番外:黒の王子の光芒
醜く、冷たいだけだった世界に希望の光が差し込んだのは、『彼』に会った時だった。
自分が魔王の血統だと知った時でも、王子の座に着いた時でも、魔国オプスターニスの西の領土を統べる王になった時でもない。
俺にとっては、『彼』――否、『彼女』との出会いこそが、全ての始まりだったのだ。
「陛下。お茶をお持ちいたしました」
「あら、ありがとう。ちょうど喉が渇いたと思っていたところだったの――」
無理を言って侍女から給仕の役割を替わってもらい、目当ての人物がおられる部屋へ入る。
入室の許可をいただき、恭しく声を掛ければ、華やかな微笑みを向けられる。
「って、なんだ。お前か」
――が。
女神を彷彿とさせる微笑みは、こちらの姿を認めると同時、気が抜けたような表情へと代わった。
そして、彼女の女王らしく伸ばされていた背はやや丸まり、花のかんばせには、今まで見えなかった疲れが一気に滲む。
――ディアナ・リュヌ=モントシャイン。
彼女はこの国の女王だ。
「……随分とお疲れのようですね」
俺は一度瞬きをして、無防備な姿を目に留められたことで胸に湧いた歓びを抑えた。
緩む唇を引き締めて、薄笑みで喜色を推し隠す。
「宰相の無茶ぶりだ。これくらいこなせるだろうという圧が困る。息をつく暇もないよ」
はあ、とため息をついて首を鳴らす彼女は可憐だったが、普段の高潔なうつくしさを感じさせることはない。親しみやすく、けれど、決して女王らしくはないからか、普段は絶対に醸し出さない空気。
――俺はこの時間がいっとう好きだった。
常に月の女神のように微笑む彼女が、俺にだけ見せる――おそらくは、真実の姿を見せるこの時間が。
くだけた、男性のような物言いと態度。
それは彼女こそが幼い自分が焦がれた初恋の相手だという証であるとともに、彼女のある種の信頼の証だった。
「今日は南方から取寄せた茶葉で淹れてみました。お口に合うといいんですが」
「ああ、ありがとう……って待て。お前が入れたのか? 茶を?」
「ええ。給仕の役割を、無理を言って替わってもらいました。自分で言うのもなんですが、なかなかの腕前だと思いますよ」
「そうじゃない。そもそも、お前は俺の護衛だろ。なんで仕事を外れて茶を入れにいってるんだ」
「もちろんそちらは抜かりなく。あらかじめ、強力な結界を張っておきました」
彼女はぱちりと目を瞬き、「本当だ……」と呟いた。仕事に熱中していて、気づかなかったのだろう。
「凄まじく強力だぞこの結界、なんつう魔力の無駄遣い……」
「せっかく質のいい茶葉が入ったと聞いたので。手ずからお茶を入れて差し上げたかったんです。ヒルデガルド女史に入れ方も教わりました」
「そのためだけにこんな隠蔽効果までマシマシな結界張ったってのか? はあ、どうしてわざわざそんなことを……」
怪訝そうに眉を寄せながら、「まあもらうが」と、彼女はカップに口をつける。白金色の長い睫毛が伏せられ、頬に影を落とした。
きれいなひとだ。
口が悪くてもなお、彼女は可憐でうつくしい。
「……うまい」
「光栄です」
「お前、本当になんでも出来るんだな。なんでわざわざ茶を入れることを学びたくなったのかはわからないが、そのへんの執事に入れさせるよりよほど美味いよ」
騎士や王子に必要な技能じゃないだろ、と呆れ気味で言う彼女は、それでも紅茶の味には満足しているのか、ほのかに口元を綻ばせている。
――そんなもの、あなたに、俺の入れた茶を飲んでいただきたかったからに決まっている。
ここ数日彼女はずっと執務室に詰めている。時折第二殿下のお相手をして、それ以外はずっと仕事だ。
即位して数ヶ月。
新女王である彼女を煩わせる雑事はいまだに多いが、護衛騎士の身分で手伝える執務はない。だから少しでも役に立ちたかったし、喜んで欲しかった――まあ、ただの自己満足だ。
「なるほど、紅茶を入れてやりたい相手でもいるのか」
「はい?」
「仮にも主を練習台に使うとは、お前も度胸がある」
にや、と、女王は意地悪げな笑みを浮かべた。思わず、頬が引き攣る。
「……なんの勘違いをされているか知りませんが、俺が紅茶を入れる練習をしたのは、あなたのためですよ」
てづから入れたものを、美味しい、と言ってほしい。アインハードのおかげで疲れがとれた、と思って欲しい。
――そんな、子供じみた願望を叶えるために、やったこと。
(口にしたところで、信じてはもらえないのだろうが)
一年近く側近をしていれば、わかる。
彼女は自分への好意に疎い。
彼女は俺の好意にも、あれ程わかりやすく重たい第二殿下の愛にも、気づいていないのだ。
「……そうか? まあ、いいんだけどな」
うまいし、と今度はやや面映ゆそうに言い、彼女はわざとらしく書類に目を落とした。お前の発言はいちいち胡散臭い、と言われなくなったことは、少しは進歩だろうか。
なんの力もない孤児だった幼少期も、ひとときだって生きることに気を抜いたことはないが、生存競争が激しい魔国での生活は随分精神を荒らした。俺の言動が胡散臭いというのなら、これまでの人生のせいだろう。さもありなんだ。
(だが、あなたにだけは、信じてほしい。俺は何があっても、何をしても、あなたの味方でいる存在だと)
俺の初恋。
俺の希望。
憎しみと恨みと絶望しかなかった、月の女神の国での生活で、一条の光を見せてくれたひと。
彼女の一番はきっと俺ではなく、シャルロット殿下なのだろう。
……まあそれもシャルロット殿下の望む意味での『一番』ではないが――俺にとっては羨望の対象だった。
「そうだ。せっかくだし、今度は一緒に茶でも飲もう。お前が成人したら、こっそり酒盛りでもするか?」
「……よろしいのですか? 俺はあなたの護衛騎士ですが」
「少しくらいは構わないだろ。お前は勝手に茶を入れてきたりするし……まさか魔族の王子が人間界の酒を飲んだところで酔ったりしないよな?」
に、と笑う彼女に、「そうですね」と返す。
――どうして王女として生まれ育った彼女が、王族らしくない振る舞いをするのか。
俺は今のところ、それを聞く気はない。
「是非、御一緒させてください」
「ああ」
シャルロット殿下も、きっとかつての王太子殿下も、ヒルデガルド女史も知らない、彼女の『素』。
少なくとも今の『彼女』は、俺だけのものだ。
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