さいたま市戦線
まだ日が全貌を現さず、夜間の低温が維持され続けている頃。トウキョウ陸軍・第二歩兵師団第十五歩兵連隊の陣地に、最悪の目覚まし音が鳴り響く。
羽音のような風切り音――それが通り過ぎて、直後に次の同音。また過ぎ去れば、次から次に。数時間かけて掘り進めた壕の中で眠る、約二千の将兵たちの頭上を通り過ぎ、彼らを夢から引きずり戻した。
「……随分と虫がうるさいな。」
「虫じゃないでしょ、多分……これは、飛行機?」
簡易ベッドで睡眠を取っていた、矢口大尉と伊藤少尉。昨晩、トウキョウに残した家族の話をした際の余韻がまだ残っている。簡易ベッドに野外のせいで、睡眠は非常に浅くて目覚めは最悪。
頭がぼんやりとした中で、伊藤少尉はその轟音の正体になんとなく勘付いたのだ。――これはエンジンの音だ。陸軍航空隊の演習で聞き覚えがある、と。
瞬間――付近で耳を割くような炸裂音。波動が腹の底を震わせた。
「――っ! な、なんだ⁉」
「爆発……」
その音に混じって、当直兵の叫び声が擦れ擦れで聞こえた。
「敵襲――! グンマの航空機だ!」
クソッたれ、時間通りにやって来やがった。矢口大尉は壕の壁を叩き、自分の鉄帽を拾い上げて被る。壁に立て掛けた小銃を取り、弾薬箱を腰へ引っかける。
「伊藤、準備しろ! それと、自分の小隊を搔き集めるんだ! 爆撃で死んだ奴がいないか確認しろよ!」
「は、はい! 実戦だ……敵が来たのか」
戸惑い。焦燥感のある手で大尉と同じ動作をする。そうしながら、胸ポケットに手を突っ込む。――家族の写真。愛する妻に、生後間もない息子、二人を抱擁する自分。
その間にも、爆撃は続く。途切れ途切れではあるが、着実に陣地を狙っている。
爆撃機ではない、爆装した戦闘機か? 爆撃機ならプロペラの音がもっと大きいし、爆撃音も断続的なはずだ。なら、しばし耐えれば攻撃は止む。
矢口大尉は自然とそう考える、が――
「爆撃の後に何が来るか……」
今の空襲が、火点を重点的に狙った攻撃なら、厄介だ。陣地の能力が削がれてしまう。その後に来るのが歩兵攻撃か、騎兵突撃か、再びの空襲か。それが気がかり。
士官学校時代から、以降軍内での高等教育。トウキョウ軍の狭い昇進枠で大尉まで上り詰めた彼は、教本を振り返っていた。
まずすべきことは、自分の隊を確認する事。
「……爆撃が止んだな。伊藤、行くぞ。」
「あ、はい!」
小銃片手に頭を低くして、掩体から塹壕へ飛び出す。
向かう先は、自身の第一工兵中隊が守る機関銃陣地。
「おい小隊長、損害を報告せよ!」
「大尉殿! は、設置した機関銃は無事です。前方の土嚢や鉄条網がやられましたが、我が小隊は損害無しです!」
「よし、すぐさま陣地の復旧にとりかかれ。」
一つ目は無事。
爆撃が止んで以降、あちこちで将兵の声が聞こえ始めた。皆、自分と同様の行動を取っているに違いない。大尉はそう感じながら、次の小隊へ向かう。
「あ、中隊長殿! 報告します。第三小隊は、爆撃で四名が負傷、三名が戦死しました……!」
「武器弾薬は⁉」
「機関銃は無事ですが、他の隊は迫撃砲二門がやられました!」
「クソ……なけなしの火力が」
そうしている間にも、負傷者が担架で運ばれてくる。うめき声が、大尉らの耳に入り始めた。
「大尉殿、第二小隊は五名戦死です……」
「負傷者は後方へ移送! 軍医は助かる見込みのある者を手当てしろ!」
「助かる見込みって……皆を助けないのですか⁉」
「医薬品だって限りがある。戦える奴から先に助けるんだよ!」
現場指揮官として、時には冷酷な指示を下さなくてはならない。それは、共に同じ釜の飯を食らった仲間への人情を捨て、合理性を追求する事でもある。
矢口大尉は、冷静さを欠くわけにはいかんのだ。自分だって戦場は初めてで、怖い。しかし年長者であり、中隊約二百名の上官である以上は責任を果たさなければならない。
「各隊の整備が終わり次第、配置へ着け! そのうちグンマの連中が来るぞ!」
「急げ――!」 「戦闘配置!」
手の空いた者から順次に武器を取り、土壁が若干崩れた塹壕の外へ銃口を覗かせる。
負傷者と入れ違いで、後方の連絡路から弾薬箱を運搬する下士官。小隊の機関銃掩体へ走り、逐次配達する。
それを受け取る装填手が弾薬ベルトを取り出し、機関銃へ押し込んでいく。ガチャリと薬室へ弾が送られた音が、準備完了を大尉に認知させた。
「大尉殿! 爆撃で野砲一門が破壊、もう一門が故障しています!」
「野砲も駄目か……ということは、我が中隊が現状で使えるのは残り二門。火力制圧は他の隊に任せるしかあるまい。」
歩兵連隊には基本的に、一個中隊ごとに火砲四門が宛がわれている。それの半数がお陀仏になったのなら、攻守問わずにクソッたれな状況である。
「……仕方ない。大隊長の指示があるまで、総員戦闘配置で待機だ。もし敵が来たら、俺が指示する。」
大尉自身も下士官らと変わりない兵装で、再び掩体へと入った。双眼鏡を持ち、近くに電話を配置し、ただひたすら時を待つ。
**********
それは、嵐の前の静けさ。否、台風の目に入っただけだろうか。
トウキョウ軍の対空戦闘は間に合わず、グンマ軍航空隊は損害無しで反転、帰還していった。
「敵はどこから来る……正面か、迂回か。他の地域では戦闘が始まっているだろうか。」
迫る危機を前にして、矢口大尉は独りでに口ずさむ。部下の前で、気をしっかり保たなければならない。
――ふと、手元の電話に受信音。すぐさま受話器を耳へ運ぶ。
『我が連隊の前方五百メートル先に、敵部隊を確認! あれは……戦車だ! およそ十数両の戦車、後ろから歩兵が来ている! 奴ら、速いぞ――』
通信先は、恐らく連隊司令部かその近辺か。大隊を経由しているわけではない。しかし、その慌てようは聞く者を驚かせた。
『こちら第二大隊、東側陣地! こちらでも戦車を確認した! 二十両以上はいる……突っ込んでくるぞ』
混在した通信の中、今の声は途絶えた。
直前に爆発音。攻撃を受けたのだろうか。なんにせよ、矢口大尉は嫌な予感しか感じなかった。
「グンマの連中、厄介な物を投入してきたな。こっちは火砲がやられて……待て、敵はそれが狙いか?」
「中隊長! 敵が来ます」
「ちっ――攻撃用意!」
各隊、一斉に照準を定める。
先頭の戦車へ、後続の歩兵へ。その車体に銃弾が通用するかは、撃ってみなければわからない。
後方の野砲から、砲弾の装填音。射手がハンドルを回し、仰角を調整する。
直後――各中隊の下に命令が飛ぶ。
『全隊、攻撃開始』
「……撃て!」
矢口大尉の指示に伴い、射撃が開始された。
塹壕の各所から響く断続的な銃声。機関銃による弾幕。排莢の金属音。
小銃から響くは乾いた銃声。撃つ度にボルトを引き、手動排莢。
大尉も部下と共に、小銃を撃つ。
「弾切れだ、装填急げ!」
「撃てーーー!」
「仰角三〇度、撃て!」
野砲が轟く。砲弾は群がる敵の中へ落ちた。頭を抱えるグンマ兵は、すぐさま戦車の後ろへ退避。
瞬間――戦車の主砲がこちらを向く。それに気付き、伏せろ! と叫ぼうとした大尉の声は間に合わなかった。
マズルフラッシュ――戦車砲は掩体壕へ着弾し、衝撃で周囲のトウキョウ兵を吹き飛ばす。
続いて、各所で同様の着弾が相次ぐ。惨状はどこも同じ。至近弾で腸を食い破られた者、手足が損壊した者、既に息絶えた者。衛生兵を呼ぶ叫びは、苛烈となる砲撃と銃声で掻き消さされる。
「戦車が……戦車が突っ込んでくる!」
浅い塹壕の上を、泥を巻き上げた履帯が突き上がっていく。鋼鉄の怪物が頭上を走る様に、兵たちは恐怖した。
塹壕から飛び出して後方へ逃げる者は車載機銃の餌食となる。やり過ごそうと閉じ籠った物は、後続の歩兵に制圧される。通信機から聞こえる声は、『何をしている! 持ち場を離れるな!』という理不尽な命令。しかし、それを聞く者は既にいなかった。
**********
「歩兵を蹴散らせ! 武藤、装填だ」
「装填よし――」
「撃て!」
反動で砲が後退する。
多数の銃弾を引きつけ、歩兵を守りつつ前進。敵の位置がわかれば榴弾を叩き込み、野砲やコンクリートが見えれば徹甲弾で破壊する。
「見たか……これがグンマの力だ!」
「敵の防御は薄い。この敵部隊を殲滅して越えれば、さいたま市街だ。主力の到着までに突破口を開くぞ!」
装填手が砲手を兼任する〈アカギ戦車〉。その役を担う武藤伍長の腕は、疲労で痙攣している。車長は砲塔上の機銃で、敵兵を撃ち続けた。
「もう第一線の敵はいないか……なら、前進するぞ。」
「……」
塹壕にグンマ兵が飛び込んだ。トウキョウ軍陣地は陥落目前。多くの戦車が突出し、その光景はグンマ軍の優勢を思わせる。
――勝てる。生き残って、グンマへ帰れる。
若い兵士も、指揮する士官も、そう思いたかった。電撃的な浸透戦術が成功し、自分たちは一月もあれば帰れるのだと。
「武藤、草津にあるお前の実家に行ける日も近いかもな!」
「えぇ……生きて、ぜひウチで飯を食ってください。」
「無論だ。さて、最後まで任務を――」
ふと、車長の声が途切れた。
不審に思う。照準器から目を離し、車長の方を見る。――顔は見えない。だが、その体からは力が抜けていた。
武藤伍長は瞬間的に感じ、恐怖する。「車長が死んだ!」と。
『おい、敵が飛び出してきた! グレネードを抱えている!』
「まずい……こっちへ来る!」
「車長、車長!」
無線機へ届いた、味方車からの声。
直後、操縦手がのぞき窓から一人の男を視認する。手には拳銃、自分たちの側面。……社長をやったのはこの男だ。操縦手は直感的にそう思った。
思ったとてどうする。悪魔のような形相で、爆弾を抱えて突っ込んでくるこの男を、早く殺さなければ。しかし、武藤には視認しきれないうえ、照準も追いつかない。車体を回そうと試みたときには――もう目の前に。
**********
「クソッたれが……喰らえええええ!」
矢口大尉はピンを抜き、搔き集めたグレネードを敵戦車へ投げつけた。
攻撃の中、かろうじて自分は生き残った。部下の血を踏みつけて、よろめく足を抑えて。頭上を過ぎ去る戦車を見て――標的を定めたのだ。
「隊はやられた。ならせめて、敵に一矢報いる」と。
射殺した戦車長の体を押しのけ、キューポラから砲塔へ落ちていく爆弾。直後に広がる閃光は、衝撃と共に大尉の体から感覚を奪う。
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車内は血肉で溢れ、乗員の叫びは爆発で消える。
武藤伍長の足元へ落ちた爆弾は、予備砲弾を吹き飛ばす。その瞬間、砲塔が宙を舞う。火炎が吹き上がり、燃え盛って、彼らの全てを消し去った。
彼らがグンマへ戻ることは、二度とない。
**********
戦闘が市外へ前進する度に、彼らの残骸が佇む第一線には静寂が訪れる。
硝煙と血に塗れた泥の下。そこに一枚の写真があり、それ一つの手が握っていた。
幼い赤子、笑顔の女性――二人を抱擁する一人の男。父と母と子が、幸せそうに写る。
写真を握りしめる人物は、もう動かない。彼はまさしく、そこに写る父親であった。
**********
彼らはかつて、故郷の為に叫んだ。それが軍役の為でも、家族のためであっても……それぞれの郷土愛を叫んだ。
グンマ帝国万歳
トウキョウ連邦万歳
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