間章 黒の孤児
張り詰めたような蒼天から、しろがね色の陽光が降り注いでいる。……しかし陽の光が差すとはいっても、ルネ=クロシュ王国王都の貧民街はこの時季、底冷えするような冷気に満ちていた。
――家なしの孤児たちには、ひどく辛い季節が来ようとしていた。
孤児のうち、黒髪の少年は、しらみだらけの頭を振って、身を寄せあっていた同じ年頃の少年少女から離れると、建物の影から這い出て、通りの様子を伺った。貧しい民が多く住む王都の西区は、区内に足を踏み入れた途端に治安が悪くなる。
みなしご同士身を寄せあっているのは、こうでもしないと暖が取れないからだった。そして少年がそこから離れなければならないのは、身体が冷えようと、どうにかして食糧を調達しなければならなかったからだ。
冬季になれば、少年らのようなストリートチルドレンはその数を多く減らす。しかし、権力者たちがそれを顧みることはない。むしろ、汚らしい家なしなど、減ってくれた方が大いに助かるということなのだろう。
(こんな世界、何もかもが糞だ)
かといって、助けてくれと神に祈ってもふざけるなと運命を呪っても、何も変わらない。
唇を噛み、人の間を縫うようにして通りを駆ける。「うわ、汚えなあ」「臭いわ。信じられない」「嫌だ、孤児……?」――軽くぶつかっただけで財囊をすり取る技術は、物心ついてからずっと孤児として生きていれば、当たり前のように身につく。罵倒も好きに言っていろ。あとで泣きを見るのはお前たちだ。
……けれど、その日は運が悪かった。
最後に財嚢を抜き取ったちんぴら男が、目敏かったのだ。おまけに動きも素早く、その男はスリに遭ったと気づいたその瞬間に手を伸ばし、少年を捕獲した。
「てめえクソガキ、俺の財布スりやがったな!」
「っ……!」
少年が取り落とした財嚢を見つけるやいなや、男は眉を吊り上げ、拳を振るった。
ガッ、という不快な音が耳のそばで破裂し、少年は頬を殴られた勢いのまま石畳の地面をころがる。
「……」
痛みと怒りと悔しさ、屈辱に震えながら顔を上げれば、男はますます腹立たしそうな顔になり、「なんだその目は!」と怒鳴った。
「そもそも! 孤児が!」
「ぐっうっ」
「我が物顔で! 表通りを走ってんじゃねぇよ! 身の程を知れ!」
「うっあっ」
背中を蹴り飛ばされ、踏まれる。鈍い痛みに蹲って頭を抱えると、さらに背中、肩、腰と、好き勝手蹴られる。まだ腹を守れているだけマシか。
なんであれ、周りは見て見ぬふりだ。それどころか、薄笑いすら浮かべている者もいる。
(ほらな)
泣いて許しを請わない子どもにさらに苛立ちを募らせたのか、男は身体の隙間から足を滑り込ませて腹を蹴り上げようとする。
つま先が鳩尾に入れば、ただ痛いじゃ済まないだろう。
「おい、クソガキ、聞いてんのか!」
(助けなんて、来ないんだ――)
「やめろ!」
しかし、すぐに襲い来るはずの痛みはやってこなかった。
その代わり、その鋭く、甲高い声が轟いた瞬間、自分を蹴っていた男がよろめいて倒れるのがわかった。
「こんな小さい子相手に、いい大人が何やってんだよ!」
――頭まで隠れるつくりの、深い紅の外套を着た子どもが、少年を、庇うようにして立っていた。
この……背丈からして一歳か二歳か年上なだけの、少年とそう変わらない子どもが、男に思い切り体当たりをしたらしい。小さい子、というのなら、自分だってそうだろうに。
男は憤怒に顔を真っ赤にさせ、「何しやがる!」と、子どもの顔を殴りつけた。
そして子どもは呻いて冷たい石畳に転がった。怒りに任せてやりすぎたと思ったのか、男が一瞬、顔を蒼白にした。
うつ伏せに倒れた子どもは、意外にも早く立ち上がったが、口の中が切れたのか、あるいは鼻に拳が当たったのか、顔からぽたぽたと血を流している。
「逃げよう!」
「っおい、」
怪我を負った子どもは、顔を隠すフードごと顔を片手でおさえると、残った片手で少年の手を取り、駆け出した。素早い判断に、男はぽかんとこちらを見つめるだけだ。
お構い無しに、二人で走り出す。
表通りを出て裏路地に入れば、そこはもう少年の庭だ。子どもを連れていたとして、撒くのはたやすかった。
十分に距離を取ったところで、体力がないのか、いつの間にやら手を引っ張られる側になっていた子どもが、「あひがとう」と言った。「り」が言えなかったからか、子どもは恥ずかしそうに、「……ごめん、殴られたから、なんかちょっと喋り辛くてさ」と付け加えた。
「……お前、何で俺を助けたんだよ」
「えっ?」
「その格好……いいとこの子どもだろ、お前。それに、俺みたいな孤児をかばってムダに殴られて、バカなんじゃないのか?」
いい物など見たことがない少年でもわかる。この子どものマントは誂えが格別だ。相当な富豪か、そうでなかったら貴族の子だ。
だというのに。
「……孤児を助けて、正義の味方にでもなったつもりか? そもそも、誰もお前に助けてほしいなんて言ってない」
いいことをした、と、誇ってでもいるのだったら迷惑だし、腹立たしくてならなかった。
吐き捨てるように言えば、子どもは無言で少年の方に顔を向けた。表情は分からなかったが、ぽかんとしているようだった。
「……なんだよ」
「いや……確かに君の言う通りだなって思って。そうだよな」
どこか落ち込んだ、しかし納得したような声で言った子どもが、軽くかぶりを振る。
「体が勝手に動いたとはいえ、自分の都合ででしゃばって、結果殴られた俺といっしょに逃げてくれて、しかも途中からは手を引いてくれた。きっと、一人でも逃げられただろうに……君は優しいな」
(優しい?)
自分が?
まさか、と思った。
少年は生まれてこの方、優しさなんてものに触れてはこなかった。
親の顔すら朧げな孤児だ。母は父に捨てられ、着の身着のまま少年を連れてここに住み着き、病気で死んだ。少年がまだ幼子と言える年の頃の事だ。父の顔にいたっては一度たりとも見たことはない。
「それは……置いていくのも、寝覚めが悪いだろ。それにお前が生きて帰って、家に告げ口でもされたら、俺が処分されるかもしれないし」
「ええ、そんなことしないのに…………いや、そんなことをされそうな子どもたちがここにはたくさんいるんだよな」
呟いた子どもが目を落とす。
さすがにもう止まったようだが、今まで流れてしまっていた血が、外套の胸元に濃いシミを作っていた。
「……顔、大丈夫か」
「うん、大丈夫。……やっぱり君は優しい子だ」
俺さあ、と子どもはどこか自嘲するような声で言った。
「……俺さ、ついさっきまで、自分が世界一不幸なんだって、割と本気で思ってたんだ。若くして死ぬ、残酷な運命が待っている人間になってしまうなんて最悪だ、なんて自分は可哀想な奴なんだって。……だからここから逃げ出して、もう何もかも放り出してやりたいって。――でも、逃げるのはやめるよ。俺は俺の、最低限の責任は果たさなきゃいけないから。今日君と、ここを見て、そう思った」
「……? お前、さっきから何の話してるんだよ」
子どもは答えず、代わりに少年に、「お前はこの国が嫌いか?」と問うた。
問いはあまりにも唐突だったし、問われた理由もわからなかったが、質問の意味はわかったので少年は答えた。「――嫌いだ。何もかも腐ってる」
「そうか。そうだよな。……うん、わかった」
「はあ? 何がだよ」
「俺がなんとかしてみせる。……きっと君と、君の大切な人が、おなかいっぱいメシを食って、いっぱい笑えるようにしてみせる。何もかも投げ出して逃げるのは、そのあとだ」
「は……?」
風が、目の前の子どもの外套を揺らす。
ちゃり、と金属質な音がして、外套のあわせから、金の精緻な細工が施された指輪が飛び出した。どうやら鎖に通して首から下げているらしい。
(月、が彫られてるのか?
それも満月じゃない。三日月だ。金色の……)
奇麗だ、と、そう思った。
その高価そうな指輪は、彼が奪おうと思えばいくらでも奪えた。しかし少年は、その美しい指輪を盗もうとは思えなかった。子どもの顔はわからないのに――その指輪は、彼、あるいは彼女にこそ相応しいと、なぜだかそう思ったのだ。
「この国を見放さないでくれとは言わない。でも、俺は、全力を尽くすと誓う」
子どもが少年の手を、包み込むようにして両手で握った。
あたたかな体温に少年はぎょっとして、しかし、振り払おうとは思わなかった。子どもの手のあたたかさに、全身がぽかぽかと心地よい熱に包まれるかのような感覚がした。
「じゃあ、もう行くから。……あ、それはやるよ。俺の偽善っていうか、なんというか、まあ、勝手にしたことだから、中身は好きに利用してくれ。『仕事』も邪魔しちゃったことだしな」
その言葉にはっとして手の中を見れば、いつのまにか財嚢が握らされている。
「それじゃ、俺はこれで、」
「――、待って」
「ん?」
足を止め、子どもが、足を止める。振り返ってこちらを見ても、顔はよく見えない。
「お前、いや君の、名前は……?」
「え、俺の? うーん、ええと……そうだな」
金の三日月の指輪が胸元で揺れる。フードの隙間から、かすかに笑顔を浮かべている。
「――ロッティ、と、そう覚えておいてくれ」
子どもはそう言って、そのままどこかへ去って行った。
「ロッティ……愛称、だよな」
本名を知りたかった、と思って――なんでそんなことを思うんだ、と同時に疑問がわく。
ちらりと見えた微笑みが、頭から離れない。胸が熱く締め付けられて、息がしにくい。美しい金の指輪が揺れる音が、まだすぐ近くから、聞こえてきているような気がする。
おだやかで、やわらかな声が、耳の近くでしているような、気がする。フードの隙間から覗いていた笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
(なんだよ、これ……)
意味もなく高鳴る心臓に戸惑いながら、少年は奥歯を食いしばった。
――そうして彼は、これから自分の一生を捧げることになる、
彼にとって唯一無二の恋をした。
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次回から
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