即効性の蠍毒

「畜生!」


 五年目の彼氏が所帯持ちだった。


 三十歳の誕生日。夜景が眩しいディナーの席で、隠し事の封が解かれた。メインディッシュのフィレステーキが運ばれてきた、そのすぐ後だった。


 叩いた水面が跳ね、四十三度の飛沫で濡れ鼠になる。


——何が、奥さんにはバレてないから大丈夫、よ!


 初恋だった。いつでも優しくて、他人の命を扱う職場でずっと気を張り詰めているあたしに与えられた、天からのご褒美だと信じた。肌に張り付いたワンピースへ、レースをあしらった下着の輪郭が浮かび上がる。


 殺してやる。


 心に思った。


「殺してやる」


 口にも出した。


 華奢な装いを脱ぎ捨てて、ざんぶと頭から湯を被る。身体を拭き取り、髪を巻き、レザー素材のセットアップへ袖を通す。ハイヒールは、彼にぶちまけたワインより赤い。路地裏の公衆電話に、純金のコインを押し込む。番号を打たずに取り上げた受話器の先に、人の気配がする。


「ボス。あたし休出するから」

『ご機嫌よう、スコーピオン。意外に純情だな』

「本気だったの!」


 受話器を叩きつければ、老獪な上司の声が止む。網膜には、成分不明の中毒死を遂げることが決まった、ほんの数時間前まで恋人だった男の姿が焼き付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る