35 父

――王の正寝は内殿の奥深くにある。



 病に伏せっている国王は二十年近くその寝台で過ごしており、ここ十年にいたっては外でその姿を見ることはほとんどなかった。

 アーダルベルトが生きていた頃はまだ執務に携わっていたはずだが、いつからかそれもできなくなった。


 そして周囲の人間は、王が執務に携われなくなろうと、あまり気にはしなかった。王の執務を代わりにこなせる人材がそばにいたからだ。


 そう。

 宰相と、その手の者である王付き医官を除けば――父のことをよく知る人間は、俺を含めて他に誰もいなかったのだ。


(ごめん)


 俺は足を動かしながら、唇を噛んだ。

 自分に対する失望が、ぐるぐると胸の内で渦巻く。――何度目だろう、この類の後悔を覚えるのは。自分のふがいなさに嫌気が差すのは。


 ……兄はいつ、宰相を『おかしい』と気づいたんだろうか。

 あるいは、特段おかしいとは思っていなかったけれど、信用に足る人物か自分で確かめようとして、あの事実に至ったのかもしれない。


 それでも、兄は、国王の異変に気がついた。

 彼にとって国王は、真の意味で父親・・だったからだ。

 ……俺は兄のそんな思いさえも、知らずに蔑ろにしていたのだ。


(ごめんなさい、国王様……アーダルベルト……)


 だが、いくら謝ってももう遅いのだろう。

 なら――今。俺は俺にできることをしなくてはならない。

 どんなことをしてでも。




 正寝に辿り着き、医官たちの制止を振り切って、アインハードと二人、部屋の扉の前に立つ。

 ――重厚で、精緻な装飾が施された扉には、とても俺の力では解錠も破壊もできなそうな、強化の魔術が多重掛けされた頑丈な鍵がかかっていた。


 しかし、俺は動揺しなかった。

 自分で壊せないなら、壊してもらえばいい話だ。



「やれ。『アインハード』」

「かしこまりました」



 あえて真の名を呼んで、魔術を使わせた。

 ……俺の都合にアインハードを巻き込むことに罪悪感を覚えたが、今さらだ。どうせ俺は自分のことで精いっぱいな凡人で、決して有能な人間じゃない。

 貸してもらえる力なら借りる。

 今借りた力は、あとから返せばいい。


 そして――さすがは魔族の王子と言うべきか、オプスターニスの西半分を支配する王でもある青年は、至極あっさりと、頑丈なはずの鍵を破壊した。


「……陛下?」


 暗い、暗い部屋の中に足を踏み入れ、まず感じたのは、甘く饐えたような臭いだった。

 どこかで嗅いだことのある、不快な臭い。鼻と口を押さえながら、俺はもう一度「陛下?」と呼び掛けた。


「眠っておられるのですか? お父様、ディアナです。どうかお話を聞いて下さいませ」


 返事はない。


 酷く嫌な臭いが満ちる暗闇の中、悪寒が全身を包んでいた。

 本能的に、灯りをつけたくない、つけるのが怖い、と思った。


 それでも、俺は歯を食いしばり――覚悟を決めると、

 明かりを灯す魔術を発動した。


「【燈よフラミエール】」


 掌の上に生み出された白銀の珠が、煌々とした光を放ちながら上へ上へと向かう。

 光の珠は天井へと辿り着くと、一際強く輝いて、王の寝室の全てを照らし出した。


 そして。



「陛下」



 ――父は、果たして、そこにいた。

 眩しい光が辺りを照らし出したにもかかわらず、目を見開いたまま、声も発しないまま、寝台の上で微動だにしなかった。


「陛下……」


 ふらふらと寝台に近寄っていき、白目の濁った父の顔に触れた。痩せ細った顔の皮膚はかさついていて冷たく、固い。


 首筋に手をやるまでもなく、口元で手を翳すまでもなく、心臓の鼓動を確かめるまでもなく、父の状態は一目瞭然だった。



 思い出した。果物が饐えたような甘い臭いは、王都の西区で嗅いだソレと同じもの。

 これは諦めと不健康と、それから――死と腐敗の臭いだ。



「……腐敗防止の魔術がかかっています」

「そうか」

「殿下」

「……ああ。もういい、わかってる。皆まで言うな」


 俺は、どうして父王が二十年もの間不調に苦しんでいるのか、たいして疑問に思っていなかった。ちらとも気にしなかったわけでもないが、特に意識を向けたわけでもない。

 父王の病は悪くも良くもならず、じわじわと弱っていくだけで――離れていた長い時間は『ディアナ』から親子の情と、彼への興味を奪った。


 父は、ずっと病床にいた。

 布団を被っていたから、身体がどうなっているのか、見舞客おれたちにはわからなかった。


 ……耳の奥で、繰り返しこだまする声がある。エウラリアの声だ。

 正確には、エウラリアが語った、宰相の地下室で見たものの話。

 切り落とされたばかりの、人間の足の話。そして、合成獣(の話。――宰相が俺やキャロルナ公爵を、国王に近づけさせなくなった事実。

 ……こだまする声は、俺に、否が応でも、嫌な予感を覚えさせた。

 

(こんな嫌な予感、外れていてくれ。どうか……)


 ――そう願いながら。

 俺は今、父の、この国の王の身体を隠している毛布を、剥がした。


 そして。

 

「グンテル・エクラドゥール……この、」



 父の身体には―― 

 両手両足が、なかった。




「外道が……!」

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