第4話「再三再四の報・連・相」

 5月も半ばを過ぎ、尾張の空気は張り詰めていた。


 いよいよ、今川義元が軍を動かしたのだ。総数で四万とも五万とも言われるだけの兵が、彼に従って沓掛城へ進軍したとの報である。実態はその半数かそこらであろうが、いずれにしても二万を越える軍勢はとてつもない動員数であった。


 織田軍もまた、応手を打つ準備はできている。

 熱田・津島の勢力を糾合して千、二千は越える兵力を捻出するだろう。既に、熱田神宮の宮司には話を通して参詣の手はずを整えている。


 今川義元が大軍を動かし、織田信長もそれに応じる。これまでのように城や砦の獲った、獲らないに留まらず、大将首の一つ、二つが飛んでもおかしくないほどの大乱が幕を開けようとしている。


「まずい……」


 そう呟いたのは、誰あろう、木下藤吉郎である。


「何が、まずいのですかな」


 傍に控える矢野が応じてきた。

 

 矢野某。家名の他は史書に名は残っておらず「某」と称する他ない彼は、藤吉郎の用意した歩兵三百を率いて、信長の手勢に合流する手はずであった。主人の傍に召されており、今にも進発の指示が下ってもおかしくない状況で『まずい』のひと言である。聞き返さずにはいられず、つい、疑問を呈してしまったのだ。


「まずいのは、お前ではない。新左ヱ門の方じゃ」


「あやつですか。さて、ばっふぁろーとやらは揃えられたのでしょうかな」


「例の牛ではない。牛を御すための、死をも厭わぬ兵の募り方が問題なのじゃ」


 藤吉郎は、矢野の前に紙束を突き出した。

 紙束は新左ヱ門が書いた帳面らしく、募兵に応じた兵の名前と家族の居住地、そして、戦における報奨金の額が記されていた。


「これは……。随分と気前のいい金額でござるな。くだんの猛牛を制するためとはいえ、ここまでの金子を保証するとは」


 矢野の口調には、ただの思い付きに大金を費やされては我々の立場がない、という皮肉が込められていた。

 無論、藤吉郎も彼らのそうした反発は承知している。事態が緊迫しているからこそ、「今川を抑えるためなら」と軍中の不満が爆発せずに済んでいるのだ。


 しかし、問題は金額ではなかった。


「新左ヱ門の奴めが……。この段階に至って、俺にかような書面を送り付けてくるか」


 藤吉郎が放り捨てた文書には、兵へ与える報酬金のみならず、そのが記されていた。


「考えてみれば……あの男はまるで時間がないというのに、事後承諾で構わぬ程度の報告書も綿密に作っておった」


 兵へ約束した恩賞、訓練の内容、入用の道具、その他……。


 新左ヱ門の報告書は目を通すのも面倒なほどであり、堺商人と繋がっていた彼の性格かと思われた。記録を藤吉郎の目に通すため、必要な紙の手配や使者のやりとりにも金が掛かるのに、何を考えているのかと疑問に思うこともあった。だが、今にして思えば腹立たしい小細工だったのだ。


 詐術を見破るのが得意な者であろうと、瞬時に看破できるわけではない。

 あの男がやけに細々と記録をつけていたのは、一つ、二つの詐術が露見する時間を稼ぐため、百、二百の真実を山のように積み上げることを厭わぬ、卑劣な細工であった。


 思考が煮詰まってきて、腹立ちまぎれに、矢野の名を呼んだ。


「お前、新左ヱ門がどのような練兵をしているかは知っておるか」


「はぁ……。恐れながら、そちらの書面に記されておりますれば」


 矢野もそれなりに目端が利いた男なのか、藤吉郎が放り出した紙束から、一枚を手に取って読み始めた。


「こちらによると、兵を三位一体とし、一頭の牛を三人で挟むような列を作らせると。牛が逃げないように両脇を囲い、一名が牛を導くための三位一体として、槍を構えたり走り出したりする調練を行っている……とありますな」


「どう思う。効果的や、否や」


 藤吉郎の問いに、矢野は「愚考いたしまするに」と前置いてから続ける。


「それがし、妥当な策とは思いませぬ。気性が未知数な畜生を用いるので、逃がさぬ、導くという意図は理解しますが。いっそ、両脇だけの二人で組ませて『ばふぁろー』自身を先頭に敵陣へ突っ込ませとうございますな」


「お前もそう思うか。……まあ、この期に及んで彼奴の考えを疑うのも詮なきことだ。ただの与太話よ」


 移動速度を一定に保つため、馬の脇を人に挟ませて進むという話は聞いたことがある。三位一体では、先頭に立った人間が猛牛の突進力を減じさせるのではないかと、最初は藤吉郎も考えた。


 だが、報酬金の分配方法を知らされて藤吉郎は確信に至った。


 新左ヱ門は、最初から『ばふぁろー』を用意するつもりなどない。

 だから、『牛に成れる者』を求めていたのだ。

 故に、訓練も隊列も二人一対ではなく、三位一体である。


『生き残った者、一人ひとりに、殿が会ってくださるということに大きな意味が生ずるのでござる』


 その意味を、藤吉郎は知り得た気がした。


(この推測が正しければ、俺はあいつを生かしておけぬ)


 取るに足らない記録の一つひとつを積み重ね、無価値なものに価値を作り出す。

 細かすぎるほどの気遣いは、受け手に対して「ああ、またやってるのね。しつこいな、分かった分かった」という一種の信頼を知らず知らずのうちに生み出していく。状況が逼迫しているからこそ、つまらない一枚の文書が信頼関係を保証し、それは転じて、戦においてこれ以上なく心強い力となるのだ。


 『史記』に名高い秦国の将・王翦おうせんは、大国である楚を打倒するにあたり、恩賞に関する確認の書簡を再三再四にわたって王へ送り付け、彼が王翦の叛心を疑うことが無いように仕向けたという。組織を動かす者が報・連・相を重視するのはいつの時代も同じことであり、当代にては誰あろう、木下藤吉郎が実践してきた「やってるアピール」こそ、己の力を増すための処世術でもあった。


 だが、新左ヱ門の採った手段は、目上の者の評価を稼ぐという次元ではない。

 彼が行ったのは詐術を通すための細工である。ここに至ってその真意が露見しかねない文書を送ってきたのは、邪魔が入らぬことを確信した上で、藤吉郎に裁可の認を仰いだためだろう。


 そして藤吉郎の推測が正しければ、あの男は──、




(──俺を詐術のとする気だ)




 さぞかし、険しい表情を見せていたのだろう。

 傍にいる矢野が、また何やら怪訝な目で見てきたことに気付いて藤吉郎は肩の力を抜いた。胸中は新左ヱ門への怒りと、彼の企みに対する感心が湧いている。

 

 まさに、その時であった。




「御注進! 御注進!」




 その場にいる者全員が、名も無き闖入者へ振り返る。

 みすぼらしい物乞いのような恰好をした男の胸元には、親しい者にのみ身分を示すための割符が覗いている。織田が方々へ放っていた間者の一人であった。




「松平元康、およそ千の軍勢を率いて大高城へ入城! 佐久間殿が応戦するも生死不明の由!」




 今川方が口火を切り、織田の将を討ったとの急報である。

 矢野が、間者へ食ってかかって詳報を迫る。そんな彼を制し、藤吉郎は指示を出した。


「矢野、歩兵の隊列を見て参れ。夜中とはいえ、事がことである。上総介殿の下知が届き次第、雷速にて馳せ参じる用意を」


「し、しかし……」


「二度言わせるな」


 有無を言わせぬ藤吉郎の声に、矢野は諾と従う他なかった。

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