31 知らぬ君
「――お義姉様!」
その時突然、執務室の戸が開いた。驚いて振り向けば、顔色の悪いシャルロットが部屋の入口に立っていた。
錠は掛けたが、魔術で開けられたのだろう。シャルロットなら可能だ。
「……シャルロット。聞いていたの?」
「いいえ」
素の話し方を聞かれたかと思ってやや焦ったが、シャルロットは首を振った。
「思い詰めた顔をされているお義姉様が気になって近くにおりましたが、それなりに複雑に編まれた防音の魔術に侵入するのに手間取り、ほとんど聞こえておりません」
「そう……」
「ただ、一部は聞き取れました。……お義姉様はその男を疑っておられるのですか? だから還されると?」
「シャルロット……」
「どうか……お考え直しを。確かにその男は敵国の王太子です。けれど、アインハードがお義姉様に向ける……
「……」
シャルロットの紫の瞳は真剣だった。切羽詰まっているようにすら見える。
驚いた。
……シャルロットがアインハードを擁護するとは。
「今この時、その男は必ずお義姉様の力になります。ですから、どうか……」
「――意外ですね」アインハードがどこか冷めた声で言った。「まさかあなたに庇っていただくことになるなど」
「……、そこまで意外なことかしら。お前のことは気に食わないけれど、お前がお義姉様の役に立つということは、わたしがお義姉様以上によく知っているわ。お前がわたしの有用性を知っているように」
「皮肉なものだ」
は、と顔を歪めて鼻で笑ったアインハードが、シャルロットから顔を逸らす。そして改めて俺を見た。
「ディアナ様」
「何かしら」
「未だ、俺があなたを信じる理由も、味方する理由もおわかりでないのですね」
「……ええ」
「そうですか」
アインハードが執務机に手をつき、身を乗り出す。再び至近距離まで近づいた顔に驚いて仰け反るが、腕を引かれて前のめりになる。
「わからないでしょうね。……それも当たり前か。だってあなたは、ずっとわかろうとすらしていないのですから」
さらにぐいと手を引かれ――唇どうしがぶつかった。重なったのではなくぶつかった、だ。それくらいの勢いがあった。
ぎょっとする間もなく空気ごと食まれ、呼吸すら難しくなる。
ガシャン、と、アインハードが腰に差した剣の柄が机にぶつかり、重い金属音を立てる。
(バッ、シャルロットがいる前でお前……!)
焦る。
魔力を渡すにしても、場所を選べよ馬鹿野郎。
『こういう場面』を誰かに見られることなど今までなかった俺は、さすがに羞恥で赤くなったが――数秒経って、ようやく異変に気付いた。
(魔力が、流れてこない?)
目を見開いた。
なぜ。
じゃあ、接吻(これ)はなんのための。
「ン、っく……」
――苦しい。
いつの間にか後頭部に添えられた手のせいで、動けない。
なんで。何が。どうしてこんな。アインハードは……。
思考がこんがらがってパニックになる。
俺は無我夢中で手のひらに魔力を流し、全力で目の前の男を突き飛ばした。
「はっ、は……いきなり、何……」
「……わかってはいましたが、やはりお嫌ですか」
自嘲するようにアインハードが片頬で笑った。
「そうでしょうね。あなたにとって俺は所詮ただの未来の同盟相手、互いに利用価値のある他国の者でしかない。その利用価値すら、信頼ができなくなったら消えてなくなる」
「っ、お前、今のは……」
「聴かなければわかりませんか」
冷ややかな怒気に足が竦んだ。
――わからない。
わかるわけないだろ。今のはなんだったんだ。
わかろうとしていないとはどういうことなんだ。
やっぱりまだ俺には、理解できていないことがあるのか?
(それに。まさかお前が、あの時の――)
――衝撃と混乱に呆然としたまま動けない俺をよそに、アインハードがまたシャルロットを振り返って自嘲(わら)う。
「またもや驚きました。離れた瞬間に殺しにかかられると思っていましたから」
「正直なところを言うと、そうしたいけれど。しないわ」
ほう、とアインハードが首を傾げた。皮肉な笑みを浮かべたまま。
「それはまた、何故?」
「……わかるからよ。今のお前の気持ちが、わたしには、痛いほど」
「――
アインハードの顔から、浮かんでいた皮肉げな笑みさえ消えた。
シャルロットが、虚を衝かれたように目を丸くする。
「……あなたにわかるはずがない。真に彼女に必要とされるあなたには、俺の気持ちなど」
そう言い切り、アインハードが背を向ける。
次の瞬間、彼の掲げた手から闇が生まれた。そしてその質量のある闇はたちまち、彼の背をしのぐ大きさになり、宙に留まった。
これは――亜空間の入り口だろうか。
瞬間移動では辿り着けない場所に往くための。
「やめなさいアインハード! 本気で、」
「ええ。俺は行きます」
闇の中に一歩踏み出したアインハードが、僅かに振り返る。
「不要な下僕は去りましょう。
その方が、ディアナ様のためになるのなら」
「待っ――」
――刹那。
亜空間への、闇への入り口が、アインハードを呑み込んで閉じる。
そしてやがて闇は、そのまま空気に溶けるように消えていった。
「……っ」
足から力が抜けて、がくっとその場にへたり込む。
「お義姉様!」と、慌てたように駈け寄ってきてくれたシャルロットに「大丈夫よ」と返し、なんとか立ち上がる。
胸の奥に拳大の穴が開いたかのようだった。
心臓が絞られるように痛む。喪失感に痛みが伴うならばこれだろう、という空しさがそこにあった。
(……いや。これでいい)
これ以上、アインハードの力を無闇に借りるわけにはいかない。奴に甘えるわけにはいかない。反乱(これ)はこの国の問題だ。奴が参戦を良しと言っても、奴の民は良しと言わないだろう。きっと民をあいつを慕ってるはず。
俺自身もアインハードに甘えてばかりでは駄目になる。
「シャルロット」
「は、はい」
「もうお休みなさい。明日から忙しくなるわ」
「……」
シャルロットは少し黙り、そしてゆっくりと頭を下げた。「――はい、お義姉様」
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