かえらずの叢
生温かい春の風が、頬をなでる。
こがね色の太陽が、照りつける。
気候は良好、体調もばっちし。
シアンはひとまず王都を目指すことにした。
(けっこう歩くだろうし、まずは腹ごしらえかな。んー何にしようか、決めた、昼飯は魚がいいな)
フォール辺境領には、イキのいい魚が生息する沼地がある。
そして、その一帯には大人の背丈よりも高い草が密生している。
近隣の村の子供たちが足を踏み入れ、ついぞは戻ってこなかったことからそう名付けられた。
もう、何十年も前の話ではあるが。
実話に勝る、怪談はない。おそらく彼らは出口が分からなくなり、立ち往生してしまったのだろう。
幼い頃。
シアンも迷路さながらの草むらの中を意気揚々と探検し、そして、ああこりゃダメだ帰れないと脱出を諦めたことがある。
マオが迎えに来てくれなかったら、どうなっていたことか。
額に汗を浮かべながら駆け付けてくれたマオは、ぐちゃりと、草の根を踏みつけながら、こう言った。
「この草むらの構造は『
あの時のマオはちょっと怖かった。
冗談なのか本気なのか判断できなかったのもあるが、なにより、その瞳の奥底にある仄暗い何かにゾッとしたのだ。
当時八歳だったシアンは、七歳年上の女を見上げながら若干引いたのを覚えている。
「燃やしちゃダメだ」
「ですが、この植物風情はわたくしからシアン様を取り上げようとしました。やっぱり燃やしてしまいましょう」
「ダメったらダメだっての。ワチは、ただ……釣りがしたいだけなんだ」
「この先に沼があることを知っているのですか?」
「木登りしてたら見えた」
「
「ちぇっ。マオは一言余計なんだよな」
マオとの、そんなやり取りを思い出しながら、シアンは草むらの中をすいすいと進んでいく。
もう、道案内は必要ない、と。
――記憶の中のマオに向けて、嘯くように。
とても軽やかな足取りで。
(今、どこにいるのかは分からないけど、ワチはお前に足を向けて寝られないよ)
彼女には、返しても返しきれない程の恩がある。
マオはとにかくシアンに甘かった。
母親を早くに亡くしたシアンにとって、マオ=ネイという存在は特別だった。
彼女は元々、宮廷勤めの侍女であり、不慮の事故で死んでしまった第三王子に仕えていたという。
自分は、王子の代用品なのだろうか。
そんな風に想うこともあったし、実際そう思わざるを得ない場面にも幾度か遭遇した。
おそらく、彼女自身は気付いていない。
最初にそれを目にしたのは、屋敷の厨房裏で大ネズミにたじろいだ時だ。
シアンは情けなくも、足下を通り過ぎたネズミにビビッてずっこけてしまった。
するとマオはぎちりと下唇を噛み、小動物に過剰なまでの殺意を向けた。
不安の芽は――例えそれが些細なものだとしても確実に、つむ、という彼女の決心の顕れ。
王子の事故と、何かしらの関係があるのだろう。
しかし、シアンはあえて詮索しなかった
彼女が自分を愛してくれていることは、疑いようのない事実だから。
本人に直接聞いたことはないが、マオは王子の護衛を兼ねた選りすぐりの侍女だった、らしい。
もし、その話が本当だとすれば。
当事者ではないシアンも、子供ながらに、それがどういうことなのかを薄々感じ取っていた。
守るべきものを守れなかった罪悪感と喪失感――それらを、彼女はずっと抱えていたに違いない。
釣り場までの道を覚えるために、何度も何度も付き添いをお願いしたのは、マオがシアンを通じて過去の自分と向き合うためでもあった。
そうすることで、彼女の中で何かが変わってくれるのではないかと、淡い期待を抱いたのだ。
草むらに火を点ける彼女を、見たくはなかった。
何もかもを跡形もなく消してしまえば、虚無しか残らないような気がしたから。
今になって思えば、お互いに欠落していた部分を補っていたのだろう。
つがいのように。
家族さながらに。
マオは過去を払拭する為にシアンを愛し、肉親に見放されたシアンは、マオを通じて愛情を知った。
それは、決して綺麗なものではないけれど。
歪で、不器用で、それでも確かな愛の形だった。
そんな関係性が、たくまずして心地よかった。
マオは、どう思っていたのだろうか。
もし再会できたなら、一度腹を割って話してみるのもいいかもしれない。
その為にもまず腹ごしらえだ。
「えーっと、たしか、ここだな」
こんなところ人が通れる訳がない――と、一見そう思ってしまう分厚い茂みを強引に掻き分け、シアンは沼地に出る。
透き通る青い水を、満々と湛えた沼。
水面に映る太陽がゆらゆらと揺れ、水棲生物たちが悠然と泳いでいる。
ここは、フォール辺境領の秘境中の秘境。
人っ子一人寄りつかない場所。
シアンは水辺に腰を下ろすと、魔法を唱えた。
「いでよ、聖なる、釣り道具」
――〈
すると、竿と糸と針と浮きが瞬時にして生成され、シアンの手のひらに収まった。
この魔法の釣り竿には、とっておきの術式をブレンドしている。
術式を組み込む際に、シアンがイメージしたのは、三つ。
1.どこまでもしなり折れない竿
2.巻きが重くならない釣車
3.サメの咬合力でも噛みちぎれない糸
これら全てを実現すべく練り上げた結果――この魔法には三つの効果がある。
まず、一つ目は、強度だ。
通常の鋼よりも、圧倒的に丈夫。
そして魚の引きに負けることなく、竿はしなって曲がってくれる。
二つ目の効果は、リールの巻きが軽いこと。
普通のリールではありえない速度で、どんどんと巻くことができる。
そして三つ目は糸の耐久度だ。
どれだけ引っ張っても切れないし、どんな魚が食いついても千切れることがない。
つまり、この竿で釣りをすれば、理論上、どのような大物がかかっても絶対に逃げられない。
この魔法の真髄は、まさにここにある。
言ってしまえば、本気で、ムダに取り組んだ証でもある。
仮にも神聖系統の列代魔法を習得した――上位魔術師が、全身全霊を傾けて編み出す類いの魔法ではない。
ただ、旅人と出会ったあの日。
無意味なことなど何一つないと知った。
シアンは一日一万回の祈刀を終えた後、よくこの場所で釣りをしていた。
もう七年近くもここに通っている。
釣り名人とまでは言わないが、玄人を名乗っても遜色はないはず。
二十一種。
シアンがこの沼で、釣り上げた魚の種類だ。
まだ、コンプには至ってない。
おそらく、あと一種。
この沼のヌシとも言える魚が、どこかで息をひそめている。
今日こそは、必ず釣ってみせる。
そんな固い意志を胸に秘め、シアンは釣りを始めた。
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