集められた。それに気がついても、その流れに逆らって移動すると目立つ」

 そうか。それなら犯人は、自分も呼ばれたように流れに合流するほうが自然なんだ。

「犯人が、この中にいるっていうの!?」

「その可能性は極めて高い」

 室内の面々は自分の周りにいる者達を見回す。

 ここから離れる人を目撃した、と言う人はいないようだ。

「ソフィアさんはどうしてここに?」

 空湖の問にソフィアはビクンと体を震わせる。

「わ、わたしは……、彼が突然出ていったから、何かあったのかと思って」

 イヴァンを指すと、普段お調子者の男は動揺しながらも答える。

「そ、そうだ。僕は彼女の様子を見に行ってたからね。心のケアをしなくてはならなかったから」

 ソフィアはアリシアが生きていることを知っていたんだ。

 突然イヴァンが慌てたように出て行ったから、もしかしたらアリシアの身に何かあったのかと思っても不思議はない。

 そしてイヴァンも過去二回のサイレントアラートでも駆けつけていた。

 この区域の遊撃スタッフ――つまり色々な雑用をこなす仕事だから、ここにくるのはおかしいことではない。

 医師と看護師も当然呼ばれて来るだろう。

 他には……、と空湖は残った一人に視線を向ける。

「あなたはどうしてここに?」

 推理イベントでソムリエ役をやっていた……調理師。

 ここに入って来た時から、何も言わず、じっと気配を隠すようにしていた男に皆の注目が集まる。

 余興の時のメンバーだったから、パッと見て違和感がなかったけれど、よくよく考えれば、どうして調理師である彼がいるんだ?

「どうしてって……、僕はここの準備をしていたから……。誰かつまみ食いをしないかちょっと様子を見に来た所に、皆が集まってきたから何かあったと思ってついてきただけだよ」

 そう言われてしまえばそれまでなんだろうけれど。

「そうね。調理担当者なら周辺をうろついていても言い訳が立つ。でもそれらが元々仕組まれていたのだとしたら? アリシアさんがここにくることを予想したのではなく、ここにくるよう仕向けていたのだとしたら?」

 そうだ。自動販売機も全部利用停止状態だったんだ。

「食事を配給制にしたり、ビュッフェスタイルにしたり、それを前の夜から用意したり?」

「いくら原因が分かったからと言っても、食中毒が起きたばかりの船に一晩料理を放置しておくなんてあまりに不自然よね。でもクルーも疲弊していたし、周りの人を説き伏せるのにもそれほど苦労はしなかったはず」

 僕の疑問に空湖が補足するが、それを聞いた医師が思い出したように言う。

「そうだ。食事を配給制にしたらどうかというのも、自動販売機に問題があるかもしれないというのも、料理長から申し出があったんだ。彼の判断だとその時は疑いはしなかったが……」

 他にもビュッフェスタイルを提案したり、今夜のうちに仕込みを済ませようとしたり。それらの提案の発信源があったのだとしたら……。

「料理長にちょっと確認してみる」

 医師は携帯端末を取り出す。

 乗組員の大半はアメリカで乗船した者達だ。オフィサーはもちろんクルーもほとんどがそうだ。

 だが必要な人員を全て確保することはできなかったので、日本で現地調達した人員もいる。

 船会社経由で信頼のおける人物を紹介してもらっているはずだが、そこは所詮仲介業者。

 反プリマ政権の連中が、プリメラがこの船に乗ろうとしていることを聞きつけて金を積むこともできるだろう。

「日本で追加補充された人員は十数人程度で、しかも日本人だけだったはずだ」

 と医師は操作の手を止めずに言う。

 この調理師は東洋人の顔立ちはしているが、料理長に確認すれば名前もわかる。医師達も、よく顔を見かけるが名前までは知らない。

 名前と一緒に、この調理師がこの食事スタイルの提案に関わったかどうかを確認すれば、確証とはいかなくても拘束する理由にはなる。

 医師はそんなことを捲し立てながら携帯端末を操作しようとするが、お歳のせいか慣れていないようで指の動きが辿々しい。

 調理師は歯を食いしばると、じりじりと後退り、その様子を感じ取った皆が逃げ道を塞ぐように移動する。

 調理師はくっと顔をしかめると自身の携帯端末を取り出して操作を始めた。

 すかさずイヴァンが走りより、腕をねじりあげて床に引き倒す。

 ひとしきり苦痛の声を上げてもがいた調理師は、やがて観念したように声を張り上げた。

「そうだ。オレが殺した! オレがプリメラを狙った犯人さ!」

「他の二人も、お前が殺したのか?」

 イヴァンが押さえつけながら聞くと、調理師は嘲るように笑う。

「そうさ。プリメラだと思って近づいたら違ってた。だから殺したんだ」

 そんな理由で?

「と、とにかく。その男が犯人だと決まったのなら、私は船長に報告する。君達はその男が逃げ出さないよう見張っていてくれ」

 医師は声を上げると扉を開けて走り去っていった。

 その足音が遠くなっていくと、イヴァンは調理師を後ろから羽交い締めにするようにして立たせる。

「どうしてプリメラを! アリシアを狙った!?」

「そんなもん。雇われたからに決まってるだろ。理由なんか知るか」

「雇い主は誰だ?」

「知るか。オレは金さえ貰えりゃそれでいいんだ。ま、知ってても教えないけどよ」

 尚も質問を続けようとしたイヴァンを遮るように黄色い声が室内に響く。

「どうして?」

 その幼くも、重い響きを含んだ声音に、皆動きを止めて空湖に注目した。

「どうして、他の被害者は殺されたの?」

 そうだ。

 プリメラじゃなかったから殺したなんて、そんな短絡的な。

 こう言っては何だけど、計画に支障が出るだけじゃないか。最初の事件は、事故に見せかけることはできたけれど、それでも船内は騒然となるんだ。

 プリメラに警戒される可能性だってある。

 皆一様に沈黙していたが、調理師はふんと鼻を鳴らすと吐き捨てるように言う。

「ああ。最初は殺すつもりなんかなかったよ。刺青を確認しなきゃならなかったけど、それをするにはベッドに誘い込むのが一番簡単だったんだ」

 まずはプリメラを特定しなくてはならなかった。

 もっと言ってしまえば、本当にこの船に乗っているという保証もない。

 反プリマ政権はプリメラが日本で暮らしていたことは突き止めていたが、名前や顔、正確な年齢までは分からなかった。

 船や飛行機での出国は細かく調査していて、組織力の大半はそちらに裂いている。

 そんな中でこの豪華客船の試験航海があった。一般には公開されない、関係者のみの航海のため可能性は薄いとされていたので送られたのは自分だけだったと言う。

 ただ雇われている以上、やるべきことはやらないといけなかったので、セレブのお忍びを自称する女に近づいたのだが……。

「あの女、思わせぶりな態度ばかり取りやがって」

 服の間からタトゥーをチラつかせ、それ以上知りたかったら部屋へ来いと。

 調理師も役得とばかりに頂く事にしたが、なんというか……いざ脱がせてみるとコルセットのような衣服で絞り上げていただけだった。

「しかもあの女。腹のタトゥーを自分で描いてたんだ。執拗に形を聞いてくるからよ。ワザと一つだけ違うシンボルを答えたのに、それと同じ絵を入れてきてた」

 そう言えば、あの人はそこそこ名の知れたデザイナーだと言っていたな。

 それで自分の体にボディペイントを?

「偽者なら用はない。適当に済ませてさっさと切り上げようとしたら騒ぎ出しやがった」

 ちゃんとやらないと「従業員に襲われたと船長に訴える」と。

 それでカッとなってやってしまった。

 冷静に考えれば以降の計画を遂行するためなら、心を殺して冷徹無比に行為を済ますのが得策なんだろう。

 しかし彼はそこまで熟達した殺し屋というわけではなかったようだ。

 その後、プリメラを狙っていると気取られてはまずい……とタトゥーを消そうとしたが濡れタオルで擦っても消えない。

 服を着せたり、遺体を隠したりするのも困難だと思った彼は、遺体をプールに捨てた。

 しばらく水につけておけばうまくすればタトゥーも消えるかもしれないと考えたようだが、それは叶わなかった。

 だが事故だと思われることには成功し、一旦は安心したが、仲間からの連絡で、いよいよこの船にプリメラが乗っている可能性が濃くなった。

 消去法によるものだが、それで悠長にもしていられなくなった。

 遺体のタトゥーも消えておらず、船内でもプリメラの話が出始めて焦りはしたが、返ってプリメラではないかと噂される乗客も出てきた。

 これ幸いにと近づき、ベッドで確認するもまたハズレ。

 だがこっちはかなりの上物で、ハズレではあったが十分に堪能させてもらった。

「そして今度は、あの女本気になりやがった」

 他の女に近づくのは許さないとか、殺しの任務もそうだが普通に業務にも差し障ることだ。

 口論の末にまた殺害。

 さすがに今度は死体を出すわけにはいかず、完全に隠す必要があった。そこで前日空湖がカジノの球を全部放出していたのを思い出して、その中に隠すことを思いついた。

 あんな奇跡は二度起きないだろうと踏んでいたが甘かった。

「あれはラッキーなんかじゃない。きっとアルゴリズムの不具合だ。本公開までに見直しておくことをオススメするよ」

 やはり見つかったのは誤算だったようだ。

 どうやってあんな所に隠したのかについては大体予想の通りだった。

 ただ遺体から体液が漏れ出さないよう下腹部を布で覆ったり、トイレに使う消臭ボールを球の中に混ぜていたりと、思ったより綿密に隠していたようだ。

 その後も予想通りだ。

 それで焦った調理師はピロリ菌をベースにした毒物を食事に混ぜた。一応暗殺者。強毒から弱毒までの取り揃えはあるらしい。

 そうしてプリメラを焙り出そうとしたが、翌日アリシアが発見される。

 当人の思惑通り他組織の可能性も考えたが、対抗組織の影があるかどうかは経験で分かる。

 長年の勘でプリメラの死に疑念をもっていたが、死体が消えたことで確信に変わる。

 プリメラは生きて何処かに潜んでいる。

 ならばと食料を手に入りにくくして、被害者の同行者にもケアが必要だと吹聴し、ソフィアの行動も制限した。

 過去の事故で悲観した友達が海に飛び込んだ話をでっち上げたら簡単だったと笑う。

 それでイヴァンも、僕達もソフィアからなるだけ目を離さないようにしていたんだ。それも全て犯人の計算だったなんて……。

「素人が隠れる場所なんて簡単に予想できるんだが、それでも見つからなかった。まさか黒服の女に化けていたとはな。盲点だったよ」

 それでも兵糧攻めは、隠れていようが化けていようが効果は同じ。

 はっきり言ってそこまで考えていなかったアリシア達は困ったが、そこへビュッフェスタイルの朝食の話。

 動くのは危険だと分かっていたが、やはり空腹には堪えられずここに来てしまった。

「だが。それも失敗したな」

 イヴァンが羽交い締めにしたまま「様を見ろ」と言わんばかりに言う。

 だが調理師は俯き、声を漏らしながら体を震わせている。

 悔しがっているのか? 泣いているのか? と思われたが、調理師は顔を上げると高らかに笑い出す。

 皆呆気にとられていると、調理師は不敵に言い放った。

「なんでこんなことを長々と語っていたと思う? なんでわざわざ自白したと思う? なんで見苦しく最後まで罪を逃れようと足掻かなかったと思う?」

「そりゃ、どういうことだ?」

 イヴァンの問いに、調理師はふんと笑う。

「もう仲間には知らせてある。プリメラの正体を。言っただろう、仲間はもうプリメラの足取りをこの船に絞っているって」

 知らせてるって、いつの間に? ……って。

「あっ! さっきの携帯」

 イヴァンが咄嗟に抑えたとは言え、既に連絡は完了していたんだ。

 その時、「ゴン!」という響くような音が船内にコダマする。

「武装した部隊が乗り込んでくる音さ。暗殺は失敗したが第2プラン発動だ。お前達はもう終わりだ」

 調理師は暴れるように身を捩りながら空湖を睨みつける。

「よかったな。小さい名探偵さん! お前のお陰でプリメラだけ死ねばよかったのが、皆殺しになったぞ!」

 イヴァンは尚も喚き続ける調理師の首に手刀を叩き込んで黙らせた。

「気にするな空ちゃん。君が居なければ確実にアリシアは死んでいたんだ」

 床に転がった調理師を見下ろしながらイヴァンが言う。

 そうだ。その判断は間違っていない。

 でも、これからどうすれば……。

「よし、とにかく逃げよう。いや、プリメラを逃がそう」

 船体に音が響く中、突然扉が開き皆が身構える。

 だが入ってきたのは船長に事の顛末を知らせて戻ってきた医師だった。

 だけど事態はその時よりも更に進んでいる。

 飛び込んできた医師の情報もアップデートし、船長にも伝えてもらうようお願いする。

 お年寄りに往復させてしまって申し訳ないけれど、緊急事態なのだから仕方ない。

 医師は看護師に動ける人達を救命ボートへ誘導するよう指示して送り出す。

「僕はこの子達を」

 イヴァンの言葉に医師は頷いて部屋の外へと出ていった。

 イヴァンはアリシアの元へ駆け寄る。

「僕達は別ルートを通って遊覧船で脱出する」

 連中の目的はプリメラだが、乗客は人質にされるかもしれない。

 今のうちに動ける者は救命ボートで脱出。

 近辺で海上保安庁の救助を待つか、事態が収集するまで待つ。船から離れればわざわざ追ってくることはないだろう。

 動けない者は人質になってしまうが、乗客全員が捕まるよりいい。

 そしてそれとは別にプリメラは遊覧船で逃げる。

 遊覧船ならかなり遠くまで逃げられるし、救命ビーコンもある。場合によっては目的地まで行けるかもしれない。

「奴らは遊覧船のことまでは知らない。囮にするようで申し訳ないが、プリメラの身が一番だ。分かってほしい」

 連中も逃げるなら普通は救命ボートだと思うだろう。

 僕達は互いに顔を見合わせて、本当にそれで大丈夫なのかと心配になる。

 遊覧船に乗れたとしても逃げ切れるとも限らない。船長の判断を待たずに勝手に動いて良いのか? とも思う。

 でも時間が経てば経つほど事態は悪くなるのも確かなんだ。

「でも、アリシアを一人にするわけには……」

 ソフィアが心配そうに言う。

 ソフィアがアリシアを無事に連れ帰るように言われた付き人のようなものなら、その心配も当然なんだろう。

 目を離した隙に何かあってはまずいのだろう。

「大丈夫だ」

 イヴァンは倒れ伏している調理師を指差す。

「コイツは日本に寄港した時に補充された日本人クルーだ。それ以外のオフィサーはアメリカをった時からこの船に乗ってる乗組員だ。プリメラが日本にいるっていう話が出るよりも前だよ」

 それでも足がすくんだように動けない僕達の様子を悟ったのか、アリシアが決意のこもった目で言う。

「行ってください。私は彼と行きます」

 真っ直ぐに、そして厳かな口調に、僕達はぎこちなく頷いた。





 僕達は通路を戻り、母達と合流。

 事情を説明し、手分けして動ける人達を誘導した。

 船は沈むわけではないので手に持てる荷物だけを持って出る……のだけれど大事な物が入っているのか、空湖はリュックを背負っていた。

 頭には相変わらずホームズのトレードマークとされる鹿撃ち帽が乗っているので、なんか登山客みたいだけど。

 余談だけれど、原作でホームズが鹿撃ち帽を被っているシーンはほとんど無いそうだよ。

 医師が船長にも事態を伝えたのだろう。船内アナウンスで緊急事態であることが伝わる。

 動ける者はデッキに出てスタッフの指示に従い、動けない者は部屋で大人しく。

 部屋の鍵は閉めず、侵略者には抵抗せず指示に従うこと。

 調理師は武器を持っている連中と言っていた。

 ヘタに籠城しようものなら扉を破壊されるだけだろう。その時乗客は無事だという保証は無い。

 もっとも投降すれば安全とは限らない。だからこそ動ける者だけでも避難するのだ。

 デッキに着くとスタッフ達が救命ボートの準備をしていた。

 僕達を誘導してくれた看護師は行くべき先を指差すと、船内に戻ると踵を返す。

「そんな! 一緒に逃げないと」

 母の言葉に看護師は頭を振る。

 まだ船内で迷っている人、動けないほどではないが一人では移動がままならない人、それらの人々を誘導しなくてはならないし、その後は看護師として動けない人を看護しなくてはならない。

 母は看護師の手をしっかりと握り、感謝の言葉を伝えて送り出した。

 ボートの用意をしているスタッフに促されて船の左舷へ移動する。

 テロリストの船が停泊しているのは右舷らしい。

 反対側の死角からボートを降ろし船を離れる。それが今身を守るための最善策。

「アリシアさん、大丈夫かな」

 思わず漏らしてしまったが、心配しても仕方がない。

 あそこで躊躇しても皆が危険に晒されるだけだ。

 イヴァンを信じるしか道が無いのも事実だった。

「本人が言うんだもの。アリシアさんはそんなバカじゃないわよ」

 そうだね。

 何か決意を込めたような目を思い出す。

 確かにここからボートで逃げたとしてもそこまでだ。

 救命ボートというのは陸まで逃げるためのものではなく、救助に来た船まで移動するための物であり、漂流して助けを待つためのものだ。

 ボートで逃げたことが知られれば、奴らがここまで来た船で簡単に追いつかれてしまうんだ。

 だが時間を稼ぐことはできる。

 その間に救助隊が来れば無事生還……と、その裏をかいて遊覧船で逃げるというのは、確かに一番安全確実なんだろう。

 まだ暗いうちに船を離れることができれば、見つけるのは至難の業だ。

 僕達も分かれて救命ボートに乗れば、連中だって全て制圧するのにどれだけかかるか分からない。

 ボートに乗るのは船に残るよりも遥かに安全のはずだ。

 胸の中のわだかまりが消えないのは、看護師達スタッフや動けない人達を見捨てて逃げる後ろめたさか?

 僕が考えても仕方ない。残ることは何の解決にもならない、と気持ちを切り替えてスタッフに従う。

 ボートを降ろしているスタッフは、毒入りワインイベントにもいたショートカットの女性。さっきの真相解明の場には居なかった人だ。

 テキパキと準備をしながら、僕達に不安を与えないためか、持ち前の明るさで話しながら作業を進める。

 この人も毒入りワインの時に居たので自然とアリシアを託したイヴァンの話になった。

「いい人よ。いつも皆のことを気遣っているし。彼を嫌いな人はいないんじゃないかなぁ。私も好きだし」

 と少しはにかんだように笑う。

 乗客にも人気があって、彼を密かに狙っている人は多かったんじゃないかと言う。

「あなたは違うんですか?」

 母が問われるも、微妙な表情を浮かべる。

「私は……、既婚者だから」

 しかも息子の前だしね。

「もちろん仕事もできる人よ。船の雑務が仕事だけど、雑用係なんてとんでもない。私よりも船のことに詳しいくらいだし。休憩もあまり取らずいつも乗客のことを気にかけていたわ」

 アリシアが死んだと思われていた時も、ソフィアのことをいつも気にかけていたな。

 とにかく頼りになる人だと連呼するスタッフに、ならアリシアを任せて正解だったかと皆彼らがいるであろう方向を見る。

「ま、アメリカ人オフィサーならテロリストの仲間ってことはないだろうし。彼に任せるのが一番でしょ」

「? ……違いますよ?」

 母の何気ない呟きに対するスタッフの言葉に皆は振り返った。





 剥き身の鉄で覆われた冷たい通路の中で、身を潜めるように移動する人影が二つ。

 そのうちの一つ、前を行く人影はやや開けた空間に差し掛かった所で止まると、物陰から顔だけを出して周囲を窺った。

 人の気配がないことを確認した人影――イヴァンは背後に控えているアリシアの手を引く。

「よし、誰もいないな。今のうちだ」

 イヴァンは遊覧船に乗り込み、運転できるかどうかを確認する。

 アリシアは時折船体に響く音に身を縮こまらせていた。

「大丈夫だよ。奴ら船を横付けしてるからぶつかる音が近いだけで、すぐここに入ってこられるわけじゃない」

 ここに来るには、まず鉤縄で中腹より上に登って、そこから船内を降りてこなければならない。

 この遊覧船が外へ出るための出入り口に穴を開ければ入ってこられるが、この暗さでは初めから構造を知って用意してこなくてはならない。

 今開けられていないのならここは知られていない。

 反プリマ政権の連中がここに来ることはないから大丈夫だよ、と安心させるように言う。

「あまり早く出すぎても、外にいる連中に見つかるかもしれないからね。だからゆっくり、落ち着いて行動していいよ」

 アリシアはぎこちなく頷くと、気持ちを落ち着けるように周囲を見回した。

 ここは客船のやや後部の船底辺りだろう。

 船の中だが、船着き場のように海水が入ってきていて、そこに屋形船のような平べったい船が浮かんでいた。

 左右に大きな扉があり、それが両方共開くと丁度船の真ん中に穴が空いたように両側が筒抜けになる構造だ。

 水上バイクなども並んでいて、こんなことにならなければ海上でのレジャーが楽しめたのだろう。

 イヴァンは左右にある外扉を確認し、

「よし、こっちからは音がしない。この外には敵がいないだろう。ここから出よう」

 と扉を開けるためのボタンを押す。

 電気の力で開く扉を固唾をのむように凝視するアリシアに、イヴァンは遊覧船から手を伸ばした。

「さ、アリシア。早く乗って」

 アリシアは恐る恐る手を伸ばし、船着き場と遊覧船を繋ぐ架け橋に足を乗せる。

 だが、客船そのものの揺れはほとんど無いものの、遊覧船は至って普通の船のため、扉が開いて外洋の波をモロに受けた船体は僅かに揺れる。

 縄梯子のような架け橋はその間に挟まれ、生き物が蠢くように伸縮した。

「きゃあっ!」

 激しい水音と共にアリシアの体が黒い海に消える。

「アリシア!」

 イヴァンは船着き場に戻り、こういう時に水から上がってくるために設置してある梯子を下った。

「アリシア。こっちだ」

 水面から顔を出し、咳き込むアリシアを誘導する。

 外海ではないので、このまま海にながされる心配はないが、もたもたしていたらテロリスト達がここまで来るかもしれない。

「アリシア! 早く」

 さすがのイヴァンも少し焦りの色を見せて、アリシアに手を伸ばす。

 アリシアの手を掴み、思いっ切り引き寄せると梯子を掴ませた。

 アリシアは少し息をつくが、あまり休んでもいられないと、イヴァンは腕に力を入れて引き上げる。

 重い海水を含んだ服に覆われた体は、全身に藻が絡んでいるのかと思うほどに重かったが、なんとか上まで引き上げた。

 べったりと尻を付くアリシアに大丈夫かと声をかける。

 アリシアは荒い息をつきながらも頷くが、濡れた服は体にぴったりと張り付き、肩をはだけさせていた。

 吸い込んだ海水を絞り出すように体を擦り、スカートを絞る。

 イヴァンは一瞬、目のやり場に困るような素振りを見せるが、その胸元、赤い線で描かれた模様を凝視する。

 アリシアはその様子に気づかず「?」の顔をしたが、イヴァンは目を見開き、アリシアの胸元に手をかけて勢いよく左右に引き開いた。





「今、なんて?」

「彼は……、日本人です。横浜で増員された、日本人クルーです」

 僕は一瞬様々な考えが脳裏をよぎったが……。まずはイヴァン・クリストという名前。

「でも……、名前……。偽名!?」

「いえ……、偽名で乗組員になるのは、まず無理だと思いますよ」

「じゃあ。なに!? 本物殺して入れ替わったとか!?」

 健太もテンパったのか物騒なことを言う。

 入船時に指紋認証もあるから現実的ではないけど……、とスタッフも困惑する。

 調理師は雇われただけだと言っていた。

 反社会的な組織が普段から様々な業種に人員を送り込んでいて、こういう時に特別報酬で仕事を与える。

 派遣会社を買収するなどして、送り込む人員を操作することならできるだろう。

「いやあ、さすがに……、誰かと間違えてるんじゃない?」

 母もやや表情を引きつらせるが……、スタッフも何を問題としているのか分からない様子だ。

 噛み合わない話だが、このままスルーしていいものかどうか。

 スタッフの勘違いであればそれでいいんだけど、何か引っかかるのも事実だ。

 そんな微妙な空気を破ったのは……ソフィア。

「彼の……イヴァンさんのスペルは分かりますか?」

「え……、ええ」

 携帯端末を開き、乗組員名簿を開いて見せる。

 ソフィアはそれを覗き込み、僕達にも見えるように見せた。

 そこに書かれていた文字は『Iba Kurisuto』。

「彼の名前はイバ。多分、伊豆の伊に庭って書いて伊庭と読むような、キラキラネームの日本人よ」

「そ、それじゃ……、自分をオフィサーだと偽ったのは……、アリシアさんを連れ出すため!?」

「大変じゃない!!」

 皆慌てふためくが、空湖は変わらずの表情のままだった。

「慌てたってしょうがないじゃない。まずは私達の安全を確保しなくちゃ」

「落ち着いてる場合!? アリシアさんが攫われたんだよ?」

「大丈夫よ。彼はアリシアさんを殺さない」

 空湖は説明する。

 殺すつもりなら真相解明の時にできた。あの場にいたのは犯人を除けば老齢の医師と看護師、ソフィアにアリシア、それに子供である僕と空湖だけ。

 殺しの経験を持つ犯人二人がその気になれば計画を遂行することは難しくなかった。

 だがイヴァンは調理師を確保。アリシアを一人連れ出した。

「これはプリメラの暗殺計画じゃない。プリメラを抱き込む計画だったのよ」

 そうか。

 プリメラが暗殺者に命を狙われているという状況を作り、それを白馬の王子様よろしく助け出す。そうして新政権に恩を作り政治に介入する。

 これは派閥争いなどではなく、政権外の人間がプリマ王国に入り込むための策謀だったんだ。

 そのために関係ない人達が傷ついた。

 アリシアのことは心配ではあるけれど、その策はバレてしまえばなんてことはない。

 少なくともイヴァンはプリマ王国到着までアリシアのことを真剣に守るだろう。

 今回の事件との関係が証明できなくとも信頼が揺らげばそれでおしまいなんだ。

「そうだね。作戦は今のままで何も問題無いんじゃないかな」

 皆で頷きあい、救命ボートに乗り込む準備を続けるが、

「あの……」

 とソフィアが落ち着かない様子で声をかける。

 もたもたしていたらここにもテロリストがやってくる……、という空気の中で皆それほど気にしていなかったが、

「違うんです!」

 と少し声を大きくするソフィアに皆注目する。

 皆の注目に少したじろぎ、困惑した様子だったが、やがて意を決したように、

「わたしが、プリメラなんです」

 と胸元を引き広げ、その下にある紋章を見せた。





「お前……、プリメラじゃないのか!?」

 イヴァンはアリシアを見て言う。

 その目には明らかな殺意がこもっていた。

 襟元を握りしめる拳に力がこもっているのが分かる。その手で首を絞められたなら数秒で意識を失い、絶命するだろう。

 アリシアは恐怖で身がすくんだが、イヴァンの手が首に移動するためか一瞬緩んだ隙に突き飛ばして離れた。

 尻餅をつくように倒れ込み、疲労した体に鞭を打って走り出すが、すぐに足がもつれて倒れ込む。

 イヴァンは直ぐには追ってこなかったが、怒りを込めた悪態をついていた。

 イヴァンが……、この事件の殺人犯だった。

 アリシアは自分の胸元に目をやる。

 そこに描かれたプリマ王国の紋章は、一部が剥げて完全な円を描いていなかった。

 ソフィアを守り、プリメラのフリをするために入れたペイント。

 いざという時にアリシアが身代わりになれるよう用意していたものだ。簡易的なものだが、短時間なら水に濡れても落ちることはない。

 だが入れてから時間が経った上に、海に落ちてうかつにもその上を擦ってしまった。

 自分がまだ殺されていないということはプリメラ暗殺が目的ではなく、新政権に入り込むことが目的だったのだろう。

 自分にやたらと親切だったことからもそれは計り知れる。

 調理師とは共犯ということになるが、実際に被害者を殺害したのはどちらかは分からないのだが、アリシアには確信があった。

 イヴァンが、被害者達を殺した。

 他の被害者もプリメラだと思って近づき、今しがたのように偽者だと気づいて、同じ目をしたのだろう。

 そしてそのまま首を絞めて殺害した。

 彼が犯人ならプリメラを守るという責務は果たされる。

 それは喜ぶべきことなのだが、自分は今にも殺されそうなのだ。

 プリメラとして暗殺されるならまだいい。良くはないのだが、プリメラを守りきったという達成感と共に逝くこともできるだろう。

 しかし正体がバレてからではただ死ぬだけだ。そうでなくてもできることなら死にたくはない。

 それに自分が殺されれば次はソフィアが狙われるだろう。

 ここまで無事に来られたのは敵を避けてきたのではなく、そういう筋書きだったからだ。

 テロリスト突入時にはイヴァンはプリメラを連れ立って下層へ行く。

 それが邪魔されることはないし、救命ボートで逃げる者を止める必要もない。

 ソフィアも無事に逃げおおせるはずだったが……。

 バレた上に殺されてしまっては、イヴァンはこのままソフィアに近づくだろう。

 その前に何としてもこのことを伝えなくては。

 今はそのためだけに、悲鳴を上げる足の筋肉を叱咤する。

 力の入らない足でふらつきながら通路を走っていると、やがて背後からイヴァンの猫なで声が聞こえだした。





「ソフィアがプリメラ!?」

 母が素っ頓狂な声を上げる。

 仮にも一国の王女になるかもしれない人だよ? と呼び捨てする母に内心突っ込んだけれど、僕もまだ理解が追いついていない。

 ソフィアが本当のプリメラで、アリシアが身代わりだった。

 でも冷静に考えればそうなんだ。

 殺し屋の目を欺くためとは言え、仮死状態にするのに本人がその危険を冒すなんて。

 アリシアが、ソフィアのことを命に変えても送り届けるよう命を受けていたと考えるなら納得できる。

 イヴァンと共に行ったのも、万一見つかったり、裏切られたりしても身代わりだからだったんだ。

 テロリスト達には、調理師によってアリシアの名前と容貌が伝えられていたはずだ。ソフィアへの危険を減らすための決意だったんだろう。

「それだとまずい。もし、アリシアさんがプリメラでないとバレたら大変なことになる」

 空湖の言葉にソフィアがぎこちなく頷く。

 紋章はペイントによるタトゥー。

 それほど水に強いわけではないのに、死体らしく見せるために一度濡らしてしまっている。

 しかもそれから時間も経っているのだ。今も完全な形で残っている保証はない。

 計画では黒い女性に化けたまま船を降りるつもりだったのだ。

 空湖は顎に手を当てて言う。

「被害者の女性も、調理師が口説き落としたというのに違和感があったけど、イヴァンが実行犯だったのなら納得がいく」

 そ……、そうなの?

 でも、今思えばイヴァンが調理師を羽交い締めにしたのも、後ろから色々と指示していたんだ。

 空湖があそこで事件を止めたのは犯人にとっても予想外。急遽作戦を申し合わせる必要があったんだ。

「助けに行きましょう!」

 母が勢い込んで言う。

「わたし達も」

 空湖の言葉に、当然のように危険だと止めるが、いざ見つかった時に子供連れなら手荒らなことにならない、という言葉に母も納得する。

「それなら俺たちも行くよ」

 健太と陽子も意気込む。

 大丈夫なのかな? とも思うが、確かに大勢連れていれば子供を避難させようと迷っている一団に見えるだろう。

「わ、わたしも」

「ソフィアさんはダメよ。それじゃ意味がない」

 若干納得のいかない顔はするも、それ以上食い下がることはなかった。





 僕は空湖、母、健太と陽子で船内の通路を進む。

 動ける人達は既にデッキに出たようで、船内に乗客は残っていない。

 スタッフに出くわすとデッキへ誘導されるだろうと、人の気配を避けながら階下へと進んだ。

 アリシア達は遊覧船に向かったはずだ。

 ドタドタと通路を行く僕達を最後尾にいた健太が呼び止めた。

「なあ! これ!」

 健太はバットを持った手を上げる。

 雑貨店の中から拝借したようだ。

「なんか武器になる物があった方がいいんじゃないか?」

 僕達は互いの顔を見合わせる。

 相手は武装していると言っていた。ここは日本国土外。銃を持っていると考えた方がいい。

 そんな奴らを相手に武器を持った所で……、とも思うが丸腰が心許ないのも事実だ。

 それにあまり迷っている時間もない。

 それで勇気が振り絞れるのなら、アリシアの助けになるのなら、と僕達も見繕うことにした。

 陽子はテニスラケットとボールを。

 僕は、特に何も思いつかなかったのでスケボーを手に取った。

 空湖は既に用意があるらしい。

 母も身軽な方がいいと何も取らなかった。

 鉄製の冷たい通路を走り、明らかに僕達の足音と違うものも混ざり始める。

 スタッフのものだとしても出くわしたら面倒だ。

 物陰に隠れて少し様子を見、また駆け出して様子を見る。

 それらを繰り返していたが、進みがはかどらず気持ちが先走り、つい確認をおろそかに十字路に飛び出してしまった。

 通路に出た先に大人の姿が見え、相手もこちらに気がついた。

 スタッフに見つかった!? のならどれほど良かったか……。

 通路の先にいる男は手に黒く光る物を持っていた。男は「あっ」とこちらに黒い物を向けたが、現れたのが子供だと分かると、手に持った物を肩に担ぎゆっくりと歩み寄る。

「おっと、ボクたち。こんなトコにいちゃ危ないよ~。お母さん達の所へ帰ろうねぇ」

 咄嗟に出て来たのとは反対側の通路に身を隠したが遅いだろう。

 姿を見られたのは僕と空湖だけだと思う。

 通路を挟んだ反対側には母と健太達、このままそれぞれに逃げても分断されてしまう。

 いや、それとも二方向に逃げれば「二兎追う者は一兎も得ず」でどちらかは逃げきれるのか? と母を見るが、軽く首を振って応える。

 このまま待てってこと? と様子を窺っていると、男の足音はすぐ近くまできた。

 男の足が見えるか否か……、という所で、陽子がその足元に向けてテニスボールを転がす。

 僕達に注意を向けていた男はボールに気づかず踏み、

「おわっ!」

 派手に転倒した。息が止まるような声を上げた男に、

「てやっ!」

 すかさず健太がバットで銃を払い飛ばす。

 何が起きたのか分からずのたうつ男の首筋に、空湖が金属棒のような物を差し込むと、バチッという音と共に男が体を仰け反らせた。

 僕は空湖を見る……、が無表情に見つめ返されただけだった。

 背負ってるのはアレか? 以前僕が空湖に電気ショックを与えられて気絶させられた、アレの改良版か。

 あの時は家庭用電源に差していたけれど、携帯できるようにバッテリー型に改造したようだ。なんでそんな物をこの旅行に持ってきたのかは疑問だが、とにかく助かった。

 母がすかさず男の取り落とした銃を拾う。

「MP-5サブマシンガン。映画『ダイ・ハード』でもテロリストが使っていた、ライフルとしても使えるくらい命中精度度が高い銃。セミオート、三点バースト、フルオートに切り替えが可能」

 小説に登場させたことがある、と安全装置を解除する。

 その時、騒ぎを聞きつけた仲間が何事だ、と走り寄ってくる音が聞こえた。

 通路の先に似たような風貌の男が顔を出すと、母はMP-5の引き金を引いた。

 やや上に向けて発砲しているため男には当たらないが、それでも驚いて物陰に隠れる。

 僕達もさっきと同じように物陰に隠れた。

 敵の男が「何が起きている?」と確認するように顔を出すと、セミオートに切り替えた母がそこに向けて発砲。もちろん当てるつもりはないんだろうけれど、男は出るに出られない様子だ。

 母はさっと顔を出しては引っ込め、銃口の先だけを出すようにして発砲する。

「こういう時、壁から半身だけ出して狙うのは返って危険なのよ。弾は壁にあたって跳ね返る時、壁と平行に軌道を変える。相手を倒すつもりなら、顔と手だけ出して撃つよりも壁から少し離れて体全体を出し、しっかり腰を落として撃つ方が確実」

 言いつつ、牽制の弾を撃ち込む。

「でも絶対安全じゃないし、この距離だと当てられやすいからやらない」

 なんか楽しそうじゃないか? この人。

 参考資料用のモデルガンじゃなく、本物を撃つ機会に恵まれたのでハイになってるようだ。

 角の向こう側に隠れる男も銃の先だけ出して弾丸を打ち込んできた。

 連射ではなく単発で打ち込んでくる。相手はこちらが何人なのか、男か女かも分からないだろう。

 空湖はホームズの帽子をスタンガンの棒の先に乗せ、ゆっくり通路へと伸ばす。

 相手から帽子が見えたであろう瞬間、銃声と共に帽子が飛んだ。

 空湖は落ちた帽子を棒で手繰り寄せると手に取り、穴が開いている部分に指を通す。

 銃の先だけ出してるけどメチャクチャ狙いが正確だ。やはりこういう戦いに慣れたプロの兵隊なんだろう。うかつに飛び出せない。

 というより母達がこちら側に来られない。もっとも敵を無視して先に進んでも追いかけられて撃たれるだけだけど。

 そんな顔をしていると、それが分かったのか母は、

「コウ君。空ちゃん。アリシアをお願い。ここは私達で引き付けておくから」

 と弾丸を打ち返す。

 そんなこと言われても……、と躊躇する。

 僕達だけで何とかできるのか? 健太達をここに置いていっていいものか? と様々な考えが頭の中を駆け巡ってパニックを起こしそうになる。

「行けよ! 宇宙人。オレらだって武器持ってんだ。あいつらも子供は殺さねぇよ」

 健太もバットを構えて言う。

 ていうか宇宙人って僕も含んでるの?

「大丈夫。ヤバくなったら私達もすぐ逃げるから」

 母の言葉に陽子もぐっとラケットを握りしめて見せる。

 普段大人しい陽子まで……。

 思い出せば、前の事件でナマハゲと呼ばれる通り魔に刃物を持って追いかけられているんだ。

 人が斬られて血を流す所も見ている。

 普通の小学生より度胸がついているのか、使命感で高揚しているのか。

 それでも当たれば死ぬ弾丸が飛んできているという絶対的な現実を前に躊躇していると、肩を小さな手で掴まれた。

「行くよ。コウ君」

 空湖はそう言ってずんずんと行ってしまう。

 もう一度母達を振り返ると皆力強く頷いたので、僕も頷き返し、空湖の後を追った。



 通路の角に隠れて銃を構えるコウ君母――朱美は高揚する気分を抑え込んでいた。

 恐怖はある。というより無茶苦茶恐い。

 しかし人の感情というのは一つで支配されるのではなく、様々な感情が入り混じった結果だ。

 恐怖と怒り。恐怖と好奇心。恐怖と使命感など。

 恐怖が上回れば怖じ気付くが、それに反する感情が上回った時に人間は行動できる。

 今、朱美の中で恐怖を上回っているのは『歓喜』だった。

 全身を歓喜が駆け巡り、よく映画なんかである『笑いながら機関銃を撃つ悪役』の気持ちに同調していた。

 銃の先を出して牽制の発砲。

 その重さと衝撃、光と音の強さ、火薬の匂いを存分に味わう。

 朱美は作家という職業上、銃火器を登場させることはある。

 だが実銃を触ったことも無い女性作家の書く物に編集は辛辣だ。というより同じ編集者のお抱え作家に徴兵制度のある国出身の男性作家がいるのだ。

 よく「本物の兵役を経た者の書く物と比べてしまうと……」と遠回しに言われたものだ。

 朱美としては十分に調査した上のもので、不自然な点は無い、と思っているのだが結局はそこではない。

 本物を経験した者にしか出せないものがある、それはあるのだろう。

 あるいは「経験者が書いている」というブランド性。それも作品の装飾に不可欠なことも理解できる。

 こればかりはどうしようもない。

 海外に取材に行き、安全な射撃場の中、豆鉄砲で紙の的を撃ったところでその差は埋まることはない。

 そう諦めていた。

 だが……、と朱美は手の中の黒光りする金属の塊の感触を確認する。

 アイツも所詮訓練、演習という名目の中での経験。実際に戦場に出たことは無い。

 本当に命を狙ってくる相手と実弾を打ち合った経験など無いだろう。

 朱美は自然に口角が上がっていくのを感じていた。

 笑い出しそうになるのを必死で堪え、MP-5の発射モードを切り替えるセレクターレバーに手をかける。

 これで自分はアイツより上、と高揚する気分に任せて通路に躍り出る。

「うらあっ!」

 フルオートに切り替えられたサブマシンガンが火を吹く。

 鳴り響く轟音の中、自分が声を上げて笑っているように感じながら斉射し、すぐに通路に引っ込む。

 やらないと言ったが堪らずやってしまった。

 だが気分は最高だった。

 相手も面食らって反撃どころではなかったろうが、同じことは二度できないだろう。

 跳弾の危険もあるし、さすがに何度もやろうとは思わない。

 朱美は最初に倒した男から回収した予備断層に入れ替える。

 これもモデルガンで練習した通りだ。

 後は最初の通りに単発で牽制しつつ時間を稼ぐ。さっきの銃声で、ここに敵が集まってくれば空湖達を危険から遠ざけられるだろう。

 などと考えていると通路の先から僅かに甲高い金属音が聞こえる。

 何かピンを抜いたような……、と思うより早く、ジュース缶くらいの物が飛んできた。

 床に当たって跳ね返り、弧を描いて飛んできたそれはグレネード。

「まずい!」

 爆弾ではないだろう……と思うも、そうでなくとも防ぐ手段がない、とさすがに頭が真っ白になっていると、後ろから飛び出した陽子がラケットでそれを打ち返した。

 キレイに壁に当たって物陰に隠れる男の元へ帰ると、「わっ」という声と共に炸裂した。

 船内に眩い光が走る。角の先でなければこっちも目が眩んでいただろう。

 朱美はすかさず走り出て、物陰にいた男から銃を奪う。

 そのまま床に押し付けるように銃を向けた。ここにいたのは二人だけだったようだ。

「こいつらを縛り上げて!」

 銃を構えて健太達に指示すると、男も殺せるはずはないと思っているのか僅かに抵抗する素振りを見せる。

「手足を撃ったっていいんだよ?」

 朱美は精一杯重い声を出し、男の後頭部に銃口を押し付けた。

 本当は手足を撃つ度胸も無いが、声が震えそうになるのを誤魔化すために語気を強めたためか、男は抵抗するのを諦めた。

 ベルトを抜いて後ろ手に縛り、ズボンで足を縛っていると騒ぎを聞きつけた仲間が近づく音が聞こえた。

 朱美は健太達に隠れるよう指示して、再びMP-5を握りしめる。





 僕達は階段を降り、入り組んだ船内を突き進む。

 時折前方に人の気配がする、と道を変えるような行動を取った。

 空湖は完全にルートを把握しているのか迷うような様子はない。

 僕はただ、黙って空湖の後をついて行く形になった。

 空湖が急に立ち止まり、その後頭部に僕の鼻がぶつかると、

「おい、ガキがいるぞ」

 という声が聞こえた。

 見つかった!? と思うより先に空湖は来た道を戻る。

 だが真っ直ぐには戻らずに横道にそれて階段を登った。

 追ってくる男達はそのまま通路の先を行ったようだが、そっちに僕らがいなければ横道も探しに来るだろう。

 空湖もそれが分かっているのかずんずんと先へ進む。

 通路の先を窺っては少し戻り、いつものレジャーエリアに出た。ルート的にはかなり後戻りしているような気がするのは僕にも分かる。

 レジャーエリアを突っ切り、船首の方に向かうがそこでも金属を叩くような足音が……。

 空湖はレジャーエリアまで引き返したが、そこで足を止める。

 そっちからも敵が迫っているはずだ。

「ピンチみたい」

 そんな平然とした顔で言われても……。

 どうやら敵は無線で互いに連絡を取り合って僕達を追い立てたようだ。

 退路を塞ぎつつ、じわじわと追い詰め、ここに追いやられたらしい。

 空湖は辺りを見回すと、ゲームコーナーに設置されているハンマーを持ち上げた。

 鐘を叩いて、その力でメーターがどこまで上がるかを競う時に使うアレだ。

 それだけでも結構な重さがあるだろうに平然と担いでくると、それを噴水を囲っている大理石に打ち付ける。

 ガコッと鈍い音と共に石が外れ、水が絨毯に漏れ流れた。

 続けて対になる位置の石も破壊すると、噴水の周りには海水を利用した水が染み渡った。

 空湖はブティックへ走ると、店内を装飾している電飾を剥がし、テキパキと何かを作り始める。

 と言っても電線を伸ばして電源に繋ぎ、その先を空湖の持つ電気ショッカーに繋いだだけだ。

 電気ショッカーの電極部分も二つに裂き、片方に電線を繋いで、もう片方は絨毯に刺した。

 電線で延長した部分を僕に持たせると、空湖は僕の体を掴んで、一気に放り投げる。

 わぁーっ、という悲鳴と共に僕の体は宙を舞い。

 噴水の天辺である石像に抱きつく形で静止する。

 ワケが分からないが、

「電極を高く掲げて」

 と言うので、言われた通りに抱きついている石像と同じようなポーズを取る。

 空湖は物陰に隠れ、電気ショッカーのダイヤルをカリカリといじっている。

 恐怖で何も考えることができなかったが、僕は敵から丸見えなのではないだろうか。

 そうこうしているうちに僕の悲鳴を聞きつけたのか敵が集まり、レジャーエリアの捜索を始める。

 僕はその光景を少し高い所から見下ろしていた。

 男達は四方の通路から入ってくる。やはり取り囲まれていたようで、うかつに逃げなかったのは正解だが、今の状況がピンチなことに違いはない。

 僕は意外に見つかっていないことに驚いていたが、やはりと言うか、徘徊している男の一人が、噴水の石像に抱きつくようにしている僕の姿を認めて「ん?」と眉根を寄せる。

 そしてエリア全体に響き渡るかというような大声で笑い出した。

 何だ何だと他の男達が集まり、笑う男の指す方を見てつられたように笑う。

「こいつ。これで隠れたつもりだぜ」

「噴水の像のフリしてやがった。確かに一瞬分からなかったわ」

 男達はゲラゲラと笑うが、僕は固まったまま何をすることもできなかった。

「さあ、ボウヤ。そんなとこにいないでこっちへおいで。お前一人か?」

 男は銃を担いで僕に手を伸ばす。

 他の男達も僕が逃げられないようにするためか、周囲を囲うように近づいてきた。

 その瞬間、眩い光が迸り、男達が身悶えするように悲鳴を上げる。

 軽い爆発音のような音と共に周囲が真っ暗になると、閃光に目が眩んだ僕の目には何も見えなくなった。

 非常灯の光で少し見えるようになると、男達は床に倒れていた。

「コウ君。いつまで登ってるの? この人達縛り上げるわよ」

 腰が抜けたようにズルズルと噴水を降りて空湖を見ると、顔がスス汚れて髪が爆発していた。

 船からの過剰電力で電気ショッカーが爆発したようだ。

 倒れている男達を見ながらようやく理解が追いつく。

 男達は絨毯に染み渡った水を踏んでいたせいで、僕の持っていた電極から放電して感電したようだ。

 噴水の水は海水を使っているから伝導性は抜群だったろう。

 空湖は男達を引きずって一箇所に集めると電極でその体をぐるぐる巻にする。

 でもこれじゃ、思いっきり暴れたら逃げられるんじゃないかな、と心配していると、空湖はバーから酒瓶を数本持ってきた。

 栓を抜き、男達の頭からかける。途端に周囲にむせ返るようなアルコール臭が充満した。

「ぶわっ、冷てぇ」

 男達は気が付き、身を捩って暴れ出す。

 良かった。生きていた、と安心するのも束の間、「お前らぶっ殺してやるぞ」といった悪態をつきつつ力を込めていた。

「動いちゃダメだよ。危ないから」

 と空湖は火を灯したロウソクを持って近づく。

 卓上に置ける、グラスに蝋を満たしたインテリアタイプのロウソクだ。カラフルな蝋が側面のガラスにトロピカルな風景を描いている。

 その爽やかな絵柄とは対象的に男達は驚愕の表情を浮かべた。

 自分達にかけられた液体がアルコール臭を放っていることは男達にも分かるはずだ。

「お、おい。止めろ。冗談だよな?」

 空湖が近づく距離に反比例して男達の口は大きく開いたが、声を上げることもできずそのまま固まる。

 空湖はロウソクを男達の中心人物、リーダーっぽい男の頭の上にそっと乗せた。

 そして他の男達の頭の上にもグラスを乗せていく。

 男達にしてみれば、どれが火の点いたロウソクのグラスなのか分からないだろう。

 空湖は離れ際、

「大丈夫。この船は世界一揺れない船だから」

 と謎の激励を残して僕の背を押す。

 僕は促されるままについていくが、一瞬振り返ると男達は口を大きく開けたまま、全く動くこともできずに固まっていた。





 息を切らせながら走るアリシアは、ついに足をもつれさせて転倒する。

 打ち付けた膝と肘が痛んだが、あまり休んでいる時間はなかった。

 重い足取りで立ち上がると、背後にイヴァンの気配が迫る。

「アリシアー。驚かしてごめんよー。もう大丈夫だよ、怒らないから。一緒にここから逃げよう」

 息を呑んで再び走り出す。

 海に落ちて力いっぱいもがいた後で、かなり体力を削られたあとに全力疾走。階段を掛け上がり、体力はもう限界だった。

 アリシアの体力が限界なのを見て取ってか、イヴァンは余裕を持って追ってくる。まるで獲物を逃がしていたぶるように。

 横道にそれて階段を登り、撒いたつもりだったが、イヴァンは的確に後を追ってくる。

 なぜ、と振り返った所で自分の通ったあとに水滴が点々とついていることに気がついた。

 くっと唇を噛み、スカートのファスナーを引きちぎるようにして下ろし、スカートを捨てる。

 白い足が顕になったがそんなことに構っている場合ではなかった。

 どの道ここまではバレているし、濡れたスカートでは走りにくい。

 水滴の量が減れば本気を出して追ってくるだろう。

 アリシアは大きく息を吸い、意を決したように再び走り出した。





「もう人はいないのかな」

 レジャーエリアから少し進んだ所で僕は空湖に話しかける。

「そうかもね。元々それほど大人数でもないと思うし」

 母達が上階で騒ぎを起こしている分、そこに数人、食堂や管理エリアでスタッフや乗員達を抑えるのに数人、僕達を追い詰めていたのがさっきの人達。

 それ以上の人数がいたらかなりの大部隊だ。

 もっともそのくらいの人数を送り込んでいる可能性もあるけれど、今の所周囲に人のいる気配はない。

「でも、さっきの人達大丈夫なのかな?」

「大丈夫よ。アルコール度数は高いけど、火が点くほどじゃないから」

 そうなんだ。そりゃそうだよね。

 と安心しつつ、先を急ぐと、船内に人の走る音が響いてきた。

 僕は空湖と顔を見合わせ、逃げるように来た道を戻るが、その足音はかなりの速さで近づいてきていた。

 明らかに走っている。このままじゃ追いつかれるけれど、何かおかしい。

 テロリストにしては音が軽い。

 どちらかと言うと、テロリストに追われて逃げる乗客のように思える。

 僕達はその足音をやり過ごすように物陰に隠れるが、あまり身を隠すという目的は成功していない。

「アリシアちゃーん。どこ行くんだーい? 君には人質になって貰わないとねー」

 間延びしたような声はイヴァンのものだ。

 ということは追われてるのはアリシアだ。今も無事だったことに安堵するが、状況は今にも捕まりそうな様子だ。

 このまま真っ直ぐ戻ってもレジャーエリアに行き当たるだけだ。

 ここでアリシアを助けないと……なんだけど、僕達にイヴァンを止められるだろうか?

 空湖のスタンガンももう無い。

 残っているのは僕の持ってきたスケボーだけだ。

 でもこんな物でどうやって? と思っていると空湖はスケボーを手に取る。

 僕に向かって口の前で人差し指を立てると、機会を窺うように通路の角に張り付く。

 足音が大きくなり、やがてアリシアが通り過ぎた。

 アリシアは僕達には気が付かなかったようだが、息も絶え絶えな様子だ。

 そして直後に続く大きな足音。

 イヴァンのものであるに違いないそれに合わせて、空湖はスケートボードを放り投げる。

 一回転して飛んでいったスケボーはキレイに床に着地。そこにアリシアを追いかけてきたイヴァンの足が勢いよく乗る。

「おわっ!?」

 車輪の付いた板であるスケートボードは、その車輪をスムーズに回転させ、上に乗せたイヴァンもろとも勢いよく通路を滑走した。

「おっ、とっとっ!」

 片方の足だけでバランスを取りながら凄いスピードで疾走するイヴァンは、よろけて倒れ込むアリシアを追い越し、そのまま通路の先へと吸い込まれるように滑り去っていった。

 何が起きたのか分からずきょとんとするアリシアは注意を見回し、僕達の姿を見つけると、泣くように顔を綻ばせ抱きついてきた。

 でもこうしてもいられない。

 イヴァンが戻ってくるかもしれないし、他のテロリストがやってくるかもしれない。

 でも、上に戻るにはイヴァン達のいる場所を通ることになる。

 うまく入れ違ってくれればいいが、向こうにはまだ人数がいるかもしれないのだ。

 見つからずにデッキまで戻るなんて無理だろう。

「それなら遊覧船に行きましょう。イヴァンさんが出港の準備を済ませていました」

 アリシアの来た道だからそっちに敵はいないだろう。

 選択の余地はない、と僕達はアリシアを連れて船内船着き場へと向かった。





 テロリスト達は頭の上に置いてあるロウソクを倒さないために、口を開けたままの姿勢で微動だにせずにいた。

 どうすればいいのかを相談をしたかったが、頭を全く動かさずに口を動かせるものなのか。できたとしても全員がそれを続けられるものなのか。

 なにより会話ができた所で、解決できるのか分からないのに賭けに出て良いものか。

 それよりはじっと動かず堪えて助けを待つ方が良いのではないか。

 今の所全員の意思はその方向で統一されているようで、誰一人動こうとする者は居なかったが、このまま不動を続けられるとは限らない。

 そのうちに体が痺れ、疲労して誰かが動いてしまうかもしれない。

 全員纏まるようにきつく縛られているのだ。誰かがほんの少し身を捩っただけでその動きが伝達し、その不快感で動いてしまい、またそれが伝播する。

 その可能性と恐怖にあとどのくらい堪えられるのか。

 全員、体を伝う汗を感じながら助けが来るのなら早く来てくれと願っていた。

 その願いがかなったのかどうかは分からないが、意外にも早く助けは訪れた。

 ガキ供が去っていった方向から人の声が聞こえ始める。

 子供の声ではない。向こうにも仲間がいて、ガキ供を叩き伏せて助けに来てくれたのか。

 全員の顔に僅かに安堵の表情が浮かぶが、その表情はすぐに訝しげなものに変わる。

 声が少しおかしい。まるで叫び声のようで、近づく速度が異様に早い。

「おおっ、とおっとおっ!」

 という声と共に通路から飛び出してきたのは、スケートボードの上でバランスを取ったような姿勢のイヴァンだった。

 イヴァンを乗せたスケボーは真っ直ぐに縛られたテロリスト達に向かってくる。

 男達は頭上のロウソクのことなど忘れたように叫び声を上げた。



「あのガキ供! 絶対にぶっ殺してやる」

 怒りを露わに銃の安全装置を外す。

 元々制圧する際にも安全装置はかけたままの手筈だった。

 殺戮が目的なのではない。

 死傷者が出れば騒ぎが大きくなる。だが誰も死ななければ国もそこまで大事おおごとにはしない。

 だから基本恐怖を与えるだけで、抵抗さえしなければ発砲はしない段取りだった。

 もちろん抵抗されたり、撃てはしないだろうと舐めた態度をとるようなら発砲する。

 なるだけ殺さないよう撃つつもりではあるが、それは殺傷が怖いからなのではない。

 殺さず怪我をさせ、痛みに泣き叫ぶ様を見せる方が残りの人質を制御しやすくなるからだ。

 傷の手当にスタッフの手を割かせることで、反撃行動に出る可能性も減らせる。

 だが、ここにいる者達にはもうそんな意識は吹き飛んでいた。

 突撃してきたイヴァンのためにロウソクが偽者、というよりアルコールが安全だと分かった。

 その時の衝撃でイヴァンは目を回していたが、縛られた男達は呼吸を合わせてじりじりとにじり寄り、イヴァンを蹴り起こした。

 そうして縄を解かせたが、皆怒り心頭に各々の武器を解禁。

 出くわした者が味方でないのならその場で撃ち殺すつもりだった。

「上の連中にも連絡を入れた。だが多分あいつらは遊覧船に向かうはずだ。だがまだ船は動かせねぇ。袋の鼠だ」

 イヴァンは受け取った銃の弾を確認しながら言う。



「ふうー」

 激昂するイヴァンを横目に、いち早く支度を終えていた隊員達は、ブティックに掛けられていたシャツを引き剥がして顔をぬぐう。

 アルコールと海水にまみれて酷い匂いだ、と吐き捨てた。

 首周りを拭きながら、隣で同じように体を拭いていた同僚に「楽しみだな」とこれから起こる殺戮ゲームに気分が高揚すると同意を求めたが、返事が返らない。

 横目で見ると同僚は少し俯くようにして両腕をだらりと下げていた。

 さっきまで自分と同じように武者震いをしていたように思ったのだが……、とよく見るとソイツは目を見開いて舌を突き出していた。

 ん? と肩を叩こうとした所に、背後から口を塞がれる。

 な!? と思うよりも早く、その喉に冷たい金属が差し込まれ、内側を流れる赤い液体が吹き零れた。



 その様子を少し離れた所にいた隊員が見ていたが、暗いこともあってよく見ようと近づく。

 様子がおかしいことを察して油断せず銃を構えていたが、不意に「キィン」と辛うじて耳に聞こえるような高音が響く。

 即座に撃てるよう銃を構えて、ブティックの奥に向けたが、闇の中からきらめいた物に銃身が切り落とされた。

 引き金に掛けた指ごと半分に切り落とされ、隊員は銃と指の断面を呆然と眺めていたが、やや遅れてやってきた痛みに悲鳴を上げる。

 だが上げた悲鳴は喉に開けられた切込みから漏れ出し、鈍く空気が漏れる音に変えられた。



 さすがになにか異様なことが起きていると察した男達が警戒心を露わにする。

 誰かいるのか? と注意深く銃を構える男がブティックを凝視したが、その隣にある店舗。カフェの前に、なぜか置いてあったマネキンの目がギョロリと動く。

 マネキンは音もなく前転すると、銃を構える男の頭に足を絡めそのまま一回転、はずみで銃が火を吹いたが、首の骨が折れる鈍い音でその乱射は止まった。



 その近くに居た男は、一瞬何が起きているのか分からなかったが、眼の前に突然現れたピエロのような白い影に銃を向ける。

 だが銃を向けた時にはもうピエロの姿は見えなかった。こちらに向かって近づいてきたように見えたのだが? と訝しんでいると、背後に気配を感じる。

 ハッと振り返った先には、船に潜入していた同僚の一人、イヴァンがこちらに銃を向けていた。

 そしてその銃が火を吹く。



 その身に銃弾を受け、血を流して倒れる同僚を見ながらイヴァンは混乱していた。

 目の前にいたのは、得体の知れない白いピエロだったはずだ。

 それが銃を向けて、発砲する瞬間同僚に入れ替わった。

 いや、その前に白い影は同僚に重なるように動いていた。

 つまり自分から見て同僚にピッタリ重なるように張り付き、自分が撃つと同時に回転するように入れ替わったのか……、とぼんやりと今何が起きたのかについて自分自身に説明していた。

 そして自分が撃つべきピエロは今は見えない。

 自分以外全滅している、という現実から目を背けるように思考が反芻していたが、目の横に人が姿を現したのが見える。

 その男はカジュアルな服装に口髭を生やし、見た目は完全に普通。こんな血と鉛が飛び交う空間に似つかわしくない。

 男は店に訪れた客に挨拶する店員のような素振りで、僅かに笑みをたたえて歩み寄る。

 その動きがあまりに自然だったため、敵と認識するのが遅れたが、ゆっくりと銃を向けると男もまたゆっくりと手を上げた。

 まるで客に伝票でも渡すように自然な動きだったため、引き金を引くことも忘れていたが、男が手に持っている物を凝視する。

 それが銃ならばすぐに反応もできたのだろうが銃ではない。

 いや、よく見ればやはり銃だ。

 それは中世の世界に出てくるような火縄式の短銃。武器というより美術品だ。

 こんな物を今武器として使っている者はいないと思うが……、という以前に、その短銃は上部が大きく開いていて、そもそも使える状態のように見えない。

 その火縄のような短銃の上部には、なぜかU字型の磁石のようなものがついていた。

 自分に向けられている物が何なのか……、と理解が追いつかず固まっていると、撃鉄が銃身の尻を叩くように、U字型の物が前に倒れて銃身の空洞の中に勢いよく収まる。

 その刹那、イヴァンを包む空間が歪んだ。

 轟音。音に継ぐ音。

 言ってしまえば手榴弾の爆発音を全て前方に集中でもしたような。

 そのあまりに大きな音はイヴァンの顔面を叩き、鼓膜を破り、体を数十メートル吹っ飛ばした。

 吹っ飛んだイヴァンの頭はハンマーゲームの鐘を叩き、最高スコアを叩き出す。

 だが電源の落ちたゲーム機からは、祝福の演出は流れなかった。

 再び静寂が戻るレジャーエリアに、

「悪いけど。彼女との決着には、先約があってね」

 口髭の男の呟きが流れたが、イヴァンの耳に届くことはなかった。





 僕達はアリシアと共に船着き場に着く。

 そこには屋形船を少し大きくしたような船が収まっていた。

 これが遊覧船。

 停泊中に遊覧したり、緊急時には救命艇としても使える。

 これを動かして逃げないといけないんだけど、動かせるのかな?

 船の操縦は意外と簡単だって言うけれど……。

 外への扉は開いている。

 考えてみれば外にはテロリスト達の船があるのだから、ここを開けたり、ここから逃げたりするのも危険なんだけれど、イヴァンがその仲間だったのなら理解できる。

 初めから示し合わせてのことなら、ここから襲ってくることはないんだろう。

 だけど今はもう連絡が行っているかもしれないから安心はできない。船で待機している者など多くはないだろうけれど、今は大人一人が襲ってくるだけで脅威なんだ。

 あまり悠長に構えてもいられないと、船に乗り込もうとする。

 でも思ったより船との間を繋ぐ橋が不安定だ。

「気をつけてください。私、そこから落ちましたから」

 遊覧時にはもっと安定した橋が掛けられるんだろう。おそらく一人で設置できないとかだと思う。

 でも、正直これは恐いな……、躊躇していると、バタバタとした足音が背後から近づいてきた。

 もう来たの!? と慌てていると、出てきたのは母と健太に陽子だった。

 母達は僕らを見ると安心したように顔を綻ばせる。

「良かったー。みんな無事だったのね」

 と母はMP-5を肩から下げたまま僕を抱きしめる。

 怖い怖いと腰が引ける僕に、

「大丈夫よ。弾はもう全部使っちゃったから」

 じゃ何で持ってきたんだよ、と思いつつも、今船で逃げるところだったと説明する。

 母はひとっ飛びに船に乗り込み、出港の準備を初めた。

 僕達も順番に、慎重に橋を渡る。

「ダメだ。私には分かんないわ」

 母が操舵室から顔を出して叫ぶ。

 アリシアにも分からない。準備は済ませていたと思ったのに、と嘆くように言う。

 どうしたものか、と途方に暮れていると、

「あれぇ? 君達、こんなところでどうしたんだい?」

 と場にそぐわない調子の声がかかった。

 共に船に乗り込んでいたカフェ「moriya」のマスターだ。

 ……がなぜか台車に大荷物を積んで運んでいた。

 運んでいるのは、金色というより褪せた黄色をした幾何学的な造形のオブジェ。

 僕の街、加々美原にある美術館で展示され、元の持ち主に返されるために輸送されているはずの美術品だ。

「なんでマスターがそれ運んでんの?」

 健太が空気を読まずに聞き、僕の顔面は蒼白になる。

 マスターがこれを盗み出すために人を殺しているかもしれないなんて……、いやそんな証拠は無いんだけど。

「ああ、これね。悪い奴らの手から守るためだよ。きっとあの連中はこれを狙って襲ってきたはずだからね。僕がちゃんと持ち主のために届けてあげるんだよ」

 僕は苦笑いするしかないが、健太達は「さすがマスター」と無邪気に感心していた。

 よく見ると遊覧船には既に大量の美術品が積み込まれている。ちょうど最後の品を運んできた所だったらしい。

「時に、船は動かないのかい?」

 母が肯定するが、マスターは「なら僕に任せて」と荷物を手際よく積み込んで運転室を操作し始めた。

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