21 偶然、そして知らない人②

 それから……、春川さんは何も言わなかった。

 キッチンで夕飯を作る時、ちらっと春川さんを見たけど、何を考えているのか全然分からない。あの元カレってやつはなんで春川さんに声をかけたんだろう。別れたらそれで終わりじゃないのか? あの人は……、まるで自分の物だったように話している。


 春川さんは誰かの所有物じゃないのにな。

 それにあの強圧的な態度も……、気に入らない。


「春川さん……、夕飯」

「ごめん。今日はいらない……、部屋に入る」

「…………」


 あの時に言った嫌なことは多分……元カレのこと、俺にできるのは…………。

 よく分からない。

 あんなこと思い出したくなかったから、ずっと言わないまま俺たちと普通の日常を過ごしてたんだろう。そんな春川さんに俺は何を言ってあげれば……。帰る時、震えている手で俺の袖を掴んで、何も言わず歩いていた。


 明るい春川さんが、落ち込んでいる。

 あの日の夜、俺は夕飯を用意した後、すぐ部屋に入った。

 ベッドでどうしたらいいのか、それだけを考えていた。


「…………」


 そして、それを見た姉ちゃんも同じ反応をしていた。

 何度もノックをしたけど、春川さんは扉を開けない。


「愛莉。つらいのは分かるけど、夕飯はちゃんと食べて」


 静かな家で、姉ちゃんの声が聞こえる。

 今は方法がなかった。


 ……


 マジか、春川さんのことが心配で全然寝られない。

 それに時間はいつの間にか深夜の十二時四十分になって、夕飯を食べてない春川さんがすごく気になる。


「…………あ、もう! 何してんだよ。俺は!!」


 仕方がなく、春川さんの部屋に行ってみた。

 この前にも嫌なことがあって寝られなかったって言ったから、きっとまだ寝てないはずだ。だから、俺にできることをしよう。ちょっとだけ、ちょっとだけでもいいから、落ち込んでいる春川さんに何か言ってあげたかった。


「…………あの、春川さん。無視したいなら、無視してもいいんですけど……。俺、春川さんのことが心配で寝れません。扉を開けてください。話……、話を聞いてあげます。一人じゃ寂しいから……」


 そう言ってから五分くらい待ってみたけど、返事はなかった。

 扉も開けなかった。

 寝てるのかな? それならいいけど……。


「ダメか」


 諦めて部屋に戻ろうとした時、春川さんが扉を開けた。

 目が腫れている。ずっと……、ずっと一人で泣いていたのか?

 さりげなく俺のシャツを掴む春川さんだった。


「入って…………」


 まず部屋に入るのは成功したけど、これからどうすればいいんだ?

 聞きたいことは山ほどあるのに、この状況で俺は聞けるのか? 春川さんにあったことを。


「だ、大丈夫ですか? 元気なさそうに見えて……」

「ちょっと、嫌なことを思い出しちゃってね。まさか、あの人とそこで会うとは」

「元カレですよね?」

「そうだよ。私の元カレ、嫌な人。怖い人……」


 こういう時は、抱きしめるしかないな。

 声がすごく震えている。

 俺は春川さんが不安を感じないように、ぎゅっと抱きしめてあげた。これが効くかどうかは分からないけど、これしかできない。こうして……俺がすぐそばにいるってことを教えてあげないと。


「…………」


 世の中には……言葉で解決できないのもあるから。

 そのままじっとしていた。


「怖い……、怖いよ……。渚くん、私はあの人が死ぬほど嫌いだよ……。なのに、また私の前に現れた。またぁ……」

「はい。泣かないでください……」


 大粒の涙を落とす春川さん、心がすごく痛かった。

 一体、どんな人だったんだろう。親指でその涙を拭いてあげた俺は……、春川さんと目が合った。


 そして、俺に抱きつく。

 あれ……? 春川さんの心臓の鼓動が……伝わる。今更だけど、近すぎる。


「…………」

「渚くんは……」

「は、はい?」

「渚くんは……優しい。私ね……、ずっとあの人に……暴言を言われたよ。初めてできた彼氏なのに、クズだった……」

「だ、大丈夫です。今は……、俺と姉ちゃんがいます。だから、心配しないでください」

「…………」


 あれか。普段から暴力を振るって、暴言を吐き出して……相手を傷つけるクズ。

 あの時は人が多いところにいたから、そうできなかったと思うけど、人が少ないところだったらどうなったんだろう。そして……、俺がいなかったらもっと危険な状況になったかもしれない。


 春川さんも知っているはず。

 だから、怖いんだ。


「俺……ここにいますよ。春川さんのそばにいます」

「なんで、年下のくせに……。私のことを理解してくれるの……?」

「それは春川さんのことが……すっ……」

「うん……?」

「すごい人だと……普段からそう思ってました。明るいし、一緒に遊んでくれるし、俺……友達少ないんで、春川さんと過ごした時間は大切な思い出になります! だから、心配しないでください。すぐそばにいます。いつもいます。何かあったら、すぐ春川さんのところに行きます。約束……します」

「…………やっぱり、渚くんは可愛い。私の大切な人……」

「…………」


 そう言いながら俺をベッドに倒す春川さんだった。


「は、春川さん……? えっと! これは……」

「今日は……抱き枕いらないかもね……」

「…………え」

「…………」


 疲れたのか、春川さん……俺を抱きしめたまま寝ている。

 それはいいけど、俺……どうやって部屋に戻ればいいんだ。


「春川さ……」

「どこにも……行かないで、一人にさせないで…………だから」

「…………」


 寝言……かな。それに、全然動けない。

 仕方がなく、春川さんのそばで夜更かしすることにした。

 耐えろ、望月渚。


 耐えるんだ……。朝になるまで。

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