沼のヌシ

 シアンは沼の畔に腰掛けながら、釣りに没頭していた。

 青く透き通った湖面が風に揺れると、まるでそこに海があるかのように錯覚する。


 いずれ海でも釣りをしてみたい。


 海鳥たちの鳴く声や、船底を叩く波の音を聞きながら、釣竿を握るのだ。

 それはきっと素晴らしい時間になるだろう。


 そんなことを考えながら、魚影をじっと睨んでいると、遠くの方で煙のような物が上がっているのが見えた。

 何だろうかと思い目を凝らすと、それが大量の黒煙であることが分かる。


 遠い。本当に遠い。

 天眼の加護で見通せるギリギリのところだ。

 おそらく数キロ以上も離れているだろう。

 だが、その煙の下で何かが起きていることだけは分かる。

 しかしシアンは動かない。


 自分には関係のないことだからだ。

 それに、もし火事だとしても、この距離ならそうそう燃え広がることはないだろう。


「森が燃えてるわけじゃなさそうだな。あっちは確か関所せきしょがあるはずだけど……」


 呟きつつ、見えなくなったところで、シアンは再び水面に視線を落とす。

 釣りとは、孤独な作業だ。

 釣りとは、忍耐だ。

 カッとなりそうな気持ちを抑えられる者だけが、この沼のヌシを釣り上げる資格を得る。


 ――そんな、気がする。

 気がするだけなのだが。

 シアンは、もっぱらウキ釣りだ。

 仕掛けはオーソドックスなものを、魔法で具現化している。


 ハリスは3m。針は6号。

 餌はオキアミではなく、沼地に生息するコブシガニ。

 これは岩陰に潜んでいて、見つけたらすぐに捕まえる。

 魚の餌としても食用としても優秀で、特に冬場は味が凝縮されている。


 ヌシの餌としても最適なはずだ。


 この沼の主は、おそらくウナギ型モンスターだ。

 この世界の湖や池には、たまにこういうヤツが生息している。

 こいつの最大の特徴は、とにかくタフなこと。

 そして、非常に賢いこと。

 

 ヌシと呼ばれるくらいだから、当然と言えば当然なのだが。

 こいつらは、そのへんの雑魚とは違う。


 人間に危害を加えられないようにと、わざわざ擬態までする。


 純白の鱗を持った、推定全長五メートルのオオウナギ。

 シラユキオオウナギ。著者ホオジロ=ジローモが書き上げた、657ページに及ぶ図鑑『フィッシャー伝説』に、生態系が記されている。


 彼は、かつて海賊として世界中を旅した経験があるらしく、その知識量は凄まじい。

 さすがに全ての魚が載っている訳ではないが、それでも、かなり正確性の高い情報が網羅されていた。


 ちなみに、彼の著作にハズレなし。

 数々の著書で魚への探求心を満たしたホオジロ氏は、ある日を境にぷつりと姿を消したという。一説には、神隠しにあったとか。


 シアンは、彼の大ファンである。

 もしも再会できる機会があれば、サインを貰いたいくらいだ。

 彼が綴った数多の冒険譚を、シアンは何度も読み返していた。

 その内容は釣りバカの日記帳みたいなものだが、だからこそ、シアンの心を惹き付けて止まなかった。


「ヌシの正体は、シラユキオオウナギで間違いないと思うんだけどな」


 世にも珍しいその鰻は、透過するという。

 これは変色のワンランク上の『擬態』にあたる。


 シアンには心当たりがあった。

 何度か、不自然に水面が揺れたり、割れたりするのを確認しているのだ。

 しかし、実際に釣り上げている訳ではないので断言はできない。

 だが、可能性は高い。


「ヌシは賢い魚だし、ふつーに釣りをしてるだけじゃ、警戒して餌に喰いつかないだろうなあ。となれば、」


 すぅ、ぅぅぅぅ ぅ  

 シアンは息を殺して気配を消した。

 祈刀のモーションと同じように、大自然と一体化する。

 そして、獲物がかかる瞬間を待った。

 じっくりと、じぃっと、待ち続けた。


 ――やがて。


 かすかに、ウキが動いたような気がした

 風が無いのに、木の葉が揺れるような不自然さ。

 シアンは、その違和感を見逃さない。

 一気に手繰り寄せる。

 ぐいっと竿がしなる。

 まるで、こちらの動きを先読みされているかのようなタイミングで、抵抗がある。


 しかし、ここで慌ててはいけない。

 シアンは合わせた。

 そのまま慎重に引き上げていく。

 しなる、しなる。

 釣り人にとって、このという現象は――脳汁がどばどば溢れる一種の興奮剤に近い。


 獲物との駆け引きに勝った瞬間の高揚感は、病みつきになる。

 それは釣り人だけが味わえる感覚であり、シアンはそれが大好きだった。


 しならせる。

 もっと、しならせる。

 その先には、極上の世界が広がっている。


 ぬっ、と。

 ついに、水面から、何かが現れた。

 だが、姿は見えない。


「悪いけど、ワチは非力でね。ホオジロザメが相手でも釣り上げられるように、ちと、をさせて貰ってる」


 不可視の獲物を沼岸近くまで引き寄せると、水面がごぼりと盛り上がり、弾けた。


 魚は危機を察知すると、突然本気を出す。

 これはフナだろうと、コイだろうと変わらない。

 ――それは、一瞬の出来事だった。

 バシャァァァァァァァァァアアアアアアアアアアン!! 


 と、水飛沫を上げながら、姿を現したのは――

 なんと、体長六メートルはありそうな、巨大な魚影だった。

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