第5話「今川義元、五月十九日此山の麓に休居給ふ。」

 永禄3年・5月18日夜。


 今川方の手勢、松平元康が兵八百を率い、大高城へ救援に向かう。

 丸根砦に詰めていた織田家武将、佐久間大学が応戦。




「御注進! 御注進!」




 5月19日朝。


 今川義元、総兵数およそ二万五千。うち五千以上を沓掛城より発す。

 佐久間大学、討ち死が確認される。



「御注進! 御注進!」




 織田上総介三郎信長、熱田神宮に参詣す。

 二千以上の兵を糾合し、善照寺砦へ急行。




「御注進! 矢野隊からの急報によりますれば──」




 昨夜から目まぐるしく訪れる使者・間者に対し、藤吉郎は初めて言葉を遮った。


「察するに、新左ヱ門の手勢と合流できなんだ、という報であろう。違うか」


「……相違、ござりませぬ」


「彼奴の率いる百名は、熱田に先回りして上総介殿の本隊と合流しておるはずだ。急ぎ返報し、矢野を安心させてやれ」


 と、ここで藤吉郎は何か思い当たった顔をして言う。


「木下藤吉郎が、『情報を前後させて申し訳なく感じていた』とひと言添えてくれ。必ずな」


「はっ!」


 言いながら、藤吉郎はふぅと息を吐いた。

 薄々そうではないかと思っていたが、やはり、新左ヱ門は木下軍へ報告していた事前の手はずを裏切るようだ。自らの調練した『ばふぁろー』の軍を率い、織田信長の先陣に加わって、その突進力を示すつもりだろう。


 今さらそうした嘘を咎める気力もないが、後詰として忠実に働こうとする他の部下たちの心労は和らげてやらねばならぬ。矢野へ返報を送るために走り出す使者へひと言添えたのは、藤吉郎なりの気遣いであった。


(今の使者が矢野の隊へ合流する頃には、織田軍と今川軍の衝突が起きておろうな)


 沓掛城から発した今川軍は、大高城へ向かうはずだ。でなければ松平元康を使って織田軍の包囲網ど真ん中にある大高城を救援させるはずがない。


 あるいは大高城を囮にしても、大軍の動きは手に取るように分かるはずだ。織田軍が既に兵を糾合しながら大いに駆けている最中であろう。見晴らしのよい善照寺砦ぜんしょうじとりでへ向かったというから、砦に至らば、敵の動きを察知し、機先を制すためにどこぞで突撃戦をぶちかますに違いない。


 とすれば、両者が衝突するのは桶狭間の辺りか。数では今川が一段も二段も優っているが、悪路の続く地であるから、織田軍も勝機を見出せる余地はある。


(それも、迷いなく突貫できるだけの死兵があればこそだ)


 新左ヱ門の企てとしては、とにかく織田の先陣へ加わり、百名の兵が一兵たりとも残らぬに至るまで無茶苦茶に突進してやろうという魂胆だろう。


 彼は兵を募るにあたり、独自の方式で恩賞を分配すると定めていた。


『総勢百人のうち、以下の恩賞を、戦後木下藤吉郎へ手続きした者にのみ分配する』


 つまり、こういうことだ。


(彼奴は、味方が死ねば死ぬほど、生き残った者だけが儲かる仕組みにしておった)


 ここに、百万円を百人で山分けすると仮定する。

 一人あたり一万円の取り分だが、戦の後に残るのが五十人であれば取り分は倍になり、十人であれば十倍となる。上手いこと一人だけが生き残れば、百万円の総取りだ。


 戦が穏当に終われば報酬が減じることを示すと同時に、兵の逃亡を防ぐための手立てでもある。だが、それだけではない。


(三位一体の訓練。あれは恐らく、相互に監視させる意味合いを含んでおろう)


 兵が一人だけの身ならば、戦の勃発と同時に戦場から身を隠し、後になって分け前だけいただくことも不可能ではない。二人で一人と扱えば、そうした潜伏・逃亡は難しくなるし、三人であれば難易度は更に上がる。何より、二人ではなく三人となれば──、


(俺の危惧するの起こる確率が、跳ね上がる)


 藤吉郎は、今すぐにでも新左ヱ門の軍に追い付き、彼の真意を確かめてやりたくて仕方がなかった。

 実際、信長から後方待機の指示がなければすぐにでも先陣へ追いすがろうとしただろう。藤吉郎の頭の中は、どういう趣向であのクソ・ボケナス・たわけ・ウンコ・ゴミカス大馬鹿野郎を責めるかということでいっぱいである。


 戦の形勢がどうあれ、新左ヱ門の率いた軍の働きを検分した信長が、『ばふぁろー』の軍に疑問を抱いてしまえばまずい。織田が今川に敗北するのはあってはならないが、勝ったとて、信長相手に究極の選択を迫られるおそれがある。


(兎も角、上総介殿に露見する前に俺が彼奴を問い詰めなければ)


 新左ヱ門の率いる百程度の手勢が、恐らくは戦の趨勢をも左右できる存在になっていることが口惜しくてならなかった。そうでなければ信長の命に反して持ち場を捨てても現場へ急行したものの、しかし、今川の大軍へ勝つ確率が一分でも上がるのだから邪魔をしてやるわけにはいかぬ。


 ──藤吉郎は今や、新左ヱ門の用意したであろう『ばふぁろー』の軍団に織田家の希望を認めていた。認めざるを得なかった。彼が兵を集め、猛牛へと化けさせたと確信できる根拠があった。


 織田家が勝つかどうかは分からぬ。

 

 だが、勝つ見込みはある。勝利するようなことがあれば、それは恐らく、猪か、駑馬か、猛牛か──人ならざる突貫力を有した一団が織田へ味方しての結果となるのではないか。


 尾張の空は、雨模様になりつつあった。

 雨が降れば、織田軍の動向が幾分かは今川に悟られにくくなるだろう。


(この戦、夕刻を待たず大勢決するやもしれぬ)


 藤吉郎は、駿馬にいつでも乗れる用意をしておこうと考えていた。

 戦が織田の勝利で決した後、一秒も早く信長へ目通りを願わなければならなかった。






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≪……永禄三年、駿州今川義元四万の勢とも画ふし清州え打入んと、五月十九日此山の麓に休居給ふ。折から俄に夕立しきりにして、前後も見へざるに、織田信長三千余騎を二手に分、一手は先手に当らせ、自は南へ廻り来て本陣へ急に攻懸り給ひしに、思いがけなき駿河勢あわてさはぎ、数多討れ、義元も討死し給ふ也。……≫






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