一日目

 僕達はこの豪華客船『アチャラナータ号』の処女航海クルージングに乗り込んだばかりだ。

 何ヶ月もかけていくつかの国を周り、ほとんど地球を一周する客船の試験航海。

 今回はアメリカから出港し、日本に寄って、インドネシア諸島に向かうルートだ。

 僕達は日本で乗船した。

 レストランやレジャー施設、トレーニングジムに映画館やプールまで。

 タイタニック号ほど大きくはないが、最新技術を盛り込んだ、これまでにない新しい船だ。

 どうして僕達がそんな船に乗ることになったのかと言うと、少し前に僕達の通う加々美原小学校のある町で事件があった。

 正確には事故で片付いているんだけど、クラスメートが亡くなり、多くの人が傷付いた。

 その真相解明に空湖が一役買ったんだけど、証拠も無い話を警察にしても何がどうなるものでもない。

 そこで作家である僕の母がそれを題材にした小説を書いた。

 丁度差し込み原稿を探していた出版社はえらく喜んで、取材陣向けに配られたこの船のチケットをくれたんだ。

 もちろん豪華客船の取材を兼ねているので、帰ったら記事を書かなくてはならないみたいだけど。

 小学生以下の子供は何人連れてきても無料――良識の範囲ではあると思うけど――だというので、母は小説のモデルになった僕達を招待してくれた。

 実子である僕と小説の主人公モデルで事件解決の立役者である空湖。そして少年探偵団のような主人公の取り巻きのモデルにもなった同級生の健太と陽子。

 健太と陽子も先の事件では犯人の凶刃にさらされるという体験をしている。

 僕達が乗る前から既に外国の乗客もいたけど、やはり日本人客が多い。

 区画の一部は完全に日本だった。

 スタッフも気さくで日本語も完璧。僕達はすぐに仲良くなった。

 そしてワインの試飲会という名目のイベントがあるとかで見に来たんだ。

 そこで突然、そのうちの一人が倒れた。

 フロアの扉は閉められ、中にいた人達は試飲に参加していた人達と、見物に来た人達の2グループに分かれて固まっている。

 僕と空湖だけはその真ん中にいた。

 これが今の状況。

 そしてワイングラスを持つ容疑者と思しき人物は五人。それ以外の人達はワインやそれを持つ人に近づいてもいない。


 一人は若いショートカットの女性。

 この船の乗員で乗ってから何度か声をかけられた。明るく愛想のいい女性だ。

 遠目に見ていてもお年寄りなどにも優しく声をかける、男性なら皆好むだろうと思える。

 そしてこの女性は、さっき空湖が言っていたワインを飲んでいない人でもある。


 次にふんわりとした髪型が印象的なマダム。

 ドレスはシルクのようで、身につけているアクセサリーも高そうだ。

 いわゆる出るところが出ているナイスバディというやつだろう。

 乗船客のようで、突然事件に巻き込まれたのが不満なのか、訝し気な左右非対象の表情をしている。


 次にタキシードを着た東洋人男性。このフロアのスタッフでソムリエ。

 ワインは味見程度に一口飲んだくらいだ。

 動揺するかのように挙動不審なところはあるけれど、初めから「気弱で神経質そう」な印象はあったので怪しいと言えるほどではない。

 歳はよく分からないけど二十代前半くらいかな?

 ワインも彼が選んだ物だ。


 次に質素な制服を着た若い女性。

 彼女もスタッフでグラスやら何やらを用意して並べていた。

 甲斐甲斐しく良く動く、という言葉がピッタリ合いそうな可愛らしい女性だ。

 世間の男性なら「お嫁さんにしたいタイプ」と言うだろう。

 お酒が好きなのか半分くらい一気飲みしている。


 そして最後に、露骨に「なんて物を飲んでしまったんだ」という顔つきで舌を出しているセミロングの女性。

 歳は三十二才の魚座で、血液型はB型。

 豪華客船に乗るには庶民的な服装だが、大型ショッピングモールの開店セールを狙った物で買い値の割には高価なブランド品だ。

 既婚者で、旦那さんは投資家だがクルージングには参加せず家で仕事中。

 一人息子と一緒に乗船した客で、普段主婦をしているが兼業で作家もしている。

 名は倉橋朱美。つまり僕の母親だ。

 この人は犯人じゃない。……多分。

「コウ君はどう思ってるの?」

「うーん。ワインに毒が入っていたのなら、飲んだ人みんな死んじゃうから、グラスに注いだ人が怪しいんじゃないかな?」

「うん。注ぐ時にこっそり毒を入れれば、一つだけ毒入りにすることができるわね」

 ざわっと皆の視線が一人の男性に集まる。

「ぼ、僕じゃない! それに、そんな素振りがあれば誰か気が付くだろう? 誰か見たのか!?」

 若干取り乱したように言うソムリエに、空湖は穏やかな視線を送る。

「そうね。青酸性の毒は直接触るのは危険だし、小瓶に入れておいても証拠が残るし入れる時目立つ」

「それは、カプセルかなんかに入れておけば……」

「それだと時間もかかるし、ワインに何か入ってれば分かるでしょ」

 僕はうーん、と考え込む。

「それに、それだと誰が飲むか分からないんじゃないかな?」

 見物人のように離れた一団の中から声が上がる。

「そうね。でも、今の所無差別殺人の可能性も捨てきれないから」

 空湖は何でもないように恐ろしいことを言ってのけた。

 それなら……、と僕は、

「グラスに毒を塗っておく方法があるかな。それなら事前に仕込めるし、見ただけじゃ分からない」

「それだと、グラスを取り出して並べた人が怪しいわね」

 そうなる。他人が並べてはどれが毒入りか分からず自分が飲んでしまう危険がある。

 でも、無差別なら犯人がここにいる必要もないんだけど……、まあそれは無いんだろう。前提として。

「わ、わたしじゃない! ……わたしじゃない!」

 メイド服の女性が取り乱したように髪を掻きむしってうずくまった所で、外野から疑問の声が上がる。

「でも、無差別だとすると、メイドとソムリエ、どっちが犯人なの?」

「共犯っていう可能性もあるよな?」

 空湖はうーんと頭に指を当て、

「その可能性もゼロではないけど、こういう事件でそんなオチにはならないんじゃないかなぁ」

 オチって……。

 小学生とは思えない冷めた目と大人びた口調。

 僕らからすれば相変わらずだけど、初めて見た人は大抵奇異の目で見る。

 だが当の空湖は気にせず、倒れている男性の顔を覗き込んだ。

「やはりここは、この人を直接狙って毒を飲ませたと考えるのが妥当」

「でもどうやって?」

 僕がこの場にいる全員の疑問を代表して言う。

「それがこの事件の問題」

 と言いながら虫眼鏡を片方の目に当てる。

 凸レンズの効果で大きく見えて、かなりシュールな絵だ。

 空湖は虫眼鏡を通して現場の床を調べ始める。

「じゃ、コウ君。皆が飲み始める前のことを正確に覚えてるかしら?」

「飲み始める前? ……えーっと」

 ソムリエさんがワインを選んで、メイドさんがグラスを棚から出して並べていた。

 ソムリエさんがワインのラベルを見せて簡単に説明した後コルクを抜いた。

 そしてグラスに順に注いでいったんだ。

 それは皆の注目を集めていたので、その時に何かを仕込んだというのは考えにくい。

 ワインを選んだからここでは便宜上ソムリエさんと呼んでいるだけで、ホントのソムリエじゃないけどね。

 一通り注いだ後、思い思いワインを手に取った。

 量に違いがあるように見えなかったし、各々選んでいる素振りも無かった。

 皆一番近い物を取っただけだ。

 そして乾杯のように皆それぞれグラスをぶつけた。

 倒れてる男性はもちろん、僕の母も。

 組み合わせは覚えてないけど、総当たりしたんじゃないかな。

 被害者であるお調子者の男性は、人気があるのか終始誰かと話している様子だった。

 男性のグラスに接触する機会と言えばそれくらいだけど、こっそり何かを入れられるような感じじゃなかった。

「うーん、やっぱり分からないなぁ」

 ぼやくように言うと空湖は虫眼鏡を構えたままふふんと鼻にかけたように笑う。

 歳に似合わない、妙な色っぽさを持った流し目。

 ……虫眼鏡が無ければね。

 空湖がこういう顔をしたのなら、犯人とトリックが分かったのだろう。

 どうぞ。僕は降参……という素振りをすると、空湖は虫眼鏡でカーペットの床を見る。

「特定の人を狙ったのなら、グラスやワインに始めから毒を入れる可能性は少ない。正確には分かりやすい方法が無い。なら後から入れたと考えるのが無難」

 空湖は床に這いつくばるように身を屈める。

「そしてこの人のグラスに接触する機会が、グラスを合わせる時しかなかったのなら、その時に入れたことになる」

「そんなことできるの?」

 僕のもっともな疑問に特に答えることもなく、空湖は床の一点を凝視している。

「?」

 その視線の先に僅かに光る物が見えたような気がした。

 角度を変えながら見ると確かに何かある。

「コンタクトレンズ」

 空湖がチョイチョイと手招きしながら言う。

 僕がハンカチを取り出して手渡すと、空湖は証拠品を扱うようにつまみ上げた。

 それを鑑定するように眺めた後、僕にハンカチごと手渡すと、倒れている男性の首を持ってグキッと回す。

 そのまま瞳孔の開きを確認するように目を開くと眼球に指を当てた。

「空ちゃん!」

 思わず声を上げる僕に構わず、空湖はもう片方の眼球にも触れる。

「この人のじゃない」

 倒れている男性の物ではないのか、と僕は周りを見渡すが、もう一つ落ちてる様子もない。

 もっともよく見えないだけか、男性の体の下にあるのかもしれないけど。

「木の葉を隠すには森の中。砂粒を隠すなら砂漠の中。ガラスなら?」

 僕は少し考えて、あっと声を上げる。

「もしかして、このコンタクトレンズに毒が? それがグラスの中に?」

 でもどうやって? 投げ入れられるとも思えない。

 空湖は男性の持っていたワイングラスを取り上げる。

「この口の外側にノリでくっつけておけばパッと見分からない。そのままグラスをぶつければその衝撃でレンズは相手のグラスの中に落ちる」

「そんなうまくいくかな?」

「だから瞬間接着剤みたいな物で上だけくっつけて、下は空間を開けておく。そうすればぶつける時に引っ掻けるだけでレンズは相手のグラスの中に落ちる。殺したくない相手はグラスを逆にしておけばいい」

 と言って空湖はその動作をして見せる。

 確かにそれならグラスの中にコンタクトレンズを落とすことができるかもしれない。

 グラスに付いている時もよく見えないし、ワインの中に落ちてしまえばまず見えない。その後レンズの裏側に塗られた毒が溶け出す。

 でも、誰も気がつかないもんかな? 特に仕掛けをしてる時。

「この男性は女性に人気があるっていう設定だったから、女性は皆乾杯したがってた。他人の行動やグラスに何か付いてるなんてなかなか気がつかない」

「でも。それじゃ、誰にでも毒を入れる機会があったってことに……」

「そう。機会は誰にでもあった。でも、このコンタクトレンズが見つかった時に始めから落ちていたことにできるとは考え難い。清掃後、初めて使われる部屋かもしれない。凶器として特定されてしまう。ここはここにいる誰かが落としたことにするのが妥当」

 と言って、グラスを持つ人達の中の一人に虫眼鏡ごしの視線を向ける。

「ね? ずっと片目で見にくそうにしてるお姉さん」

 皆の視線はセレブ風の女性に注がれる。

 女性もギョッとしたように周囲を見回した。

「で、でも。そんなことってあるの? だってこの人は……」

 『乗客』だよ?

「これ。あなたのコンタクトレンズよね?」

「そ……、そうよ。私が落としたのよ。それがどうかしたの? たまたま落ちちゃっただけよ。私が毒を入れた証拠はあるの?」

 空湖はハンカチごとコンタクトレンズを手に取って虫眼鏡で見る。

「これはカーペットの上に表向きで落ちていたもの。後からワインがかかったなら裏には毒が付いていないはず」

 空湖はセレブ女性を見るが、女性はぐっと言葉を詰まらせた。

「それとも表面をキレイに拭き取って目に嵌めてみるかしら?」

 しばしの沈黙の後、女性はワッと泣き崩れた。

「その人が……、その人がいけないのよ! 彼女と別れて結婚してくれるって言ったくせに!」

 ひとしきり泣き声を上げると、ピタッと静かになる。

 そして取り巻く人達から一斉に歓声が上がった。

「すごいな。大正解だよ!」

 お医者の先生も惜しみない拍手を送る。

 倒れていた『被害者役』の男性はゆっくりと起き上がった。

「しっかし、いきなり目の中に指突っ込むかなぁ。危うく動いちゃうところだったよ」

 それは僕も凄いと思った。

「でも空ちゃん。人気がある設定……ってのはないんじゃないかな。これでも僕はモテるつもりなんだけどねぇ」

 はは……、と僕も苦笑いする。

「でも、いつ分かったんだい?」

「始めから」

 事実上の進行役だった医師の問いに空湖はしれっと答える。

「参加者の中に乗客が混ざっていた時点で怪しかった。日本人はシャイだもの。こういう催し物に進んで参加するのは子供みたいなお調子者かサクラだけ」

 同じく乗客として混ざっていた僕の母は目をパチクリさせる。

「そしたらその人は露骨に片目の様子がおかしい上にセレブを気取ったような手袋をしてるし」

「失礼ね。これは自前よ。私の家は本当にイイとこなのよ」

 と言って髪をかき上げる。

 マダムだと思っていたけれど、よく見れば化粧が濃いだけで見た目より若そうだ。

「表向きはそこそこ有名なデザイナー。でも本当は……お嬢さんなのよ」

 お忍びだからナイショでね、と耳打ちするように笑った。





「すごいすごい!」

 と見物人の中から高校生くらいの女の子が手を叩く。

「ホントに名探偵みたい」

 それにつられてか、空湖の周りには数人集まってきた。

「でも本当は片側だけコンタクトレンズをしている人が犯人……で正解だったんだけどね。それを『間違いなら裏には毒が付いてないはずだ』……なんて」

 お医者の先生が呆れたような、感心したようなため息をつく。

 そういう段取りだったのだが、犯人役の女性が突然「証拠はあるの?」とか言い出したため、仕掛け人達は内心焦ったと言う。

「仕方ないでしょ。私は直前に頼まれただけの素人なんだから」

 自称いいとこのお嬢様は口を曲げ、皆苦笑いした。

 実際にはトリックに使うレンズを接着したワイングラスも初めから用意されていて、それをメイドさんがマダムの前に置いただけだ。

 マダムは一応仕掛けをする「それっぽい」動作をしてくれと頼まれていた。普段コンタクトレンズもしていなくて、そういうフリをしていただけだ。

 だから毒がどのように仕掛けられて効果を発揮して……とか一応説明されていたけれどよく分かっていなくて、流されるままノリで反論してしまったみたいだ。

 確かにレンズの上から毒入りワインがかかったからと言って裏面が安全とは限らない。それにその場で拭き取ったところで安全とは言えないし、そもそも毒のかかったレンズは拭き取ったところで誰でも付けたくないだろうから、拒否することはなんら不自然じゃないんだけれど。

 現実的な推理ではなかったかもしれないけれど、この場合は自供を引き出した、ということになるのかな?

 そして余興イベントの会場だった娯楽室は、ワイワイと本当の試飲会が始まった。

 当然と言うかなんというか、さっき余興で飲んでいたのはただの葡萄ぶどうジュースだ。スタッフは仕事中なわけだしね。

 そんな中、先程惜しみない拍手を送っていた高校生くらいの女の子が空湖に近づく。

「ねえ、私とお友達になってくれない? 船には他に知り合いもいなくて、退屈してたところなの」

 後ろにいる連れらしい女性が「馴れ馴れしいよ」と袖を引くが、女の子は何やら文句のようなことを言い返している。

 空湖は相変わらずのしれっとした調子で承諾した。

「よろしくね。空ちゃん……でいい? 私はソフィア・ホリー」

 と自己紹介する。

 日本人ではないのか。でも言葉は流暢で完全に日本人だ。

 見た目もあか抜けてはいるものの、今どきの若い子には珍しくない。

 派手な所もなく、ごく普通の女の子だ。

 そしてその連れらしい女性――アリシアと紹介された――も同じくらいの年代だが、こちらは栗色の髪にハーフのような顔立ちをしている。

 言葉はソフィアと同じくらい流暢だがどこか硬い。ソフィアより少し歳上なのかもしれない。

 空湖が改めてフルネームで自己紹介すると、ソフィアは若干表情を強張らせた。

「水無月? 水無月って……あの大金持ちの?」

 後ろにいるアリシアも表情を硬くする。

 だが、一緒に船に乗った同級生――健太と陽子は呆けた様にきょとんとした顔で互いを見合わせると、声を上げて笑い出した。

「んなバカなー。こいつんち、すっげー貧乏なんだぜ」

 無遠慮に笑うが、僕も空湖の家には行ったことがあるんだ。

 ほとんど物は無く、借金取りが押し掛けてきて、僕も怖い目に遭った。

 ソフィア達は尚も笑い転げる健太達をやや唖然としたように見ていたが、母が「まあ、本当」と言うように苦笑いすると、納得したように顔を綻ばせた。

 母も家に来た空湖の――まるで食い溜めでもせんとばかりの食欲の――様子を見ているし、近所の噂も耳にしているだろう。

 当の空湖は何かよく分からないけど……というような様子でにぱっと笑う。

 片方しかない八重歯を見せて笑う姿は品性のカケラもない。

 同じ苗字も珍しくないし、と皆ひとしきり笑い、先程の重い空気が晴れていった。

 何でも『水無月』という財閥――とんでもない大金持ちの一族がいて、権力を傘に好き勝手やっていると言う。

 日本ではそれほど問題には上がらないし、僕達小学生の耳に入るような話ではないけれど、海外では犯罪の隠蔽はもちろん、武器の製造や密輸まで。

 もちろんそれは単なる噂だが、トラブルを起こして酷い目に遭うという話は実際に聞くことがあると言う。

 子供とは言え、水無月の人間に馴れ馴れしくしたとあっては心中穏やかではなかったということらしい。

 ソフィア達は「変なこと言ってごめんね」と笑い混じりに詫びた。

 健太達も互いに自己紹介したのち話も盛り上がり、皆でレジャーエリアに行こうということになる。

 団体となった僕達は揃って船内中央部に向かった。

 この船はレジャー施設も完備されていて、映画館などの娯楽施設も充実している。

 今回は試験航海だから稼働していない物も多いけれど、売店や飲食店などは本格的に出店していた。

 僕達はブティックとカフェが隣接している一角に差し掛かった。

「おやぁ、君達。奇遇だねぇ」

 人の良さそうな声に、僕は身を固くする。

 カフェの奥から顔を出したのは、この前僕達の街へやってきた喫茶店「moriya」のマスター。

 船の娯楽スペースの端っこに、臨時の店を出したようだ。

 椅子はカウンターが六席だけの小さな店だ。表に高めのテーブルもあるため、立ち話をしながらコーヒーを飲むこともできる。

 な、なんで……、と声も出せず口をパクパクさせる僕に構わず、空湖達は愛想よく応える。

「いやぁ、よかった。誰も知り合いがいなくて寂しいと思ってたんだよ。またコーヒーをサービスしとくよ」

 空湖達はきゃっきゃとはしゃいで駆け寄る。

「空ちゃんの友達なら一緒にサービスするよ」

 とソフィア達にも勧めるが、さすがに畏まったように遠慮がちだ。

「ささ、コウ君も遠慮せずに。大丈夫、毒なんて入っていないから」

 気さくな笑顔でぶっそうなことを言うマスターだが、雰囲気からは軽い冗談に聞こえなくもない。

 しかしこのマスターは、先の同級生が死亡した事件の後、親御さん達をそそのかしてその加害者を殺させようとしたんだ。

 そして実際加害者は死亡している。

 そしてそんな証拠はどこにもない。

 もちろん僕の勝手な思い込みなのかもしれないけれど、先の事件の黒幕は今ものうのうと生きていて、僕達の近くにいることは間違いないんだ。

 そしてマスター自身、僕と空湖がそれに感づいていることを分かっているように思う。

 空湖は今まで通り何も変わらず接しているけど、僕はどうしても構えてしまう。

「でもマスター。どうしてこの船に? もしかして、どっか行っちゃうの?」

 健太が少し寂しそうに言う。

 健太と陽子は何かにつけてサービスしてくれるマスターと店を気に入っているようだった。

「いやぁ、しばらくの間はね。この船には色々な国の人が集まるからね。僕も色々な国の文化を勉強したいから。でもすぐいつもの店に戻るさ」

 返さなくちゃいけない借りもあることだしね、と意味ありげな言葉と共に僕にウインクをよこす。

 なんで僕に? と表情を引きつらせた。

「そうだ。話のネタに一つ教えておいてあげるけど。この船にいつぞやの美術品が積まれてるらしいよ。試験航海だけど、輸送なんかも兼ねてるらしいから。元の国に返却するみたいだね」

 ああ……それで、と僕は内心納得する。

 美術品は元々先の事件の黒幕が盗み出す計画だった物だ。

 その事件では殺人事件に人の目を向けている間に裏でこっそり盗み出す計画だったけど、空湖の活躍でそれは阻止されたんだ。

 だから無事返却されるに至ったんだろう。

 でもその船にマスターが乗ってるってことは……やっぱり、と空湖を見るが、何も気にしていないようにカップケーキを頬張っている。

 いや、ケーキはサービスすると言われてないんじゃないかな。

「美術品は狙われやすいからね。今回もそれを盗もうとしている奴が、こっそり船に紛れ込んでいる、なんてこともあるかもしれないよ」

「でも、たまたま目の前で盗まれるようなら、善良な市民としては然るべき行動を取るべきじゃないかしら」

 にぱっと笑う空湖に、マスターもそうだよねぇ~と笑う。

 何だろう。リターンマッチを申し込んでそれを受けた、みたいな展開じゃないといいけど……。

 マスターは手早くケーキを切り分けて皆に配る。

 僕も控えめにケーキにフォークを突き刺した……けれどふと思い出したように言う。

「そういえば、あのウェイトレスさんはいないんですか?」

 確かクリスティーとかいう、プロ顔負けのパントマイムを使う女性がいたはずだ。

「何言ってんだ。いるじゃないか」

 え? と辺りを見回すと、隣のブティックに並んでいたマネキンの目がギロッと動いた。

 ぎょっとして固まっているとロボットのような動きでお辞儀する。

「うわぁ、全然気が付かなかったよ」

 相変わらず凄い、と皆いつものパフォーマンスに喜んでいるが、僕は心臓が止まったように固まったままだった。

 ブティックは開店準備までしたが直前になってオーナーが来られなくなったらしい。

 今回の乗客は皆素性が明らかな者ばかりだし、社会的地位がそこそこ高い者しかいないはずだから、盗難の心配は無いだろうと、特に撤収することはしなかったそうだ。

 一応マスターに横で見ていてほしいくらいは頼まれているが、責任を課すようなものでもない。

 店内に明かりは点いていないが、電球の付いた長い電線が張り巡らされている。

 後はマネキンが二体あるだけだ。

 壁や天井に吊るされている服を見ても、ゴスロリというか、独特のデザインで、正直これを盗んで船の中で着ようという人の気は知れない。

 確かに放っておいてもあまり心配はなさそうだ。

 マスターはいつもの気さくな調子で世間話をする。

 接客業のためかマスターは結構な情報通だ。

「そういえば、プリマ王国の王妃様が亡くなって、後継者が即位することになったんだってね」

 出航前はその話題で持ちきりだったと言う。

「日本じゃ縁のない話だけど。王国ってのは王位継承者争いが大変みたいだね」

 取り入ろうと近づく者、取り込もうと画策する者、はたまた命を狙う者。

 くだんの王国の中では次期継承者はいないという話だから、暗殺みたいなぶっそうな話はないだろうということだ。

 この客船には他にも見て回る施設は色々あったのだけれど、僕達はマスターとの会話に気をよくして時間を忘れるほどだった。

 ワインの試飲会にいた人達もよく通りがかって会話に加わっていく。皆空湖のことはよく覚えているようだ。

 前にあった事件なんて、僕の夢だったんじゃないかと思うほどの和やかな雰囲気のまま、僕達は翌日を迎えることになる。


 そしてその和やかな雰囲気は、本物の死体の発見によって打ち壊されることになる。


 ワインの試飲会で犯人役だったマダムが、船内のプールに全裸で浮かんでいたのだ。

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