第6話「六文字の報と主の忠告」
二者択一の岐路が、目の前にある。
正解を選べば、武士にとって何物にも代えがたいものが手に入ろう。不正解であれば忽ちの内に全てを失うことは明白であり、「木下藤吉郎」の天下がこの問答一つに懸かっていると言っても過言ではなかった。
「次ぃ。木下藤吉郎、参れ」
俺を呼ぶ声がする、と藤吉郎が勘付くと同時に、ねじ切れそうなほどに痛む頭がずきんと音を立てて鳴った、ような気がした。
得るか、捨てるか──。この数時間で何度思い浮かべたか分からぬ二択を、いま一度だけ脳裏に浮かべ、藤吉郎は声がする方へ向かった。
「ここに」
呼ばれた場所へ歩を進めると同時に、相手の姿を認めて平伏する。
頭の先には、織田上総介三郎信長が座していた。ひと戦を終えたという空気を漂わせながら、頭巾を脱がずにまたいつでも進発しようかという佇まいでいる。
「苦しうない。楽にせぃ」
「いえ。殿の御沙汰を待つ身ですから、このまま進めてくださいませ」
は、と信長は息を吐いた。
あるいは、笑ったのやもしれぬ。あってはならない軍団が組織されるきっかけを作り、あまつさえ信長の陣立てにその一団を加えてしまった己へ科される裁可を思うと、藤吉郎は主人の顔を直視することもできなかった。
桶狭間の戦いでは、織田・今川併せて三千余の死者が生まれたとされている。
雨で濡れた戦地は荒れ、土に人の血が混じり合い真っ黒な泥がそこら中を流れた。
この一戦を受けて方々から離れた間者は蜘蛛の子を散らすように日ノ本を駆け回り、『今川義元死亡』と六文字の報を伝えた。
両軍が衝突したのは昼頃と言われているが、今川軍の先陣を切り、大高城へ入っていた松平元康がこの報せを受けたのが夕刻のことである。二千三千を越える死者を生んだ大戦でありながら、それほどに早く決着のついたとはにわかに信じがたいが、創作であれ公正な記録であれ、複数の史書に近い数字が記されているのだ。
少なくとも、一抹の真実性が桶狭間に記録された死者数に宿っていると思わざるを得ない。
そして、今。
今川義元の死から日が明けた現在、木下藤吉郎は織田上総介三郎信長の前へ首を投げ出している。とりもなおさず、あの男がひり出してきた百名の軍勢に関する詰問であった。
「藤吉郎ぅ。そなたの軍に、新左ヱ門なる智恵者がおったと聞いておる」
「はっ。智恵はともかく、口の回る男には心当たりがございまする」
「はは、新左ヱ門がなぁ。あの新左ヱ門とかいううさん臭い男がな、ははは」
この日の信長はやけに笑い上戸であった。
判決を言い下される罪人のつもりで自ら信長へ目通りを願った藤吉郎だったが、ほっと、安堵の息を吐いた。全く油断はできないが、即・打ち首のような最悪を超えた最悪な事態が起こらずに安心した次第である。
「あの男、みょうちきりんな仮装をした手勢を率いて『
「どうやら、左様であったとそれがしも聞いて存じます」
あいつ
「前に一人、後ろに二人の三つ巴で槍を構えさせ、三人を覆うほどのボロ布を被せておった。藤吉郎よ、この意がそなたに分かるか」
「思うに、三人のうち一人だけに視野を与え、後ろの二人は前進に専念させたのでございましょう」
二人羽織を変形させるような形で、隊列を組ませたのだと藤吉郎は把握していた。
後ろの二人は前の一人を信じて進む他なく、前の一人も、後ろの二人に背中を晒す格好となる。総勢で百名いれば、三位一体で三十三体の歪な三人羽織を作れたはずだ。残る一名の先導者──新左ヱ門が御者を務める、猛牛軍団の出来上がりである。
「土色の布が、後ろ二人の頭でもこりと盛り上がっていてなぁ。各々に大小は違っておったが、背中か腹だけが盛り上がった水牛のようであったわ」
見たままの印象を述べながら、信長は「ふふ」と鼻息を荒くしていた。
死地にあって、よほど面白かったのだろうか。あの男のやることが笑いに繋がったという点については、口惜しいが、納得してしまう藤吉郎である。
「お前にも見せたかったわ。今川の軍勢を、全てを破壊しながら突き進む
「全てを……でございますか」
「うむ、うむ。
「……で、ございますか」
新左ヱ門は、後払いの方へ大きく比重を傾けた恩賞を、生き残りが少なくなればなるほど額面が増えるように約束していた。
自分も仲間も死地に入って大金を得るか、大金を投げ捨ててでも逃げるか。死ねば家族が多少の施しを受けられる反面、逃げれば恩賞はチャラだ。三位一体の、相互に監視し合う関係となった兵士たちである。前後の仲間が一人消えれば自分が死ぬ確率が跳ね上がるから訓練にも身が入ろうし、逃亡など決して許さぬ。そして、いざ合戦となれば、飛び込んでいくしかない。
新左ヱ門の揃えた『ばふぁろー』の群れの内実は、まさに死兵だ。
死ぬ覚悟を得た兵、ではない。死地に臨まざるを得ず、生死が左右される場で無我夢中に駆けるしかなくなった動物の群れである。
「さて、藤吉郎よ。この度目通りを願ったのは、そなたの方であったなぁ」
「ははっ」
「なんぞ、念押しでもあるか。あるいは、報奨の前借りかぁ?」
「それがし、確かめたい事実が一点のみござる」
「申してみよぉ」
藤吉郎は、激流に身を委ねる思いで口にした。
「此度の戦、織田勢に同士討ちが起きたか否か、確かめたく──」
「知ってどうする」
被せるように問い返した信長の表情に笑みはなかった。
藤吉郎の方は未だに頭を下げているから、声の冷たさから、彼の真情を察するしかない。
どうする、という言葉に継がれた語句はなかった。
得るか、捨てるか。藤吉郎は、この一言に自身の身命を賭すつもりで、信長へ突っ込んだ。
「恐れながら、此度の戦の記録におきましては『織田軍に同士討ちは無かった』旨を書き添えていただきたく存じます」
「答えにぃ、なっておらぬ」
すると信長は、顔を上げるように藤吉郎へ命じた。
一度目は断っても、二度の命とあれば逆らいようはない。藤吉郎が頭を上げると、犬のように尖った、信長と目が合った。
「余にはわからぬ。たかが同士討ちの有無が、そこまで大事かぁ」
「それがしには、大事なのでございます。新左ヱ門の用意した手勢は我が意向によるもの。それがし戦場を検分したのみでござりますが、察するに、あの愚牛の群れの如き軍勢は突進の勢い余って織田軍へ害を及ぼしたのではありませぬか。槍の穂先の一寸であろうと、殿の手足となるべき兵を傷付けた者がおりますれば、それがし一生の不覚にござる」
「事の真偽も確かめず、軍記の編纂を願うとなぁ。そなた、そこまで身の程知らずであったか」
「返す言葉もございませぬ。ただただ、
そこまで言って再び頭を下げると、信長は、
「かっ」
と、
「一応言うておくがな。左様な僭越を望むとあらば、新左ヱ門だの、
「存じておりまする。どうか、どうか」
「貴様、奇抜な軍勢を以て余を助けた実績が不要と申すか。今川打倒に貢献した報酬を捨て、身命を賭した兵の名を捨て、何を得るかぁっ」
「全てを捨てたらば、此度の戦にて軍の末席を汚した汚名も捨て去ることができまする。それがし、何も得ることを望みませぬ」
さほど年の差もない男に大喝を受け、藤吉郎は涙がこぼれそうであった。
だが、泣くわけにはいかぬ。小物とて、一軍の将として信長を影日向に支えた男の矜持がある。『捨てる』と決した己が運命に賭けた男の、意地の見せ所だった。
「おい、ネズミぃ。これだけは言っておくぞ」
今更だが、ネズミというのは、信長が藤吉郎を呼ぶ際のあだ名である。
ちょこまか鬱陶しいほどよく動く、背の小さい者という文脈で名付けたらしい。ここにおいてその名で呼ばれ出したことの意味を、藤吉郎は考えずにはいられなかった。
「余は銭を重視し、銭で人を動かす。だが、銭に力があるのではない。人が銭に力を与えておるのだ」
「……」
「銭のために人を殺すと考えたらば、主客転倒ぞ。これだけは、肝に銘じておけ」
「……はっ。心の臓へ刻み込む思いにて!」
かくして、藤吉郎の、信長への目通りは完了した。
──此度の戦は、間違いなく、織田家にとって、また今川家にとって一世一代の大戦であった。この半日で見聞きした情報や信長の言からすると、あの大法螺吹きは想定以上の戦果を以て織田軍へ貢献したようだ。……その事実を藤吉郎自らが『なかったこと』にしてしまったわけであり、どうにも虚しさは禁じ得ない。
あの心労も。
新左ヱ門の頑張りも。
死地に臨んだ兵たちの働きも、何もかもが消える。
代わりに残るのは、生き残った兵や遺族への、莫大な額の恩賞・補償のみである。
織田の先陣へ手勢を加えた実績を捨てたのだから、信長から恩賞に与ることも望めないだろう。身銭を切るのは藤吉郎であり、勝ち戦なのに、火の車に追われる日々が待っている。
だが、これでいい。それでいいのだ。
ともすれば、藤吉郎はあの場で信長に斬られるつもりであった。それだけのことを新左ヱ門がやらかしたという焦燥感があった。あの男が編成した三十三体の猛牛軍団は、短期間で生まれた強力な組織である。だが、その存在が歴史に残るようであってはならない。なぜなら──、
「そうじゃそうじゃ、ネズミ。ひとつだけ言い忘れとった」
「……何事でござりますか」
「あの、新左ヱ門とかいう男な。殺しておいた方がいいぞぉ」
「……御忠告、痛み入りますれば」
「あと、お前が手配した矢野何とかいう二、三百の歩兵だがなぁ。一度後方に退かせて……」
「恐れながら。……『これだけは』とか『ひとつだけ』とか、仰ったばかりでござろう!」
やはり、得るよりも捨てることを選んでよかった。藤吉郎は確信した。
信長は、新左ヱ門の募兵が、織田、木下の方針へ全く矛盾していることに気付いていたのだ。であるから、彼らを死ぬまで利用し尽くした上で、最後に首謀者の首をはねろと命じている。
(はて。俺が『ばふぁろー』の功績を誇っていれば、殿は何を命じただろうか)
藤吉郎は、右手の指で己が首を撫でた。
長い緊張に晒されていた指先は、冷えて、鋭さを持っているような気がした。
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