留年寸前三分前

砂塔ろうか

留年寸前三分前

 ○○には三分以内にやらなければならないことがあった。

 それは自分の名を思い出すことである。


 鉛筆を置く音。問題用紙をめくる音。誰かの寝息。

 学期末テストの再試験会場は、留年が掛かっているという事態の深刻さとは裏腹に、厳粛さと弛緩した空気の丁度中間のような様相を呈していた。

 多くの学生にとってすでに大勢は決している。試験問題を全て解き終えて、ケアレスミスなどがないかのチェックも済ませた者が大半だろう。


 もまたその一人。

 だが、机に突っ伏して試験終了の合図を待つわけにはいかぬ事情が彼にはあった。


 自分の名前が、どうしても思い出せないのである。

 ——不意に自分の名前が、自分の名前だけが思い出せなくなるなんて何かの病気なのでは。

 不安に思う気持ちはあったが、今心配したところでどうにかなるものではない。試験が終わったらすぐにでも病院に行こうと心に決めて改めて彼は答案用紙に向き直る。


 名前の欄だけが空欄だった。


 そこさえ埋まれば、この試験での合格は確定したも同然だった。


 鉛筆を握る手に力が籠もる。

 下唇を噛んで、考える。

 どうすれば自分の名前をここに書くことができるのかを。


 第一案、頑張って思い出す。

 これはすでに何十分と——試験開始からずっと続けている。しかし今のところ成果なし。名字すら思い出せずにいる。オールインは無謀というものだ。


 第二案、学籍番号から類推する。

 この学校では試験の際、クラスや出席番号を記入する代わりに学籍番号を記入することになっている。彼は名前は思い出せないが学籍番号なら問題なく記憶しており、記入も済ませていたので学籍番号をヒントに名前を辿ろうという考えだ。


 学籍番号は全部で7桁。「西暦4桁の入学年度」と「その年の入学生全体内をあいうえお順に並べたときの順番」の二つの要素から構成される。名字の最初の一文字が何か、当たりをつけることくらいはできるだろう。

 学籍番号最後の三桁は256だった。彼の記憶では、この数字はちょうど入学時の、自分の同級生の数に合致する。


 ——自分の名字は「わ行」の名字だ。

 和田わだ渡辺わたなべわたり鰐淵わにぶち——ぱっと思いつくのはそのくらい。この4つの中にあるのか、ないのか。そこまでは彼には分からなかった。


 時計を見る。長針が僅かに動いた。

 残り時間、あと二分。

 最早手段を選んではいられない。


 第三案、試験官の持つ受験者名簿を盗み見る。


 試験官は受験者名簿の挟まったクリップホルダーを手に持ち、会場を巡回している。試験官を務める教師は神経質で、クリップホルダーを手に持っていないと気がすまない質だ。

 その試験官が数分前、一つ列を挟んで向こう側を後方へと歩いていったのを彼は見ていた。

 そのまま彼のいる左端列の方へ来て、前へと歩いてくるのならば、試験官はまもなく彼の席——会場左端列の一番前——の横を通り過ぎるはずだ。

 あるいは、そこで名前を書いてないことについてなにか言われるかもしれない。

 だが、それで正直に事情を話して名前を書かせてもらえるかは分からない。それになにより——プライドの問題もある。

 彼にとって、誰かの温情に縋るというのは「負け」を意味する行為だった。


 足音が近付いてくる。

 彼はタイミングを測る。

 タイミング良く消しゴムと鉛筆を机から落とせば、試験官はそれを拾おうとするはず。そして、その際にクリップホルダーを抱える形になるはず。

 その状況で、どうにか名簿の最後の名前を盗み見ることができれば——。


 蜘蛛の糸のように細い希望であることを承知のうえで、彼は構えた。


 次だ。


 いち、に、さ…………




 ——カラン。




「!?」


 その音は不意に、背後から聞こえてきた。

 彼が意図的に落とそうとした鉛筆を、故意か偶然かは知らないが、落とした者がいたのだ。彼から見て右隣列の、彼から見て後方に座る学生の仕業らしい。


「落としましたよ」

「ありがとうございます。でももう試験終わりですし別に……」


 小声のそんなやりとりが聞こえてくる。学生の余裕そうな態度に内心彼は腹を立てたが、ここで手を止めてしまえばもう次はない。


 彼は意を決して賭けに出る。


 机の上から消しゴムを滑らせ、落とす。

 続いて鉛筆を——と落としかけて手を止めた。


 はたと気付いたのだ。


 鉛筆を落として、名簿を盗み見ることに成功して——その後は?

 試験終了寸前のギリギリ。試験官に拾ってもらった鉛筆を受けとってから、名前を書ききるだけの十分な時間は果たしてあるだろうか?


 ……果たして、彼の思惑通りに試験官は名簿を抱えて消しゴムを拾う。

 一瞬。時間にして一秒にも満たないであろうチャンス。

 極限まで集中した彼の脳はその光景を見事記憶に焼き付けた。

 試験官の持つ名簿の一番最後の名前——それは「鰐淵ミヒャエル燈箭」。


 画数の多い漢字ばかりだった。しかもミドルネームまであった。


 消しゴムを受け取る暇などない。

 一心不乱に、その名を書く。

 一字一字を書くのに手間取る感じはしなかった。なるほどこれは自分の名に違いない。

 決められたルーティンをこなすがごとく、手は動く。


 ————名前を書き終えた時、彼は確かな充足と達成感を味わっていた。


 ふう、と息をつくと同時に鐘が鳴る。


 そしてようやく彼は、試験官が差し出していた消しゴムを受け取り、礼を言う。

 試験官は呆気にとられた様子で声も出せずにいたらしかった。

 それだけ彼に鬼気迫るものを感じたのだろう。


 やっとのことで、といった様子で試験官は言葉を絞り出す。


「…………あの、君? どうして、そこに今日病欠した転校生の名前を書いたの?」



 ◇



 結果として、彼が留年することはなかった。

 試験官の温情に救われたかたちである。

 また、名前のど忘れについては過度の緊張が原因だろうとの診断が下った。


(了)

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留年寸前三分前 砂塔ろうか @musmusbi

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