外伝:夢現(トリップif)1


「――不味まずい」


 

 予想していた、陶器の割れる甲高い音が、整えられたティールームに響き渡ることはなかった。

 思えばそれはごく当然のことで、冬になるこの部屋には最高級の絨毯が敷き詰められているのだから、音が吸収されるのは自明だった。


 代わりに、国庫からお金を支出して買ったのであろう最高級の絨毯が、彼女がテーブルから叩き落とした紅茶で汚れる。転がった陶器のカップは、割れてこそいなかったものの――下に落とされたこの茶器はもう、この王宮に使うものはいないだろう。


「シャルロット・アンベール。お前、いつからこの王宮に仕えているの? どうして紅茶をこんなに不味く淹れられるのかしら」

「で、殿下……も、申し訳ございません」


 頭を下げると、くすくすと幾人かの女の笑い声。

 いつものごとくディアナ殿下にお追従を図るご令嬢たちだ。外務大臣リストルーヴ侯爵の令嬢、王立騎士団副団長ナージェイ侯爵の令嬢。


 不味いはずがない。

 ディアナ殿下が文句を付けようにも全ての業務が完璧で、文句を付けることができない完璧な侍女――ヒルデガルド侍女長に紅茶の淹れかたには及第点をいただいたのだ。

 それなのに、不味いと彼女が言うのは。


「……もう一度淹れ直します。少々お時間を、」

「あら、嫌ですわ。お聞きになりまして殿下。このかた、本当に鈍いのですわねえ」

「汚い貧民の血が混ざったあなたの淹れた紅茶なんて飲めないわ、と、殿下は仰せなのよ。そんなこともはっきり申し上げないと理解できないの?」

「……」


 わからないはずがない。

 もう何度も繰り返してきた屈辱の時間だ。

 

「あなたたち、わかってくれる? この無能な女をわたしの侍女につけておかなければならない屈辱を」

「ええ、殿下。心中お察しいたしますわ」

「本当。この女、伯爵の娘だからと侍女になったらしいですけれど、結局は妾腹でしょう? 格としては下働きが精々なのでは? 殿下、貧民の娘には、王宮の下働きだって過ぎた仕事でしょう?」

「まったくだわ。わたしもとっとと下働きにでもなってほしいけれど、宰相の意思があるから。好きにはできないのよ」


 そうだろう。

 あなたはわたしがいなければ、『月の神子』の立場を守ることすら出来ない。


「まあ……」 

「宰相閣下の采配とはいえ、殿下もおいたわしいことです」

「ですが殿下は次の王で、月の神子でいらっしゃるのですし。宰相閣下に気を遣い過ぎることもないのでは」

「そういうわけにはいかないのよ。宰相は病の父王を長く支え、わたしのこともよく支えてくださるわ。彼のご意見を黙殺なんてわたしにはとても……」

「殿下……」


 白々しいことこの上ない。

 

 わたしは頭を下げたまま唇を噛み、そのまま静かに退室した――王宮にはわたしをよく思わない同僚も多いが、少しでも親しくなれた侍女に殿下らのお世話を代わって貰えないか頼もう。あのままあの場にいては頭がおかしくなりそうだ。

 

 どうせこのまま話が続けば、今度はディーデリヒ様との婚約に話が及ぶのだ。

 公子がいったいなんの目的でこんな庶民出身の女に婚約を申し込んだのかしら、どんな手を使って誘惑したというの、娼婦の母親のように身体を使ったんだわ、まあおぞましい……。

 その話を聞いて、さらにディアナ殿下は加虐的になる。わたしと公爵子息の婚約を、彼女ほど忌々しく思っている人間はいないのだ。


「どうして……」


 ディアナ殿下はわたしをあそこまで目の敵にするのか。

 ここでの生活は、アンベール伯爵家でのそれよりはよほどマシだ。けれど、受ける屈辱はむしろ酷くなっている気がする。

 わたしは肩を落として、王宮の広い廊下をとぼとぼと歩いた。


 スターニオ様やディーデリヒ様のように、気にかけてくださる方はいる。

 けれど――。


「母さん。やっぱり――だめなのかな。わたしなんかじゃ、誰かを大切にしたり、大切にしてもらおうだなんて……」




 ぼろ、と、目から涙がこぼれ落ちた――その時。


 ぶわり――と、風が吹いた。


 


 一瞬視界が白飛びし、自分がどこに立っていて、何をしているのか、何も分からなくなった。


 そしてぼうっとしていた頭が晴れ、自分が先程と同じ、王宮の廊下に立っていることがわかった時――違和感を抱いた。

 

 空気が違ったのだ。

 

 差異を言語化することは、できない。

 でも、ここはさっきまで自分が立っていた場所と、同じようでいて――。


(今……いったい、何が起きて……)


 頭がうまく働かない。

 俯いて眉間を揉むと、「シャルロット?」と、わたしの名を呼ぶ声がした。聞き覚えのある声で……しかし、なぜかわたしの知るいつものよりも、軽やかで、あたたかい声音。


 おかしい。

 

 彼女がわたしに声を掛けるとするなら、からのはずだ。わたしは彼女のいたティールームから出てきたのだから。

 それなのに、今、声は響いてきた。


「……」


 おそるおそる、顔を上げる。

 そして――息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、確かに彼女――王女ディアナ・リュヌ=モントシャインだった。

 それなのに、


 彼女は微笑んでいた。

 まるで陽だまりのようだと思った。

 

 こんな穏やかな笑顔を、柔らかい光に包まれたような笑みを、彼女から向けられたことがあっただろうか。嘲笑や失笑、あるいはよそゆきの作り笑い。それくらいしか、ディアナ殿下の笑顔を見たことがなかったのに。


「どうしたの、シャルロット。固まってしまって。それに……その格好、お忍びに城下へ出るつもりなの?」

「え……あ……」


 わたしの服を――この侍女服に、なにかおかしな点があったのだろうか――見て首を傾げていた彼女は、目をぱちぱちと瞬かせてからくすりと笑った。


「周囲に内緒で外に出るのに、わたしに一番に見つかってしまっては駄目じゃない。わたしに見つかるくらいなら、ヒルデガルドにすぐ露見してしまうわよ? もう少しうまくやらないと」

「えっ……」

「わたしも最近息が詰まるから、外に出たいのだけど。やることが多すぎてそういうわけにもいかないし……城下に行くのなら、様子を聞かせてね。民の様子も知っておきたいし」


 ね、と、彼女が悪戯っぽく笑う。


 彼女が――いったい何を言っているのか、わたしにはよくわからなかった。お忍び、とはどういうことだろう。侍女長に露見? 何を言っているのだろう。

 それでも、目の前に立つ殿からは、わたしへの悪意を感じることはなかった。


「ああでもそのままではダメよ。全然お忍びになっていないもの。眼鏡くらいはかけていきなさいね?

 ……シャルロット、ロッティ、いい? あなたはとっても可愛いんだから、素顔のままで下に行ったらすぐにあなたが王女だとわかってしまうわ」

「――、え?」 

「あなたの美貌の評判は城下にもよく伝わっていると聞くし、心配なの。護衛も少数でいいからつけていくのよ。ね?」


 

 

 誰が。

 まさか、わたしのことか?


(何が……起きて……)


 彼女はわたしを間違いなくシャルロットと呼んだ。それなのに、わたしを王女と言う。

 第二王女なんてこの国にはいないはずだ。それなのに。


「……あら? あなた、目が赤いわ。もしかして……泣いたの? 一体何があったの」

「わ、わたし……」

「侍女を呼んで……駄目ね。お忍びに行くなら誰かを呼んでは意味がない。

 ……あ、それなら」


名案だ、というように、彼女がわたしを見て微笑んだ。



「わたしの部屋においでなさい。冷やした布を用意してあげるから、それで目元を冷やすといいわ」

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