第3話「再三の無心」
暦は5月に入り、にわかに東海の国々へ緊張感が走った。
今川義元が駿府を発し、沓掛城に入ったという噂である。──実のところ、これは誤報であるという旨が織田家の有力武将に伝達されてはいたが、藤吉郎の悩みは尽きなかった。
(兵の動きはない、と間者からウラは取れておる。……が、周辺の民がそぞろに忙しく始めていると。──時間の問題であろう)
領主が軍を引き連れてくるのならば、接待や商機を見出した民が浮き足立つのも当然だ。未確証だが、今川方に就いている松平家が動いているとの話もある。
対する織田とて、敵の軍備をただ眺めているだけではない。織田の領地に近い今川方の城、大高城を奪うために早くも軍を派遣している。勇将と名高い
(合戦はカネが掛かり、人も馬も死ぬ。掛けた分だけ新たなカネが生まれるのはよいが……しかし、勝たねば。勝たねば、その商機を掴むべくもない)
藤吉郎の頭を悩ませるものは、何といっても、新左ヱ
新左ヱ門のアホがいなければ、もう二百の兵を出して、五百というキリのいい数字に乗せ、信長への支援を強くアピールできた可能性はある。しかし相手は今川義元であり、数千から万を越える軍勢も動員するだけの力を有した巨星を相手に百や二百の兵士を増強したとて何とする、というヤケになりたい気持ちがあった。
なればこそ、藤吉郎は『ばふぁろー』なんて与太話を持ち出してきたクソたわけの口車に乗ってみたのである。軍備を着実に、かつチマチマと増強するよりボーナスステージで一発逆転を狙ったわけだが……現実はそう簡単ではない。
大きなリターンを狙うのならば、リスクを取らなければならないのは古今東西不変の法則である。新左ヱ門の献策を実現するために、藤吉郎は相当の出費を要請されていた。
現に、歩兵二百を増援するために必要な金額よりも、新左衛門が使うという兵士百名の方が多大な負担となっている。一発逆転を狙った結果、もう、とっくに足が出てしまっている藤吉郎であった。
(俺のアホウめ、何ゆえ助平根性を出したか!)
そもそも、此度の対今川において、藤吉郎の役目は後方の守護となっている。
信長が戦っている最中に、他所からちょっかい出されないように気を配りながら
まずは主君のために己の領分を堅持することが第一であり、援軍はその次である。そのはずだった。でも、うっかり『ばふぁろー』に夢を見てしまった。見てしまったからには、仕方ない。
「仕方ないで済むかァァァァァァァア!」
と、一人で激高した藤吉郎。傍から見ると完全にやってる人に他ならず、目撃者がいないことに感謝するのであった。
──いや、居た。やはり、他ならぬ悩みの種である大バカ野郎の新左ヱ門が、藤吉郎の痴態を目撃していたのであった。
「殿。ハーブか何かをやっておいでで?」
「いや。お前こそ、随分と目がキマっておるようだが大丈夫か?」
「ご心配には及び申しませぬ。昨夜は二時間も寝れましたゆえ、ギンギンに冴えてどうしようもない程で御座る」
そこから一分ほどかけてガハハ、ワハハと笑い合う藤吉郎・新左ヱ門の主従であった。
やばい人が倍になってテンションもハイ。今川の脅威に晒されながら軍備と心労に追われる藤吉郎も中々だったが、自らの策を実現するため、日に三十六時間の戦支度という矛盾を成立させようと奔走する新左ヱ門も、まずまずのキマり具合である。
真面目に考えると、奇抜な策を提案するだけでなく、責を負って奔走する新左ヱ門はそれだけで心強い存在であった。彼自身が藤吉郎の悩みの種というのは間違いないが、人知れぬ彼の奮戦を見てきた藤吉郎にとって、新左ヱ門がバックれないのはそれだけで大したものだと評価したい気持ちがある。
今さら語るまでもないが、木下藤吉郎は、有能な男である。
その上、利に敏く、人心を得るためならば労を惜しまず、戦から兵站、普請に掃除、炊事洗濯エアコン水道ガス照明のメンテナンスまで何でもこなす器用な者であった。であるからして、新左ヱ門のように、手八丁口八丁で立ち回り、吹いた
で、有能で理知的な藤吉郎は、このタイミングで新左ヱ門が会いに来た訳をほぼ正確に察していた。
「新左ヱ門。お前、また俺の仕事を増やしにきただろう」
「はっ。恐れながら……」
「もう怒る気力も失せた。言うだけ言ってみるがいい」
新左ヱ門の努力は買うが、こんな具合に何かにつけて主の藤吉郎にケツを拭かせるのは好感が持てぬ。時間がないから同情の余地はあるのだが、段取りはクソもいいところだ。
実際のところ、新左ヱ門が後付けで送る要請によって木下軍中の
後々になり、国内でも有数の官僚制度を整え──まあ何だかんだで築いた制度をぶっ壊すことになる藤吉郎と、彼が集める配下に事務能力がないわけではない。新左ヱ門も毎日のように予算を算出し直しており、それでいて手勢の閲兵や訓練に顔を出しているのだが、時間がない。ないのだから、努力と才覚だけではどうにも繕い切れない
力業とは、すなわち、カネである。
「で、今回は幾ら必要なの?」
その様、ヒモの懇願にNOと言えない限界OLの如し。
金食い虫に抗う気も枯れた藤吉郎に、新左ヱ門は言った。
「いえ、銭ではなく殿の時間をお貸し願いたいのです」
「時間とな」
「此度の募兵では、それこそ死兵となるをも厭わぬ勇敢な者たちを集め──兵が死んだ場合に備え、彼らの家族へ十分な補償を支払うことを約束して御座る。然るに……」
新左ヱ門の理屈は、こうだ。
今回の募兵は、牛に慣れた者を、いや、むしろ牛に成れる者を(?)募るべきだと。
今川軍との最前線という死地に送るどころか、猛牛を御すだけで皮が裂け骨は砕かれ見るも無残な姿となり果てる可能性があるのだから、十人募って一人帰ればいいというくらいの決死隊を募るのだと。
そのためには、カネがいる。しかし、あぶく銭では彼らの心を掴むには足らぬ。遺族となるやも知れぬ女子供が安心できるだけのカネを約束してこそ、彼らも身命を投げ打つ覚悟を決めるのだと。
戦で死亡した兵士の遺族へ、如何なる補償をするかの規定は織田軍には存在しない。領地が平和に治まっていることのアピールとして主君が寛大な恩賞を与えることは古来よりままあることだが、基本的には、各軍を預かる将の器量と財布に委ねられている領分である。
「今回における補償は、前金となる恩賞と同額だったか」
「ご安心召されよ。それがし、多額の金子を以て兵を募ってはおりますが、前金よりは後払いの恩賞をよほど多くに配分しておりますれば」
「それが普通じゃ、バカタレ」
幾多の戦場をくぐった末、死した者の家族へ支払う恩賞とは性質が別なのだ。
そこらの村から連れて来た牛飼いだろうが、酔狂を承知で新左ヱ門に味方する古強者だろうが、たった一戦のために等しい見返りを用意するのは空しい心地がした。
「しかし殿。今川との戦で村が荒れるという最悪を予想できぬ者ばかりではないでしょうに、それでも村へ残り、家を守るために従ってくる男たちがいるのです。家を捨てずに『何か』を為したい者がいるのですから、その証となる物を用意したらば、死兵となる者も出てきましょうや」
というわけで、カネ、カネ、と無心していた新左ヱ門が今度は藤吉郎の「時間」を寄越せと言っていた。ここでいう時間とは、恐らく、報酬・補償に関する証文を用意する手間のことであろう。
「いえ。大変お手間をとらせ申すが、募兵する上限百名の兵士の内、戦のあとに生き残った手勢の者へ、面会の時間を設けてほしいので御座る。難しいとあらば、それがしに脇差しをお貸し下さりますれば」
兵たちへ顔見せするか、自分に権限を分けるか、選んでほしいと新左ヱ門は言う。
さて、現実に死兵と化すのは何人か。
百人で一軍を数えるとして、二十人ほどが死に至れば、もはやその軍は壊滅状態である。戦記を扱う物語では千を越す軍勢や万を越す大軍の四割、五割が一戦で消し飛ぶのも茶飯事だが、現実の戦では兵の一割が死んだり、三割近くが死傷すればそれだけで大惨事の領域である。
今川軍を押し止めるための肉の盾として割り切ったとて、五十かそこらは残るだろうか。全てが終わった後なら、五十人の一人ひとりに声をかけてもよい、と藤吉郎は思った。
相手は、新左ヱ門の集めた兵だ。戦が終わって気が立った兵士たちへ、募兵した彼が改めて顔を見せれば要らぬ反感を買うやもしれぬ。彼の手勢が後方に配備されるようであれば、百人全員残ることも……無いことは無かろう。その時は全員まとめて十把一絡げに扱えばいいと藤吉郎は考えた。
「俺が出張ることが兵の結束を高めるのだな。よい。約束しよう」
「ありがたく存じまする!」
新左ヱ門は、キマった目を伏せて大仰な礼を見せた。
戦後処理は死ぬほど忙しいのだが、というか、今川との戦がいつ終わるとも知れないのだが、構わなかった。例え空手形の約束であろうが、用意してやるものは用意してやるのが「殿」の責任である。
「この了承が得られたとあらば、鬼に金棒。誇張ではなく100両、200両の支援を得た心地にござる」
「貴様……さては、『主君直々に報酬を下さる』とかなんとか言って兵を募ったであろう。事後承諾で主人の身柄を得るとは、無礼な者よ」
「生き残った者、一人ひとりに、殿が会ってくださるということに大きな意味が生ずるのでござる」
含むところを覗かせる新左ヱ門の言葉が、気掛かりである。
ともすれば要らぬ媚びを売られたようで勘気に障り、藤吉郎は、言葉の真意を問うてみることにした。
「ふっ。兵からすれば顔も知れぬ我が言葉が、そこまでの価値を得るか」
「無論で御座る。──殿。恐れながら、殿はご自身の力を過小に評価しておる節が御座る。せめて、配下である拙者の前では、もう少々威張ってもよう御座りませぬか」
「かかかっ。お前ごときが説教とは笑止千万」
「さ、左様な意味では……」
にわかに慌てる新左ヱ門を見て、藤吉郎は何やらスカッとした気になった。
槍武者の落合にせよ、この新左ヱ門にせよ、藤吉郎の配下は微妙に舐め腐った言葉を聞いてくるきらいがあった。今回のように軽々しい口を聞かれるのは慣れたことだが、稀にこうして分からせてやるのも、楽しい。だから藤吉郎は、部下と語らうのが嫌いではなかった。
「そういえばお前、何故俺の軍にいる」
「はて?」
「織田家は以前から商人に保護が厚く、銭の力を理解している家じゃ。だから織田に身を寄せるのは分かる。……だが、何故俺の下におる。曲がりなりにも、お前は、舌先だけでこの俺を踊らせ、大量の金子を費やさせた。『ばふぁろー』なるまことしやかな噓まで吐いて、間者ならば大したものだ。……なぜ、織田家で身を立てようと思わぬ。眼光を血走らせてまで、なぜ、俺の下で今川に立ち向かおうとしておるのだ」
「……Buffaloならば、嘘では御座らぬ」
「ぬかせ」
当然ながら、新左ヱ門がどれほど秘密裏に事を企てたとて、彼の動きは木下藤吉郎軍下にて行われたものである。
他の者は未だ疑念を抱いているだけで済んでいるが、主の藤吉郎は違う。新左ヱ門の吐いた『ばふぁろー』にあたる生物がいないことは分かっている。彼が独自にそろえた手勢とは無関係に牛馬の用意も為されているが、毛色も、見た目も、大きさも、藤吉郎の待ち望むような異形の牛はどこにもいなかった。
「くだらぬ」
全てを破壊しながら突き進む『ばふぁろー』の群れなど、いるはずもない。
あるいは、『ばふぁろー』だけなら真実存在するやもしれぬ。だが、異国の種が、それも慣れ親しんだこの尾張の地に来訪し、今川軍を蹴散らすなどあり得るだろうか。いや、あり得ぬ。少なくともこの段階に至ってまで、陣中に姿を現さない生き物だ。到底考えられなかった。
(疲れている。なんだ、俺は。今になってこんなことを話して、何になる)
部下が何かを頼みにきて、仕方ないなと応じてやって、仕返しに嫌味を言って。
それだけのはずだった。一癖も二癖もある男を前に、酔ってもないのに戯言を吐いてしまった。
嘘でもいいではないか。『ばふぁろー』が嘘だったとて、何だというのか。
作戦の題目を誇大に吹くなどよくあることだ。事実、新左ヱ門は藤吉郎が与えたカネに対して常に綿密な報告書を作りながら、用途と金額をしたため、記録に残している。分不相応な己の法螺にしかと向き合い、逃げず、努めているではないか。『ばふぁろー』が真っ赤な嘘であろうが、此奴が何もせずにいるわけがない。それが織田家にとって奇貨となれば十分であり、どれだけカネを使おうが、ボーナスステージを夢見た甲斐があったというものではないか。
夢だ。そうだ。俺は、夢を見ていたのだ。
たまたま、『ばふぁろー』という実体を掴みやすいものだったから、騙された。時間に追われ、カネを吸われ、それでも夢を見せられた『ばふぁろ-』がいない。だから、怒った。『ばふぁろー』、『ばふぁろー』、『ばふぁろー』……織田家の宿敵である今川義元を蹴散らすような、都合の良い幻影に縋りついて、実体がないことに、怒ったのだ。
藤吉郎は、新左ヱ門を糾弾したことを恥じた。
この男に戦略の一端を委ねたのは藤吉郎である。
今さら戻れぬところまで来たというのに、意志を挫いて何になる。
最後まで騙されてやることができない、そんな己を恥じた。
「確かに、Buffaloを用意することは適わぬかもしれませぬ」
新左ヱ門は、言う。
それは主に夢見させたことを謝罪するような……、
そんな、甘っちょろい嘘つきの言葉ではなかった。
「ですが、ご安心を。本場、
「はぁ?」
今度の『ばふぁろー』は、これまで彼の口から聞こえてきたものと比べ、わずかに音が異なっていた。……ような気がした。
「我らのバッファローは必ずや上総介殿をお助けし、ひいては、殿。木下藤吉郎殿──貴方様に吉報をお届けする切り札となりましょう」
新左ヱ門の眼は、藤吉郎の疑念を受け止めた上でしかと彼の眼に合わさっていた。
瞳には、執念とも妄執ともつかぬ輝きがギラついている。完全にやっている人のそれとしか思えないほど危うい眼光であったが、しかし、それは、藤吉郎も同じであった。
「はっ……」
笑い出したくなる気持ちを、抑えきれなかった。
法螺吹きも、ここまでくれば筋金入りだ。こんなに笑える男が傍にいるのは、あるいは千金にも代えられない幸運やもしれぬ、とすら思えた。
「殿。先ほど、拙者が何故仕えるのかとお聞きになりましたな」
「あ、よいよい。ただの話のタネじゃ」
折角、冷えた空気がまたいい具合に温まったから恥ずかしい話はやめてほしいと思う藤吉郎である。
幸か不幸か、その後の会話はたった数語で終わった。新左ヱ門の、こんな言葉を残して。
「此度の戦から戻ったのち、それがしの告白を聞いてもらえば重畳にて御座る」
いや、それ絶対に戦で戻らず死ぬやつだから。
無性に引き留めたくなったが、反応したら負けという気がして何も言えない藤吉郎であった。
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